4 彼女のお願い ①
□一樹 6:10
「…………」
「…………」
どこか遠くで雀が鳴いている。
心地よいとはお世辞にも言えない眠りから目を覚ますと、目の前にやたらとごつい男の顔があった。本気できつい。
「おはよう、一樹」
「……何をしてるんだ東」
「それは、こっちのセリフだ…」
身体を起こした僕が辺りを見回すと、そこは大学構内にあるベンチの上だった。朝の六時? まだ学生が誰も居ないじゃないか。
「それで一樹は何で外に寝ていたんだ? 泊まり込みで、薬剤で酔っぱらったか?」
「……ヒンガシは泊まり込みだったのか?」
「おう、課題で悩んでしたら夜中になっててな。朝飯を買いに駅まで行ってきた」
「そっか……」
何となく気が抜けてベンチに座っていると、中等部からの同級生で190センチの大男…東昇は、いつもの絵の具だらけの白衣のまま、僕の隣に腰掛けた。
「まぁ良く分からんが、とりあえず食え」
「…さんきゅ」
何処かノスタルジックなアンパンと瓶牛乳を受け取り、有り難く友の厚意をいただいていると、糖分が補給されたからかやっと頭が動いてきた。
「ヒンガシ、…今日は何日?」
「10月2日」
「女の子が僕を担いで、学校の端からここまで来られると思うか?」
「……どこのアマレス選手だ。お前、身長体重幾つ?」
「175の60」
「もっと肉を食え」
「………」
結論として無理だと分かった。それに…。
「一樹…、シャツに穴が開いているぞ」
「……昨日まではなかったよなぁ」
僕が着てたシャツに昨夜浴びたはずの血の痕は残っていない。
でもその替わりに、シャツに解れたような穴が幾つか開いていた。
何がどうなったのかまるで分からない……。そもそも昨夜の出来事そのものが、僕にとって現実感を欠いていた。
あの出来事が夢だったら何処までが夢なんだ…? 夢でないのなら、あの子は無事なんだろうか……。
あの子の存在自体が夢じゃないと言い切れるのか…?
「一樹……何でお前は、身悶えしながら悩んでるんだ?」
「……それが、何を悩んだらいいのか…」
「そこからかよ」
不思議で不自然な体験。
僕はどうしても納得出来る答えを見つけることが出来ず、悩んだあげくに馬鹿な考えに辿り着いた。
「なぁ、ヒンガシ……悪魔っているのかなぁ…」
「おっはよ~っ」
講義は出なくても、アトリエに勝手に人が集まり出す朝の八時過ぎ。
あの人なりの挨拶なのか、薫子先輩が後輩や同級生だけでなく、卒業制作で徹夜していた先輩の頭までポカポカ叩きながら、僕たちの所までやってきた。
「…薫子先輩、おはようございます……」
「何だ一樹くん、しけたツラしてるなぁ。あの子は見つかったかい? それとも声を掛けたら逃げられたかな?」
薫子先輩が何処か楽しそうなのは置いておくとして、実際それどころの話じゃなかったので言い淀んでいると、隣にいた東がボソッと漏らした。
「一樹は脳が疲れているんです」
「…………」
やっぱり言うんじゃなかった、と頭を抱えていると、そんな僕に薫子先輩はニンマリとした笑顔を向けてきた。
「そっかそっか、頭が疲れている時には甘い物が良いらしいよ~。ほら」
既視感を感じながら身構える僕に、薫子先輩は鞄から缶飲料を取り出した。
「新製品らしいよ~?」
「……この時期に熱々の缶入り汁粉なんていりません」
「何で二つあったブラック珈琲枠の一つを汁粉に替えるんだよ~…、悔しいから絶対に飲みな、コンチクショーっ」
要するに今回は間違って買っちゃったのか……。無理矢理僕に渡された缶入り汁粉には『新製品、糖分200%増量』とか、またふざけたことが書いてあった。
「これはあれか? 学校側から生徒への挑戦状か? 業者が仕掛けたブービートラップの一種か? お汁粉だけに甘い罠なんて親父臭溢れるギャグでお茶を濁すつもりか、って聞けよ、一樹くんっ」
「へ? 薫子先輩、酔ってんすか?」
「素面だよ」
薫子先輩に頭を鷲掴みされてギリギリ絞められていると、そんな僕を見かねて東が助け船を出してくれた。
