2 甘い蜜の香り ①
本日三話目
薄もやの中、見渡す限りの黄色い菜の花畑が広がっていた。
何処か懐かしくて…悲しくなる。
ただ真っ直ぐに菜の花畑の中を歩いていると、不意に微かな声が聞こえた。
『……ごめんなさい……ごめんなさい…』
届くのはそんな呟き。泣いている子供の声。
菜の花畑の真ん中で、綺麗な黒髪の小さな女の子が謝りながら泣いていた。
『……ごめんなさい……』
***
□小花 6:25
カーテンの隙間から絹のような柔らかな光が頬をくすぐる。
「……ん」
ゆっくりと重い瞼を開けた私は、寝る前に読んで開きっぱなしになっていた本に、手作りのしおりをはさんでそっと本を閉じた。
それは覚えていないほど小さな頃に、幼い私がどうしても欲しがった、古本屋で見つけた古い本。
そんな古いラテン語で書かれていた古い本を、ベッドで暇を持て余していた頃に、私は辞書だけで数ページほど読んでみた。
黒髪の少女のお伽話……。続きは気になったけど、これ以上は怖くて読むことが出来なかった。……思えばこの本を読んでから、不思議な夢を見るようになった気がする。
ベッドから身を起こしながら時計を見ると、目覚ましが鳴る五分前だった。
二度寝出来るほど時間はなく、そもそも私はベッドにいることが好きじゃない。
ベッドから降りてフローリングに膝を付き、私は両手を胸の前で組み、目を閉じながらそっと天を見上げる。
まるで敬虔な信者のようだけど、私の部屋には聖書の一冊もなく、形式上買ったロザリオも聖書と一緒に学校のロッカーに仕舞われたままだった。
「…ト様、あなたの小花は、今日も生きています…」
ピピピ、ピピピ…
「ひゃう!?」
突然鳴りはじめた目覚ましに変な声が出ちゃった。
幼い頃に書いた手紙を親に読まれたみたいな気持ちになって、顔が熱くなった私は少し泣きそうになってしまう。
「もうっ」
ポンッ、と少し強めに叩いて目覚ましを止めると、火照った頬を揉みほぐしながら立ち上がった私は、そのままカーテンを大きく開いた。
「……今日もいい天気」
白く霞む水色の空。空高く淡く流れる白い雲。近くの公園から微かに聞こえる名も知らない小鳥の囀り。
今日も世界は綺麗で愛おしい……。ずっと見ていたいけど、私は着替えるためにクローゼットの外に掛けられた制服に視線を移した。
昨日うちにお母さんが出してくれた、昨日までとは違う今日からの冬服。
何となく嬉しくて顔を近づけると、ちゃんとタンスの匂いは消えていた。
「お母さん、おはよう」
身なりを整えた小花が声を掛けると、台所からパタパタとスリッパの音が聞こえて、リビングに出てきたお母さんはそのまま私をぎゅっと抱きしめた。
「おはよう、小花ちゃん」
お母さんは毎朝、日課のように私を抱きしめる。まるで私が消えてしないか確かめるみたいに。
「もぉ、…身体は元気になったんだよ?」
「でも偶にまだ熱が出るし、……今日はちょっと顔が赤いんじゃない?」
「あはは…、大丈夫だよ」
適当に誤魔化して笑うと、お母さんも何となく安心したのか、また朝食の続きを作りに台所へ戻っていった。
「……お父さんはまたお仕事遅かったのかな」
出来るだけ朝一緒に食事を摂るお父さんが居ないのは、お仕事が忙しいのでしょう。出来るだけ寝かせてあげよう…なんて思っていると、スカートが微かに引かれるように重くなった気がして。
「…ん?」
「はなちゃん…おはよ」
足元を見てみると、三歳になったばかりの弟が、片手でスカートを掴みながら眠たそうに目をこすっていた。
「おはよう、双葉」
双葉の手を取って目線を合わせるようにしゃがむと、私の顔に少しだけ困ったような笑みが浮かんでしまう。
「双葉は相変わらず『お姉ちゃん』って呼んでくれないのねぇ」
そんな言葉に双葉は不思議そうな顔をしていたけど、私がニッコリ笑って両手を広げると、満面の笑みで抱きついてくれた。
「はなちゃん、すき」
「ありがとう、お姉ちゃんも双葉が大好きよ」
そんな風に双葉とじゃれ合っていると、お母さんがクスクス笑いながら台所から顔を見せた。
「小花ちゃ~ん、姉弟仲好しのところ悪いんだけど、双葉くんのご飯が出来たから食べさせてあげてくれるかなぁ」
「は~い、行こ、双葉」
「うんっ」
優しい朝の食卓。幸せな家族の時間……。そんな何気ない光景に私の見える世界が微かに滲んで見えた。
「…はなちゃん、いたいの?」
「ううん、何でもないの……」
失ったはずの家族との時間。
滲んだ涙を指で拭って誤魔化した私は、幼いながらに心配してくれた弟を思わず抱きしめていた。
もう絶対に……失ったりしないから。
***
□一樹 10:40
スケッチブックに何枚も描かれた少女の姿。
繊細な線を幾重に重ねてみると、描くたび重ねるたびに印象が変わってしまう。
それは僕の中でイメージが固まっていないせいだろう。
