16 黒髪の少女 ①
□小花 22:55
「小花ちゃん…」
一樹さんの声を聞いて泣きそうになる。
このお人好しなほど優しい人に、人を襲ったところまで見られてしまった。
どうして一樹さんは追いかけてきたの…?
いつも聞いていると落ち着くような一樹さんの声が、今は何よりつらかった。
「……何も聞かないんですか」
自分の声なのに平坦に聞こえる。こんな態度は取りたくない……。
いっそのこと愚かな私を責めて欲しかった。
「……話したい?」
いつもの一樹さんの声で、いつものように話して私に近づいてくる。
一樹さんの私より大きな手が、頭に触れて。
パシッ。
「優しくなんて…しないでっ」
私は一樹さんの手を思わず払いのけてしまい、それが信じられたくて叩いてしまった自分の手を握りしめた。
「さっきの人なら大丈夫だよ。自分の足で走っていったから」
こんな酷いことをした私に、それでも一樹さんの声は変わらない。
私に後悔さえもさせてくれない。
「私…、あの人を食べようとしたんですよ」
一樹さんは私がどれだけ酷い人間か知らない。知らないから責めてくれない。
許されてから嫌われるより、自分から話して嫌われたほうがいい。
「食べるって…」
一樹さんが困惑している。
普通の人には理解できない。私と一樹さんの住んでいる世界はここまで違う。
私はこんな人を巻き込んでしまったのね。
「私には『浄化』が必要なんです…」
*
それは一樹がしてくれる『血液浄化』のことではない。
一度死んで蘇った小花の存在認識力は、毒の蜜を生み出す。
だが実際は、小花の想いが神を誘う蜜を生み出し、それが不自然な存在認識力によって毒へと変わってしまった。
特に小花のような、自己の存在が成熟する前の子供が、大量の神の存在認識力を受けるとさらに存在認識力は歪んでいく。
必要なのは、存在力の浄化。
一樹の浄化は一時的な輸血のようなもので、『存在の浄化』とは骨髄移植に近い。
だが、そんなことが出来る者は司祭にも使徒にもなく、自分で延命処置だけをしていた小花に、ある日手を差し伸べてくれる人が現れた。
それは二年前、……美夏の家で倒れた数日後のこと。
『お嬢さん…、アナタの命は、尽きかけていマス』
夕暮れの道で声をかけてきたその神父は、神から啓示を受けイタリアからやってきた知識と学問の神の司祭だと名乗った。
お爺さん神父はそっと小花に手をかざし、小花が後一年も経たずにまた死んでしまうこと。そして今度は、神でさえも復活は難しいことを彼は伝えた。
『だから、ワタシの力を差し上げマス』
存在認識力を浄化できる者は存在しない。
けれども正常な神の存在認識力をそのまま小花に移せば、数年ではあるが、歪みを修整することが出来る。
骨髄移植ではなく、血液の総入れ替えに近いだろう。
だが、仮にも神の存在認識力を修正するためには、もっとも純粋な神の存在認識力である、司祭の力の根本……魂に近い存在認識力が必要だった。
それは命そのものを渡す行為に等しい。
出会ったばかりの小花にすべての力を惜しみなく分け与え、そのせいで司祭の力すらなくした彼に小花が泣いて謝ると、神父は衰弱した顔でニコリと笑った。
『神サマ、仕える人なら、アタリマエです…』
*
□一樹 23:05
「あのお爺さんのおかげで、私は生き続けることが出来ました。…二年以上も」
僕は小花ちゃんの話を聞いた。
生と死のぎりぎりを生きてきた彼女は、生き続ける為にまた司祭の生命を必要としている。
「…だから食べるって、強引に力を奪うってこと? でも、誰かにまた頼めば…」
「無理ですよ」
僕の言葉を、小花ちゃんは諦めた顔で自嘲気味に笑う。
「誰が好きこのんで、知らない子供のために命の危険を冒してくれるのですか? 死なずに済んだとしても、司祭の力を失ってしまうんですよ?」
「だけど、その神父のような人もいたじゃないかっ」
全員が善人とは僕も言えない。けれど、優しい人は必ずいてくれる。
そんな思いで話す僕を、小花ちゃんは少しだけ優しい瞳を向けた。
「私が、あのお爺さんほどお人好しな人に出会えるまで、二年もかかりましたよ?」
僕を見つめる琥珀色の瞳。お人好しとは僕のことだ。
そんな僕も小花ちゃんを根本から癒すことは出来ない。
でも僕はそれがエゴイズムだとしても、小花ちゃんに人を襲うような真似はして欲しくなった。
きっと捜せば誰か優しい人がいてくれる。
