3 甘い蜜の香り ②
本日四話目
□小花 11:15
桜崎附属の中等部では週に一度の割合で『宗教』の授業があります。
別に怪しいことや偏った知識を教える訳ではなくて、世界の宗教の割合や、宗教が元になって起こった争い、宗派や国による考え方の違いなんかを教えてくれるもので、知識が偏らないようにするためですね。
「…このように同じ神様を祀っていても、国によって解釈は様々なものになるのです。簡単に言いますと『自分の都合がいいように』ですね」
そう言って中等部すべての授業を受け持つ『宗教』の講師はクスッと笑う。
特に試験がある訳でもなく、ともすれば興味が薄れがちになる科目だけど、クラスのみんなは真面目に聞き入っていた。
腰まで真っ直ぐに伸びた金色にきらめく髪。
透き通る宝石のような翡翠色の瞳。
すべてはこの桜崎学内教会施設責任者、うら若きロシア人宣教師、シスターエレナのおかげと言っていいでしょう。
シスターエレナには『華』がある。
他人から注目を集める人は、多かれ少なかれ『華』がある。
生徒達に慕われる『徳』がある教師でも、嫌われた教師の『悪徳』でもそれは変わらない。
人が人を想い、それを認める思いは、その人の『力』になる。
その『力』はその人をさらに輝かせて、さらなる思いを集めていく。
世界的な映画俳優が、何処にいても誰かに追われ続けるように。
有名なスポーツ選手が、多数の声援を受けて大きな記録を残すように。
悪い政治家が多数の批判を受けるほどに、その存在感を増すように。
歴史的な芸術家の作品が、時を経ても忘れ去られることがないように。
誰かがその『存在』を『認識』する想いは、その『力』となる。
(………来る)
私が心でそう呟くと、一瞬だけ教室をほのかな甘い香りが満たした。
それに気付いたシスターエレナや数人のクラスメイトが顔を上げて……。
ヒラヒラと……
窓の外を真っ白な蝶が舞って、そのまま遠くへと飛んでいった。
***
□一樹 19:05
僕は一人の女の子を捜すために、かつて通っていた中等部の敷地を歩いていた。
時刻はもう夜の七時を過ぎていて、辺りは暗くなり始め、下校時間はとうに過ぎているので生徒の姿は何処にも見えない。
どうして僕がこんな時間にうろついているのかというと。
「笹本先生もこんな時間まで引き止めるなら、晩ご飯くらいご馳走してくれてもいいのになぁ……」
放課後を狙って中等部にやってきたら中学時代の担任に捕まって、老教師の世話話から解放された時は、生徒が居てはいけない時間になっていた。
「……帰ろ」
とりあえず大学に顔を出してから帰ろうと歩き始めると、誰も居ないせいか中等部時代の光景を思い出す。
思い出にある道を進んでみると、そこにはあの頃良く通っていた学内教会が記憶のままに残っていた。
当時は陽気なイタリア人のお爺ちゃん牧師が責任者で、面白い話……特に女性関係の話を色々聞かせてくれて、高一までは毎週のように通っていた。
彼はイタリアへと戻り、今の教会は二年前からロシア人のシスターに責任者が替わっている。
美しい彼女は大学でも良く話題に上がるけど、僕は彼女が少し苦手だ。
夜遅くまで祈りの声が聞こえると言う、見目麗しい敬虔な聖職者。……その完璧さがあのイタリア人牧師のような気安さを感じさせないのかな……。
「こちらに何かご用ですか?」
「っ!?」
突然後ろから呼びかけられた僕は、悲鳴こそ飲み込んだけど思わずその場で飛び跳ねてしまった。
そんな僕に、
「…あら、驚かせてしまったかしら」
彼女は楽しそうに笑って金色の髪が揺れていた。
「い、いえ…誰も居ないと思っていたので……。えっと…シスター…」
「エレナです。初めまして…」
会釈するエレナさんは、ジッと僕の顔を見る。
「…と言う訳でもなさそうですね。卒業生の方ですか?」
