13 甘い蜜の香り ③
本日二本目です。
□小花 22:00
「小花ちゃん……本当にいいの…?」
「…うん、平気…だから」
ベッドサイドの小さな灯りだけが照らす美夏ちゃんの部屋で、小声で話す彼女に私も静かに囁き帰した。
「…それじゃ、私、そろそろ行くね」
ゆっくり立ち上がった私は、部屋着でもパジャマでもなく、桜崎のセーラー服に着替えていた。
玄関にある自分のローファーではなく、美夏ちゃんから借りたスニーカーを手に取る私に、ベッドから美夏ちゃんが心配げな瞳を向けてくる。
「小花ちゃん、本当にこんな時間に出かけるの…? 五十根さんに説明なら、明日でも…ううん、電話でもいいじゃない」
「ごめんね…。一樹さんにはずいぶんとお世話になったし、話すならちゃんと自分で話したいの。……昼の学校で話す話題でもないしね」
私が美夏ちゃんにした『お願い』は、アリバイ工作。
一樹さんと今夜、学校で会う約束をしていて、その時間は午前一時。
その時間だったら私の家からでもいいんだけど、私はその前にすべてを終わらすつもりでいた。
明日まで……私が自分を保てていられるか分からなかった。
「小花ちゃん、窓からの降り方覚えてる?」
「うん」
美夏ちゃんの部屋から出る小さなベランダには梯子が付いていて、そこは二年前に私が倒れた場所でもあったけど、私達はそれを口にはしなかった。
「……早く帰ってきてね」
「うん。……帰ってくるから」
少しだけ意味の違う言葉を残して、私は静かに外に出る。
梯子は使わずに、暗闇の中を音もなく屋根の上に飛び上がり、気配を消して民家の屋根から屋根へと飛び移りながら、私はいつの間にか寄り添うように飛んでいた黒と白の蝶に呼びかけた。
「…お願い、運んで…」
羽根を振るわせる蝶たちに間で、私の姿は夜に溶けるように消えて……。
月夜をヒラヒラと舞う蝶たちは、辿り着いた高等部の薔薇園で、私をそっと地に下ろした。
この場所は、学内教会管理人シスターエレナが個人的に育てている薔薇園で、今は季節ではないけど、それでも幾つかの薔薇が華やかな彩りを見せている。
私は微かに光る真紅の瞳で薔薇を愛でてから、静かに校舎の方へ歩き出すと……。
その瞬間、私の背後から襲いかかってきた『黒い靄』が、一瞬で『死喰い蝶』に喰われて塵となって消えた。
「……時間がない」
蝶たちが掛けていた結界が解かれて、私から漏れる『甘い香り』だけで『害虫』たちが集まり始めている。
もう結界自体が意味を成さないかも知れない。
早めにすべてを終わらせてまた血を抜かなければ、際限なく害虫を呼び寄せることになるかも。
「………」
また、…結局、一樹さんの善意に頼ってしまうことに、私は暗い気持ちになった。
二年前、私は知らないお爺さんの善意に救われた。
数ヶ月前、人を信じようとして裏切られた。
だからと言って、他人を利用して良いはずがない。……でも。
「……、」
私は思わず滲んだ涙を指で拭う。
そこに、小さな揺れる灯りが遠くから近づいてくることに私は気付いた。
*
「もし……、どなたかおられるのですか?」
ゆらりと揺れる…古風なカンテラの灯りに照らされ、薔薇園の奥から現れた女性が、薔薇園にいた少女にそんな声を掛けた。
「…シスターエレナ……?」
「あら…」
漆黒の修道服に長い金髪のシスターは、顔見知りの生徒の声に、安堵したような優しい笑みを浮かべる。
「中等部の御崎さん…ですね? 日本のお化けかと思いました…」
「はい、一年の御崎です。…驚かせてごめんなさい」
頭を下げる小花に、シスターエレナは浮かべていた笑みに心配そうな色を混ぜる。
「こんな時間にどうしたのですか…? 女の子が出歩いていい時間ではありませんよ」
「……はい」
小花はその言葉に瞳を伏せて。
「すみません……少し、悩んでいることがあって…」
「まぁ…」
離れていたシスターエレナが、そっと小花に歩み出す。
「あなたくらいの年頃なら色々とありますよね…。考えるのにここは良い場所ですが、教会のほうへおいでませんか?」
「……懺悔室ですか?」
微かに不安げな表情を浮かべた小花に、シスターエレナは優しい笑みのまま静かに首を振る。
「いいえ、あなたのような子に懺悔が必要とは思いません。でも宜しければ、お茶などいかが? ここの薔薇で美味しいジャムが出来たのよ」
「わぁ、美味しそう」
近づいてくるシスターエレナに、小花も柔らかな笑みを浮かべて……。
「……いただきます」
その声と同時に、シスターエレナの頭上で白い火花が弾けた。
「ッ!?」
襲いかかる白き『鬼喰い蝶』に、自分の『魔法障壁』が『喰われていく』感触に、シスターエレナはゾッとしてその場を飛び退き、
「одинодинодинтри 我は求め訴えるっ!」
シスターエレナの翡翠色の瞳が金色に輝き、小花に幾つかの闇礫を撃ち放つ。
それでも小花は、まったく同じ笑みのまま、
「道を喰らえ」
桜色の口唇が『魔法』を唱えると、闇礫の速度が目に見えて減じた。
その二人の間に、ふわりと『鬼喰い蝶』が戻り…。
白い羽に皺のような模様が浮き出ると、それは見る間に、目を閉じた美しい女性の顔に変わり、愚かなエレナを揶揄するようにけたたましく笑った。
ぁはははははははははははははははははははははははははははははははは……!!