でも僕のそんな甘い考えを否定するように、小花ちゃんは衝撃的な内容を口にした。
「夏の前に会った光神の司祭は、私を殺そうとしました」
偶然出会って話しかけたその司祭は、彼女を罪人として滅ぼそうとしたらしい。
その時初めて、小花ちゃんは『力』を人に使い人を傷つけた。
でもさすがに命までは取れず、見逃してしまったせいで小花ちゃんの存在が知られてしまった。
「……そんな…」
言葉を失う僕に、小花ちゃんは自虐的な笑みを浮かべる。
「私は三年前に死んで……、怖かった…死にたくなかった…。でも、心のどこかでホッとしていたんです。…これ以上、苦しまなくて済む、これ以上…家族に迷惑をかけずに済むんだ…って」
静かに…ゆっくりと小花ちゃんが僕から一歩距離を取って。
「それをミコト様に拾ってもらい、私は再びこの世界に生を得ました。嬉しかった……世界のすべてが愛おしかった。ねぇ…馬鹿みたいでしょ?」
琥珀色の瞳から一粒の涙が頬に流れる。
「それだけで、好きになっちゃうなんて……」
「…………」
「誰にも迷惑をかけたくない…。すべてが愛おしい……そう思ってたはずなのに、いつの間にか、ミコト様との絆を失うほうが怖くなってた…」
語りながら小花ちゃんは、また一歩…二歩と、僕から離れ。
「私の神様は、……自分のことを『ぼく』って言うんです。だから、……私……一樹さんをミコト様の身代わりにしてたんです…」
懺悔する彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れた。
「…一樹さん…今まで迷惑かけてごめんなさい…。もう平気です。もう人を襲ったりもしません…」
それは……僕にする別れの言葉。
わざと僕に嫌われるような言葉を使って、僕を傷つける言葉に自分自身も傷付いて、小花ちゃんは僕に背を向けた。
でも……
「待って」
呼び止めた僕の声に小花ちゃんの小さな肩が震えた。
「一人でどうするの?」
出来るだけ落ち着いて言葉にすると、振り返った小花ちゃんは、信じられないものを見るように僕を琥珀色の瞳に映す。
「…どう…して」
僕にこれ以上迷惑を掛けたくない。……そんな思いが伝わってくる。
「最初、どうして僕に頼もうと思ったの?」
「…それは…」
「小花ちゃんは自分で胸を刺して血を抜ける。……でも、本当は怖いんでしょ?」
金属さえも腐食させる毒血を抜くには、刃物で切り裂くしか手段はない。
自分でそれをする恐怖はどれほどのものだろうか。
僕も気付いていた。
最初の日から、その間隔が徐々に短くなっている。司祭の力を得ることが出来なければ、毎日でも血を抜けなければいけなくなるだろう。
それでも血を抜くだけではわずかな延命にしか過ぎない。
「僕が手伝うよ。一緒に生きる道を捜そう。毎日でも手伝うから、一緒に頑張ろう」
「でも…」
小花ちゃんは僕から目を逸らして下を向く。
「私……一樹さんの優しさを…利用していたんですよ……」
「…それでもいいんだ」
それが何だと言うんだ。
僕だってただモデルになって欲しくて近づいただけだ。
そっと彼女の頭を撫でると、今度は手を払われることはなかった。
「自分の為だと言うなら、これは僕の我が儘だ。小花ちゃんを失いたくない。だから…小花ちゃんには僕を頼って欲しい」
小花ちゃんの瞳が大きく見開かれて…。
「……一樹…さん……」
止まりかけていた涙が、また瞳から溢れてこぼれ落ちた。
頭を撫でていた僕の手をギュッと握って…
「……ぁ…ぁあああぁぁああぁぁああぁぁああぁぁああぁあああああああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁああぁぁああぁああぁぁぁぁぁああああああああぁぁあああぁあああぁぁああぁぁああぁぁああぁぁああぁああああああぁぁぁあああぁぁああああああっ」
小花ちゃんは叫ぶように……小さな子供のように泣き始めた。
小花ちゃんはずっと一人で耐えてきた。
家族や友人に気を使い、誰にも言えない死への恐怖に耐えてきた。
そんな彼女の支えになりたいと思った。
自分でも理由は分からない。
ただこの手を握る小さな手を守ってあげたいと思った。
「……一樹さん…」
小花ちゃんは潤んだ瞳で僕を見つめて……。
「…お願い…」
熱に浮かされたような顔で…
「……助けて…」
彼女は……初めて神様以外の人に救いを求めて……それは唐突に始まった。