「あ、はい…五十根一樹です。去年まで高等部にいました。でも僕のことが分かるんですか? 高等部でも結構な数が居ますけど」
「ここに赴任して二年になりますもの。生徒さんの顔くらい、もちろん……」
エレナさんは何故かそこで視線を逸らし、顔を戻した時にはまったく別の話題を振ってくる。
「それはそうと、こんな時間にどうなされたのですか?」
「えっと…人を探しに来たのですが……」
「こんな時間に…? 先生方ですか?」
「中等部の生徒…のはずです。実はさっきまで現国の笹本先生に捕まって、世間話に付き合わされていたんですよ」
「あら、まぁ…、笹本先生はお話し好きですからね」
エレナさんは花のような笑顔でコロコロと笑う。
「さっきから笑ってばっかりで…、さっきも驚かせてごめんなさい」
「いえいえ、驚いたのはあなたのことを考えていたからで…」
「あら…」
「…あ」
今の台詞だと、エレナさんを口説いているみたいじゃないか。
「いえあの、」
「そんなに慌てなくて、分かっていますよ?」
慌て始めた僕にエレナさんはまたクスッと笑った。
「すみません……、それにしてもエレナさんは日本語がお上手ですね」
「ありがとうございます。これでも大学で言語学を学んでいた関係で、イタリア語やポルトガル語も話せるんですよ」
「へぇ…」
たぶん、もっと沢山の言語を話せるんだろうなぁ。
噂以上に才媛で、思っていたよりも気さくな女性だったけど、それでもまだ近寄りがたい感じがする。
その時……
流れるそよ風に、甘い香りを感じて僕は顔を上げた。
「五十根さん」
「…え、はい」
呼ばれて視線を戻すと、そこには今までとは何かが違うエレナさんの笑みがあった。
「やはり…あなたを見たことがあると思ったのは間違いではありませんでした」
「……え?」
彼女の笑みが深くなるにつれ、僕はエレナさんへの違和感が大きくなっていった。
「今…感じたのでしょ? この『花』の香りに」
「花の香り…?」
「この学校でも何人か感じられる人も居る。でもあなたは、こんな微かな香りにさえ気付いた…」
静かに近づいてくるエレナさんに僕は何故か動くことが出来ず、彼女の白い指がそっと僕の頬に触れて、その唇が知らない言葉を漏らした。
「あなた……『異法使い』だったのね…」
***
□小花 19:10
「…あ、お母さん?」
空の茜色が蒼い闇に変わる頃、私は校舎の影になる壁にもたれて携帯電話から家に連絡を入れていた。
「うん、…うん、ごめんなさい。図書館で調べたいことがあって電話するの遅れちゃった……」
携帯から聞こえる心配そうな声に、私は明るい声で元気な声で話す。
でも……
「もう少しだけいいかな…? …ううん、違うの。少し探したい本があって本屋さんに寄るだけだから。……うん、心配しないで。今日はとても調子がいいのよ…」
息をするのが辛い……。足から力が抜けて、壁に預けた背中がずり落ちていく。
でも…それでも笑顔でいなければ泣いてしまいそう……。
「うん、早めに帰るから…」
私は携帯電話を切って。
「……必ず…帰る」
そのまま地面にへたり込んでしまった。
会話するために無理矢理息を整えていたので、それがかえって負担になった。
胸を押さえて少しの間だけ息を整えていた私は、壁に手を掛けてゆっくりと立ち上がる。
「………来る」
昼間感じた、あの嫌な気配。……私はそれを知っている。
生きていながら『生き物』でないモノ。意思がありながら『心』がないモノ。
花の『蜜』に惹かれて集まってくる『害虫』たち……。
昼間は取り逃がしてしまったけど、夜に紛れてまた動き出した。
今まで昼間に現れたことはなかったけど、それが明るい時間に出てきたのは……
「本当に…時間がないのね…」
私は震える脚に力を込めて、静かな夜の学校を歩き出した。
***
□一樹 19:30