「ところで薫子先輩、講義の時間は大丈夫なんですか?」
東の話題逸らしに薫子先輩はキョトンとした顔をして。
「……ぁああああああああああああああああ、忘れてたぁああああああああっ!」
「…講義を?」
「違う違うちがぁうっ! ああもう、あの子も授業があるのに一樹くんが素直に受け取らないから忘れちゃったじゃないっ」
「そんな無茶な…」
珍しく慌てる薫子先輩に、魔の手から逃れた僕と東が思わず顔を見合わせた。
薫子先輩は突然立ち上がり。
「行くよ、一樹くんっ」
「講義じゃなくて画材の買い出しですか?」
「そうじゃなくてぇ…一樹くんにお客様よ♪」
慌てていた顔がにこやかに変わり、僕はその視線を追ってみると。
「……あの子は……」
アトリエの空間から切り抜かれた一枚の絵のように……、入り口から僕の視線に気付いてゆっくりと頭下げる、裾の長いセーラー服の少女がそこにいた。
「なんかねぇ、あの子、一樹くんの学生証を拾ったって言ってたよ。出来れば『直接お渡ししたいです』…なんて言ってて、今時珍しい健気な子よね~」
途中で正体不明の物真似を入れていた薫子先輩が、唐突に僕の耳を引っ張る。
「で、…あの子だよね?」
「そのはず…です」
「なかなか繊細そうな女の子さんですな」
爺さんのような発言で東も会話に混ざり、僕はポケットを捜してみると確かに学生証は消えていた。
どうしてあの子は僕に会いに来たのか?
昨日の出来事は何だったのか?
彼女は一体、何者なのか……?
色々分からないことだらけだけど、まずあの子と話してみなければ何も始まらない。
「…行ってきます」
何故か、10秒ほどで制作した画用紙の『日の丸旗』を振る二人に見送られて、僕は彼女が待つアトリエの入り口へと向かった。
「すみません……これ、お返しします」
静かに頭を下げた彼女は、そう言って僕の学生証を両手でそっと差し出した。
「あ、…うん、ありがとう」
少し緊張気味に僕が笑いかけると、彼女もやっと淡い微笑みを見せてくれる。
彼女は確かに、あの夏の終わりに出会い、僕が描いてみたい願った女の子だった。
でも……この子は本当に、昨夜の『少女』と同じ存在なのだろうか……?
この世界に居ながらも、違う世界に存在するような、この儚げな少女と、
月の光に照らされて輝くような、可憐で甘い夜の花……。
その二つがどうしても僕の中で結びついてくれない。
それでも……
ジッと見つめてしまった僕の視線に頬を染めて、恥ずかしそうに俯く彼女は、幻ではなく一人の女の子なのだと安心してしまった。
「えっと…、わざわざごめんね」
「い…いえ…」
「それと……話があるんだよね? たぶん」
学生証を確保してまで僕に会いに来たのなら、彼女も昨夜のことで何か話があるのだと思った。
彼女は僕の言葉に静かに頷くと、真剣な瞳を向けてきた。
「はい…、少々お時間をいただけますか?」
「うん、……分かった。君も授業があるよね? 中等部まで歩こうか」
これからする話は他人に聞かれたくないはず。そう考えて提案すると、彼女も意図を理解してくれたのか、もう一度深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
大学から中等部までは、高等部を挟んで真っ直ぐな並木道が続いている。
道沿いに点々と置かれているベンチでは、よく誰かがお弁当を食べている姿を見かけるけど、朝のこの時間はさすがに誰も居ない。
煉瓦敷きの道で、踏まれた気の早い落ち葉が小さな音を立てて。
「あの…私、中等部一年の御崎小花と言います…」
不意に立ち止まった彼女がそう言ってまた頭を下げた。
正直に言えば名前を教えてくれると思っていなかった。僕は内心驚きを隠しつつ足を止めて振り返る。
「あ、僕は五十根…」
「一樹さん…ですよね。失礼ですが、学生証を見せていただきました…」
「うん…そうだったね」
別に失礼とは思わなかったけど、良いお家のお嬢さんなのかな? でも…あれ?