亡者の笑い声に、闇の礫は音もなく消えて…。
「……くぅ…」
エレナは魂を削られるような苦痛の中、歪む視界に片手で顔を覆いながらも、何とか小花から距離を取る。
その間、小花は一歩も動いていない。あの会話していた時から変わらない微笑みに、エレナは乾いた唇から掠れた声を漏らす。
「あなたは、殺気も見せずに人を襲えるのね……」
そんなエレナの言葉に、小花の笑みが微かに寂しげなものに変わり。
「先ほどのモノが、司祭様の『真神魔法』ですか…?」
まるで世間話のような問いかけに、エレナはやっと正常に戻った視界で、じっと小花を見つめた。
「ええ、【黒神】の司祭が使う魔法よ。……私も初めて見たわ。【乱神】の『使徒』が使う『魔人魔法』なんて…」
人の祈りを受ける神。 その力で奇跡を起こす者を『司祭』と呼び…。
人の祈りを受けぬ神。 その力を与えられし者は『使徒』と呼ばれた。
すべての神々は『善』でもなく『悪』でもない。
ただ、司祭が神の教えを守り自己を律するに対して、『魔』を冠する神に仕える使徒だけは、心が欲するままに事を成すが故に、人から忌み恐れられた。
「待って!」
小花が緩やかに一歩踏み出すと、エレナが慌てて声をかける。
「御崎さん、お願い…話を聞いて。私たち黒神教団は、あなたと敵対する気はないわ。【乱神】・ミコトが出現してから八百年…、これまで現れた使徒はただ一人だけで、その二人目の使徒が今の時代に現れ、あなたは特別な、」
「命を繋ぐ魔法の秘密を探りに来たのですね」
「……、」
小花に教団高司祭からの密命を見透かされ、一瞬言葉に詰まるが、それでもエレナは説得の言葉を続けた。
「……ええ、そうよ。あなたは知ってる…? かつてただ唯一、蘇りの奇跡を行っていた神、かつての六大神の一柱である『【時神】・タルタィユァ』は、300年前に忽然と消えて、その魔法も失われてしまった……。でも、【乱神】と呼ばれ、混乱をもたらすだけと思われていた神が、人の『蘇り』さえも司ると知れば、人がそれを求めるのは当然のことよ……。分かるでしょ? 人は死を恐れるものよ」
いつもの彼女とは違う、エレナの焦り気味の言葉を静かに聞いていた小花は、ゆっくりと淀みない声を夜風に乗せる。
「それで、私をどうするのです…? どこか高い塔にでも幽閉しますか? 外国の施設で血を抜き取り、肉を切り刻んで研究でもしますか?」
小花は何も変わらない。
エレナの説得を聞いても、声も、笑みも、柔らかな雰囲気さえも何も変わらない。
小花の言葉を聞いて、エレナの目がス…ッと細くなる。
「…出来るだけ痛くしないし、綺麗なお洋服もいっぱいあげるわよ。お嬢ちゃん…」
あからさまに気配が変わるエレナに、小花の笑みも深くなった。
「それだけですか…? その見返りに、あなたと教団は、私の神様に何人の司祭を生け贄に捧げてくれますか…?」
ヒラヒラと…黒と白の蝶が、小花の側で舞い。
「……あなた、美味しそう」
背筋を駆け抜けた寒気は、その台詞のせいか、それとも少女の笑みのせいか…。
「пятьодиндва 我は求め訴えたりっ!」
さらに下がりながらエレナは真神魔法の詠唱をはじめる。
だが、その手が向けられたのは小花ではなく、頭上に向けられた手の先で金属が弾かれるような音が聞こえた。
小花は何事もなかったように、ちらりと紅い瞳だけを右に向け。
エレナは少しホッとしたような軽い笑みを浮かべて、そちらに金の瞳と顔を向ける。