僕は一人で夜の学校を歩いていた。
さっきまで懐かしく感じていた中等部の校舎も、今は不気味に見える。
何となく早足になりながら、僕はエレナさんから聞かされた不思議な話を思い出していた。
『誰かの想いは、誰かの力になる』
沢山の想いはその対象に集約されて『力』へと変わる。その想いが多いほど、多数の『認識』が同じであるほどに『力』は大きくなる。
でも、その認識が間違っていれば、『力』は対象の『心』さえねじ曲げてしまう。
凶悪犯罪者が何度も罪を重ねるように。
大金を手にした人の性格が変わってしまうように。
親が子供の人格を、型に押し嵌めてしまうように。
『五十根さん……あなたは『誰か』の強い想いを受けている』
『それが『力』となり輝きになって、私はあなたを覚えていた』
『気をつけなさい。……あなたが『あなた』でなくなる前に……』
その後、笑いながら『そんなに深刻じゃないけど…』と言われたけど、そんなことを言われて安心出来るはずがないじゃないか。
それにあの言葉……。
『あなた……異法使いだったのね…』
「痛ッ、」
突然襲ってきた突き刺さるような頭痛に、僕は思わず膝を付いていた。
「……あ…れ?」
でも痛みは一瞬で消えて、頭に触ってみたけど怪我をしている訳じゃない。
そして…微かに香る、甘い花の香り。
どこからか聞こえてくる……。とても深い場所から、肉を引き裂かれるような男の声と、魂を削られるような女の声が……。
「…っ!」
駄目だ、聞いちゃいけない。
僕は無意識に耳を押さえて蹲る。
この声は……生きている人間が聴いてはいけないっ。
「…………………」
数秒か数時間か……。どれだけの時間が過ぎたのか分からないけど、恐る恐る耳から手を放すと、もうあの声は聞こえなかった。
あれは何だったんだ……?
とても恐ろしくて、儚くて……美しい亡者の声。
(……美しい…?)
どうして僕はそう思ったんだろう。
それに……どうして僕は、その恐ろしい声が聞こえた方へ歩いているのか、自分でも良く分からなかった。
進みたびに近づくたびに感じる、……甘く濃密な花の香り……。
わずかな明かりを頼りに入り組んだ路地を抜けて、ようやく辿り着いたその場所は、ほんの数日前まで夏の光に照らされて生徒達が戯れていた高等部のプールだった。
「………あの子…」
一人の儚げな少女がそこにいた。
月の明かりが水面を揺らす幻想的な光が、校舎の壁とプールサイドに佇む少女の顔を揺らめき照らす。
プールの金網越しに見える少女が静かに右手を差し出すと、黒と白の二頭の蝶がその指先でそっと羽を休めた。
僕は目が離せなかった。
身体も縛られたように動けなくなっていた。
少女は自分の胸元に手を添えると、するりと制服のスカーフを外した。
白い肩が見えて、セーラー服が少女の身体から滑り落ちると、彼女は着ていたすべてを脱ぎ去って跪き、両手を組んで天を見上げた。
神様に身を捧げる無垢な乙女。
僕はそんな言葉を思い出して、その儚げな美しさに涙が出そうになった。
でも、彼女の手に握られていたのは銀のロザリオではなく、鉄色の刃……。
その小さな刃が、ゆっくりと彼女の白い胸元に向けられて…
駄目だ…やめろ……
声が出ない。身体も動かない。
鈍く輝く切っ先が、白い肌に触れて……
「や、…やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
呪縛を振り切って叫んだ声がプールサイドに虚しく響いて、吹き上げた鮮血が僕の顔にまで降りかかった。
胸から下を血に染めた少女は、驚いた顔で……血のような真紅の瞳を僕に向けた。
目眩がしそうなほど濃密で甘い、密と血の香り。
暗くなる視界と遠ざかる意識の中で、僕はようやく気付いた。
僕もこの可憐な『花』に惹かれた、一匹の虫なのだと……。