「……僕、変なことを言った?」
「いえ、その…」
彼女は何となく楽しそうに緩んでいた自分の口元を手で押さえて、不安そうな僕に、恥ずかしそうに小さく呟いた。
「…その……『ぼく』って…」
「ああ、」
なるほど、そうだよね。大学生の男が『僕』とかあまり言わないからね。
「高校の時に直そうかと思ったけど、直らなかったなぁ……やっぱり変かな?」
そう尋ねてみると、彼女は何故か嬉しそうに目を細めながら首を振る。
「いいえ。……私は好きですよ」
ふんわりとした優しい笑顔。きっとこれが彼女本来の顔なんだろう。
思わず見蕩れそうになって、コホンと咳を払いながら僕は話題を変えた。
「でも、まだ一年生だったんだね」
「……見えませんか?」
「そうじゃないけど、……他の子はもうちょっと騒がしい感じがして」
「そうですか…」
「………そうだ、小花ちゃんは、…あ、ごめん、名字のほうがいいか」
少しだけ寂しげになった彼女に、また話題を変えてみると少しだけ笑顔が戻った。
「名前で呼んでください。……そのほうが安心するので」
安心する……。そんな言葉が何故か寂しげに聞こえた。
小さな身体で何かを耐えるような彼女…小花ちゃんの姿に僕は昨日のことを思い出して聞いてみる。
「もしかして、傷が痛い…?」
小花ちゃんは自分の胸を刃物で刺していた。怪我をしているようには見えないけど、僕が尋ねると彼女は目を閉じて胸元に手を添える。
「いいえ、痛いのは傷ではありませんから…」
「………」
痛いのは…『心』だろうか。そんなことを思ったけど聞くことはできなかった。
何となく会話が続かなくなって、沈黙の中を二人で歩いていると……。
「昨夜のことは……忘れてくれますか?」
また唐突に小花ちゃんの声が僕に届いた。
唐突ではあったけど僕も予想していた言葉だったので、驚かずに足を止める。
「小花ちゃんは、そのほうがいいの…?」
そう尋ね返すと、小花ちゃんも足を止めて小さく視線を落とした。
「………っていました」
掠れるような声が零れて。
「そう…思っていました……。忘れたほうが…いいって」
小花ちゃんは再び上げた琥珀色の瞳を、真っ直ぐ僕に向ける。
「五十根先輩は…『異法使い』ですか?」
「……え?」
エレナさんにも言われたことを小花ちゃんにも言われた。
思っていたよりも普通の言葉なんだろうか……。それとも小花ちゃんとエレナさんに何か関係があるのか。
彼女達が言う『異法使い』が何なのか僕は知らない。エレナさんも教えてはくれず、二人は僕の何を見てそう思ったんだろう?
