17 黒髪の少女 ②
「ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
突然苦痛の呻きをあげて、小花ちゃんが崩れ落ちるように芝生に倒れ込んだ。
「小花ちゃんっ!」
僕が慌てて抱き起こすと、上気して赤くなっていた彼女の顔が、見る間に血の気を失い白くなっていく。
「こ、これって…」
辺りを一瞬で、むせ返るような甘く濃密な花の香りが満たしていた。
どういうことなんだ?
確かに危険な状況なのは知っていたけど、突然すぎて何があったのか分からない。
この香りは…毒の蜜が急速に作られているのか。
僕の手に触れていた、小花ちゃんの震える手のあまりの冷たさにゾッとする。
「……まさか、」
毒の血が急速に作られ胸に集まるその早さに…
「小花ちゃんの心臓が耐えられなくなっている…?」
何が原因か分からない。でも、早く何とかしなければ小花ちゃんの命が危ない。
僕に何が出来る?
苦しんでいる彼女の手を握ってやることしか出来ないのか?
この子に頼っていい……支えになりたいと誓ったばかりだというのに。
「……小花ちゃん、ごめんっ」
そうだ…。初めから僕に出来ることは一つしかなかった。
僕は小花ちゃんの着ていたセーラー服の胸元を強引に開くと、ボタンが幾つかはじけ飛び、彼女の白い胸元があらわになった。
毒の蜜が心臓を圧迫しているのなら、いつものように抜き出してしまえばいい。
でもその肌を傷つける道具がない。
いつもは小花ちゃんが用意してくれていて、捜せば持っているかも知れないけど、今が捜している時間さえ惜しい。
「ごめんっ」
僕はもう一度小花ちゃんに謝ると、彼女の胸の膨らみを歯で噛んだ。
小花ちゃんの身体がビクンと震え、僕の口の中に、いつもよりさらに甘く濃密な蜜の味が広がる。
吐き出す時間もなく、僕はそれを躊躇なく飲み込んだ。
僕の異法で浄化していると言っても、飲み込めば身体にどんな影響があるか分からない。それ以前に、このペースでは浄化し切れているか自信がない。
身体が熱い……。
毒が回ってきているのか、胃の中が熱くなり…同時に酷い寒気を感じた。
自分でも血を吸い出すペースが遅くなるのを感じる。
僕じゃ駄目なのか……。
僕じゃ彼女を救えないのか……。
「………」
弱気になる僕に……、小花ちゃんの冷たい手がそっと僕の頭を撫でていた。
僕が心配させてどうする。
朦朧とする意識の中で小花ちゃんの血を吸い浄化を続けていると、小花ちゃんの真紅に染まった瞳が、不意に鮮やかな緋色の輝きを見せた。
そして… 僕は見た。
小花ちゃんの身体に『階層』のように重なっていく、幾重もの想いの結晶。
それが彼女の存在を形作る『存在認識力』…。
その最下層の一枚に、映像を映すように『黒髪の紅い瞳の少年』が居た。
少年は穏やかな瞳を僕に向けて、静かに…音もなく、唇だけが言葉を紡ぐ。
『 姉さんを…お願いします 』
気がつくと……僕は知らない光景の中にいた。
見上げればどこまでも続く水色の空。足下には霞が掛かるほど果てしなく、菜の花畑が黄色い絨毯のように広がっていた。
初めて見る景色なのに、どこか懐かしさを感じる。
そよ風が香りを乗せて……。
「小花ちゃんは!?」
菜の花とは違う甘い香りに我に返り、僕は周りを見渡してみたけど、そのどこにも小花ちゃんの姿を見つけることは出来なかった。
その替わりに、
「……声…?」
霞が掛かるような菜の花畑の向こうから、微かな泣き声が聞こえていた。
僕は…まるであの夜小花ちゃんに出会った時のように、声の聞こえる方へ歩き出していた。その果てに……。
小花ちゃんよりずっと小さい、……幼い女の子が、菜の花畑に座り込んでうつむいて泣いていた。
その黒水晶のようなきらめく『黒髪』の美しさに、僕が思わず見入ってしまう。
「…君は…だれ?」
僕は頭を振って気力を取り戻し、この小さな女の子に声を掛けた。
『……死んじゃう…この子が…死んじゃう…』
「ど、どうしたの…? この子って?」
途切れ途切れに嗚咽混じりに話すその声に、僕は辺りを見回してみる。
『この子』って誰のこと?