僕はいつも使っているアトリエの、定位置にしている場所で、一人走らせていた鉛筆を止めてこっそり溜息をついた。
「はぁ~…、向いていないのかなぁ……人物画」
「まぁ珍しいもんね、一樹くんが人物画を描くなんて」
「っ!?」
人もまばらなアトリエで、こっそり女の子の絵を描いて溜息混じりの独り言に返された僕は、ギョッとして振り返った。
「か、薫子先輩!? なんで…、え? 今の時間って先輩は講義中でしょ!?」
「堅いこと言うなよー、真面目だなぁ」
僕が高等部の美術部だった頃に部長だった薫子先輩は、慌てて隠そうとしたスケッチブックをあっさり奪い取った。
「ふむ。……デッサンは狂ってないし、構図も悪くない。…でもねぇ」
「…う」
取り返すのを諦めた僕はとりあえず椅子に座り直して、その方面において(のみ)信頼を置いている薫子先輩の意見を聞いてみることにした。
「そもそもさ、この子はどんな表情をしているの? まだ下書きだからアレだけど、内面がさっぱり伝わってこないんだけど」
「………」
それは僕も分かっている。この絵のことだけじゃない。
僕はただ描くことが好きなだけで、目標もなく、本格的な美大に行く実力もなく、薫子先輩のようにやりたいことがあって、この大学に上がった訳じゃない。
そんな半端さがこの絵にも現れている。
「なっさけない顔してんなぁ…」
「生まれつきです」
「私は絵に関してはきついこと言うけど、経験値が足りないならガンガン描きまくれ。それじゃ頑張る一樹くんにいいモノをあげよう」
「え…」
そのイジメっ子のような笑顔に警戒していると、薫子先輩は鞄から取り出した缶飲料を僕に放り投げた。
「…熱っ、」
受け取った熱々の缶飲料には、『新製品、糖分50%増量プリンオレ』とかふざけたことが書いてあった。
「講義中に珈琲飲みたくなったんだけど、珍しく新製品があってさ」
「……ああ」
なるほど。買ってみたのはいいけど、飲むのが嫌になったんだな。
「………(チラ)」
「………(ニヤニヤ)」
無言の圧力と期待を裏切れない性格から飲んでみたけど、思った以上に舌が痺れるほど甘かった。
「ところで一樹くん、さっきの絵だけどモデルは誰?」
自分はちゃっかりブラック珈琲を飲みながら、薫子先輩が何気なく聞いてきた。
「……、」
一瞬言葉に詰まったけど、どうせ許してくれないと分かりきっている。
どうでもいいけど、なんで高身長のモデル体型のくせに、椅子に胡座をかいておっさん臭い仕草で珈琲を啜るんだろうな、この残念美人は。
「えっと…想像で描いています」
曖昧だけどイメージはある。
あの夏の終わりに出会った、とある儚げな少女の姿が。
でも印象は鮮烈だったのに、モチーフが淡すぎてどうもイメージが固まらない。
「……ふぅ~ん」
薫子先輩は缶珈琲を啜りながら僕を半目で見据え、僕はそんな視線の中、ぬるくなったら飲めなくなると、プリンオレを一気に喉に流し込んだ。
「な~んだ、てっきり前に見蕩れていた女子中学生かと思ったよ~」
「ぶふぉっ!」
「ぅおっ!?」
僕が盛大に吹き出すと薫子先輩は慌てて飛び避けた。
げほげほと咳き込む僕を、薫子先輩はドン引きした顔で見下ろして。
「う~わぁ……、予想よりもデカいリアクションするわね……」
「…か、薫子先輩…、な、なにを…」
「まぁまぁ、慌てるな青少年」
薫子先輩は飛び散ったプリンオレを避けるように若干距離を取る。
「モチーフとしては悪くないんでない? いい素材だと思うよ、難しそうだけどさ。でも一樹くんはイラストを描きたい訳じゃないんだろ? 人物画をモデルも無しで描けるほど君は器用じゃないだろ? そもそも一樹くんは『何』を描きたいのさ?」
「……何を?」
僕は絵を描く行程そのものが好きで、何か『これ』を描きたいから描いていたのではなかった。
最初に描いたのは何だっただろう。
絵を描こうと思った最初に理由は何だろう……。
誰かに……褒められたから。
小学生の頃に学校行事で初めて行った美術館……。そこで子供ながらに感動して一人でも通うようになり、美術館の庭でノートに好きなだけ絵を描いていた。
絵とは呼べないただの落書きだったけど、それを『誰か』が褒めてくれた。
あの頃は描きたいモノが確かにあった。
今もきっと……。
「そうですね……。一度あの子を捜してみます。モデルなんて断られるかも知れないけど…」
薫子先輩は何故か満足した顔で講義に戻り、人の少ないアトリエで僕は床にこぼした甘い液体を片付けていると。
「…ありゃ」
スケッチブックにプリンオレがはねて、少女の絵を淡い茶色が汚していた。
「これはこれで面白いけど…」
絵の中の少女の髪を染める、ミルクの混ざった琥珀色。
でもやっぱり違う気がして、何気ない仕草で指で拭うと、染みこんでいたはずの茶色が何事もなかったように消えていた。