「……えっと…」
確かに僕は、他人とは違うことが出来る。でも僕は小学校の頃に気付いたそれを両親にすら話して無く、知っているのは口が堅い…というか、必要なこと以外話さない東くらいだ。
出来ればあまり人に知られたくない。でも、とぼけることは簡単だけど、僕の言葉を待つ小花ちゃんの真剣な、……縋るような揺れる瞳に嘘をついてはいけないような気がした。
「僕はそれが何か知らない。……でも不思議なことは出来る…と思う」
それを聞いた小花ちゃんの顔に微かな希望と、……そして焦りと罪悪感のようなものが浮かんだ。
「小花ちゃんは……どうして僕をその異法使いだと思ったの…?」
気になったことを聞いてみると、小花ちゃんの肩が小さく震えて……
「……生きて…いてくれたから」
僕を見つめる琥珀色の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「生きてて……生きてくれてて…良かった。……死なせちゃったかと…思った。…私のせいで…五十根先輩が死んじゃったって…」
小花ちゃんは溢れる涙を両手で押さえて泣いている。
僕が『死ななかった』から異法使い?
話を聞いて尚更分からなくなったけど、それでもこの小さな肩を振るわせている女の子に、これ以上聞くことは躊躇われた。
壊れ物に触るように、そっと小花ちゃんの細い髪に触れると、指先に繊細なサラサラとした心地よい感触が伝わってくる。
そのまま小花ちゃんが泣き止むまで彼女の頭を撫で続けて……。
「……ごめんなさい。泣いたりして…」
やっと泣き止んだ小花ちゃんが、目元と頬を恥ずかしそうに赤くしていた。
「いいんだよ。それよりも僕に話して良かったの?」
小花ちゃんだって全部誤魔化したほうが気が楽だと思う。そう思って聞いてみると、彼女はまだ少し鼻をハンカチで押さえながら静かに頷く。
「はい…、先輩が知りたいことはすべてお話しします。命を落としかけた五十根先輩には知る権利があると思いますから…」
小花ちゃんは「それに…」と申し訳なさそうに続けて。
「お願い…したいこともありました…」
そこまで話した小花ちゃんは、何故か恥ずかしそうに頬を染めて胸元を隠すような仕草をした。
「………」
そう言えば……まだ子供とは言え、見ちゃったんだよね……。ちなみに横を向いていたからほとんど見えなかったけど。
そんなことをちらりと思った僕に、小花ちゃんは頬を染めながらも話を続ける。
「…ですが、この『話』は一度聞いてしまうと、知らなかったことにするのは難しい話です。知ってしまえば確実に世界を見る目が変わります。……それでも『真実』が知りたいのなら、今夜0時に昨夜の場所にまで来て下さい。……来られないようなら私も忘れます。先輩も私のことは忘れて下さい……」
何度目だろうか、小花ちゃんはまた深々と頭を下げた。
忘れる……? 小花ちゃんのことを?
僕は本当に真実が何かよりも、この儚げな女の子が、忘れることで本当に消えてしまいそうな、得体の知れない恐怖を感じた。
その小花ちゃんは何かに怯えるようにずっと頭を下げている。
儚げで繊細な…か弱い、小さな女の子。
僕は小花ちゃんにそっと近づいて……。
「……ぁ、」
小花ちゃんは頬に触れた暖かな感触にやっと顔を上げてくれた。
「それは…?」
「うん、さっき大学の先輩に、間違って買ったのを押し付けられちゃった。いくらなんでもこの季節に、温かくて凄く甘いものなんて飲めないよ」
あのまま持ってきてしまった缶入り汁粉を手で弄んでいると、小花ちゃんもクスッと笑う。
「小花ちゃん、話を聞きに行くよ」
出来るだけ真面目にそう伝えると、小花ちゃんは一瞬泣き出しそうな顔をして、また深く頭を下げた。
「小花ちゃん、頭下げすぎだよ……。それより授業が始まっちゃうんじゃない? 急いだほうがいいかも」
「は、はい。……ありがとうございます」
小花ちゃんも気付いて、慌てて中等部の方へ小走りに駆けだした背中を見送っていると、小花ちゃんは不意に立ち止まって振り返る。
「どうしたの? 忘れ物…?」
「あの……それ、いらないのでしたら、私がいただいてもいいですか…?」
恥ずかしそうにそう言って小花ちゃんが指さしたのは、僕が持て余していた缶入り汁粉だった。