女の子の回りには、人も動物も見あたらない。
「…その子は、どうして死んじゃうの?」
そう尋ねてみると、女の子は激しく首を振って。
『…私の……私のせい…なの…。私が……この子と一緒にいるから…この子が死んじゃうの……。私が……神の秘密を…見てしまったから…。神に…呪われたから……』
そう言って女の子はまた泣き出した。
「………」
僕にはそれが何か分からない。
でも僕は、その年端もいかない女の子の戯れのような言葉を、どうしてか疑うことは出来なかった。
「僕にも…助けたい子がいるんだ」
僕は女の子の綺麗な黒髪に手を乗せて、小花ちゃんにしているようにゆっくりと頭を撫でると、女の子の泣き声が少しだけ小さくなった。
思い出すのはあの儚くて…消えそうな笑顔。
「あの子を助けたい……。それが…僕の思いが『存在認識力』になると言うなら、僕は僕が思った、小花ちゃんを助けられる『僕』になりたい」
誰かの想いが『力』になってくれるのなら、自分の想いだって『力』になるはず。
僕の言葉に、女の子はそっと顔を上げて。
「……ほんと?」
涙に濡れた、鮮やかな緋色の瞳を僕に向けた。
「うん…助けたい。…助けてみせるよ」
僕が頷くと、女の子はやっと小さな笑みを見せてくれた。
『……あなたなら、きっと出来るね…』
女の子は静かに立ち上がると、僕の両手に小さな手が触れた。
『……ミコトだけに向けられていたこの子の心に、あなたという不純物が一滴だけ落ちた…。この子の心はまだそれを正しい場所に仕舞うことが出来ずに、心を揺らすだけの火種になってしまった。……でも、だからこそ、あなたなら出来るよ…』
女の子は僕の手の平に、蝋燭を吹き召すようにそっと息を吹きかけた。
『あなたの助けになりますように……私の『存在認識力』を一枚あげるね…』
吹きかけた息が『真紅の蝶』に変わり、僕の手の中でそっと羽を休めた。
不意に……
黄色の花びらが風に舞い上がり、僕に見えていた景色そのものが薄くなって、徐々に遠ざかり始めた。
『…この子を…助けて…』
遠くなる女の子に僕は思わず手を伸ばす。
「君は…っ!?」
女の子は淡く微笑んで、遠くなるその声が微かに僕に届いた。
『私は……花………菜の花………』
僕の姿が完全にその世界から消えて……。
『……またね……パパ……』
*
「…、」
僕が気がつくと夜の学校に戻っていた。
周囲に漂う濃密で甘い花の香り……。僕がまだ口を付けたままの小花ちゃんの肌は冷たく、唇に感じる彼女の心音はさらに弱まっている。
何が起きたのかわからない……。
僕は一瞬気を失っていたのかと思った。何か重要なことを『知った』ような気がするのに、僕は何も覚えてはいなかった。
でも……何かが違う。
僕の中で『何か』があきらかに違っていた。
飲み込み、浄化しきれずに胃を焼いていた毒の血は、僕の『本当の異法』によって、新たな何かに変わっていく。
それはたぶん『水質浄化』じゃない。
それはきっと『存在浄化』の力。
淀み歪んだ存在認識力が僕の中で浄化され、正しい『生命の力』となって、再び小花ちゃんの中に戻っていく。
大気に満ちていた甘い香りは、ゆっくりと夜に溶けて……。
その代わりに僕達を包み込んでいたのは、優しい夜の黒い霧。
それはまるで、幼い子供だった頃に怖い夢を見て母の布団に潜り込んだような、そんな優しい安らぎを僕に感じさせた。
そして……。
「…………一樹…さん…」
ほんのりと温かな白い指先が僕の頬に触れて、泣き笑いになりそうな僕の顔を、柔らかな琥珀色の瞳が淡い微笑みの中で映していた。
消えてしまいそうで、儚げな女の子。
守りたいと思ったその笑顔。
小花ちゃんは……世界から消えてしまうことなく、この世界に……僕の腕の中に残っていてくれた。
次回、最終話