「あなたも来たの? ハンナ」
暗い木の陰から憮然とした顔で光神教団のハンナが姿を見せ、無言のまま、エレナに左手の拳銃を向けた。
「無粋な人ねぇ……。ご挨拶はカミソリだけ? そう言えば、顔を合わせるのは初めてよね。もう私のことはエレナでいいわ。もちろんシスターなんていらないから」
ブシュッ…。
空気の抜けるような音がして、ハンナの銃弾がエレナの髪の一房を吹き飛ばす。
「…非道い人ね」
金の髪が糸のように流れて薔薇に彩りを加え、エレナはハンナに、やんちゃをする妹を見るような瞳を向けて軽く溜息を付いた。
ハンナは、エレナに向けていた憎しみに満ちた碧い瞳に、少し戸惑うように揺れながら小花を映して。
「……まさか、こいつが…?」
ハンナは京人から、【乱神】の使徒は中等部の生徒だとは聞いていた。
でもまさか、命を喰らう神の使徒が、こんな虫も殺せぬような少女だとは露ほどにも思わなかった。
ただ、この状況で顔色も変えず、笑みすら崩さない少女に、ハンナは得体の知れない不安を感じた。
その場を満たしていたのは、奇妙な緊張感…。
ハンナはエレナと決着は付けたいが、目の前の小花を放っておく訳にもいかず。
エレナは、小花とハンナ、両方と敵対した形となり、自分からは動けず。
小花は二人共に用があるが、二人同時に相手できるほど場慣れている訳ではない。
そんな奇妙なバランスの三竦み。
それを最初に崩したのは……。
「小花ちゃん…?」
突然名を呼ばれ、校舎のほうから現れた人物に小花の目がゆっくりと見開かれ、真紅の輝きが琥珀色に揺れた。
「…一樹…さん…」
*
□一樹 22:25
甘い香りに誘われて辿り着いたその場所で僕が見たものは、銃を構えた知らない外国人女性やエレナさんと、紅い瞳の小花ちゃんだった。
その銃が本物かどうか分からないけど、小花ちゃんが神様から貰った力を使っていることから、ただ事でないと分かって冷や汗が流れた。
その小花ちゃんは呆然と僕を見つめ、外国人女性は油断なく銃を構えながら僕を一瞥し、そしてエレナさんは…。
「あらあら、まぁ…」
いつものようにクスクスと……、それでいてまるで別人のような笑みを見せた。
「皆さん、『蜜の香り』に惹かれて来ちゃいましたかぁ…。まぁ『力』が強いほど、蜜は香しく感じるらしいから仕方ないけど」
戸惑う僕にエレナさんはそんなことを言い、外国人女性も意味が分からなかったのか眉を顰めていた。
「……香りに惹かれる?」
それを聞いた小花ちゃんの顔色が変わる。
僕が小花ちゃんから聞いていたのは、血に溶けた『毒蜜』が甘い香りを放ち、疑似魔神と呼ばれるモノを呼び寄せてしまうことだった。
確かに僕のように花の香りを感じられる人間もいる。
でもその香りが、僕のような『異法使い』と呼ばれる人ほど強く感じられて、僕までも呼び寄せられているなんて、小花ちゃんだって知らなかったはずだ。
知らなかった事実に困惑する彼女に、エレナさんは楽しそうに笑う。
「ねぇ…まさか、この甘い香りも『神様の力』だと思っていたの? 力を得た代償だとでも…? 確かに『神』の存在を認識していないと発生しない事例だけど、これは遙かな過去の時代からあって、『黒髪の少女』の本にも、こう記されているのよ」
エレナさんは、僕と小花ちゃんを意味ありげに見て、その言葉を続けた。
「『神様に恋をした少女は、神を誘うために、花の香りを身に纏う』…と」




