11 甘い蜜の香り ①
美夏の告白に辺りが静まりかえる。
遠くから聞こえる学生達の声も凍り付いた空気の中で届かず、美夏は自分が言ったことに気づいて口を押さえるが、零れた言葉と想いはもう戻らない。
青くなった顔で振り返る美夏に、小花は瞳に涙を溜めて悲しげに口を開く。
「…言わないって…約束したのに…」
それは十三年前の話。
季節は夏を迎える少し前……。六月のとある病院にて、初めての出産を終えた妻が夫に喜びに満ちた顔を向けた。
『見て、陽太さん、女の子ですって』
『赤ちゃんってこんなに小さいのか…。葉子もよく頑張ったね』
出生体重は、少し小さな2200グラム。
『それで、この子の名前なんだけど、俺が『陽』でお前が『葉』だから、花の名前がいいと思ってるんだけど、なかなか決められなくて…』
『それなら…小さくても、綺麗な綺麗な花が咲くように…『小花』ちゃん…なんてどうかしら?』
御崎家長女、小花。
小さな頃からおとなしい子供…。よく泣くけれど手のかからない子供。
言葉を覚えてお喋りするようになっても。
『あらあら…小花ちゃんどうしたの? また泣いちゃって…。転んじゃった…?』
泣いている理由を聞いても、ただ泣きながら首を振る。…そんな子供だった。
そんな子だから外で走り回るよりも、部屋で絵本を眺めたり、一人でお絵かきするのを好んだ。
父の陽太はそんな娘を、有名な礼拝堂のステンドグラスや様々な楽器の演奏会にも連れて行き、美術館で美しい絵画を見せてあげた。
そして……小花が四歳になったある日のこと。
『小花ちゃん…どこか痛いんじゃないの?』
泣き虫が直らない。…それどころか以前にも増して泣くことが増え、声を押し殺すように泣いている娘が心配になり、葉子が何度も聞いてみると。
『……しいの…』
『…え?』
『むね……くるしい…の』
痛みではなく、胸が押さえつけられるように重くなって動けなくなる。
呼吸も困難になるから走れなかった。
だから、外で遊ぶことが出来なかった。
四歳になって語彙も増えて、小花はやっとそのことを伝えることが出来た。
泣き声を我慢していたのは、泣いてしまうと大好きな両親が悲しい顔をするから…。
そして……。
『娘さんの心臓に重大な疾病が見つかりました…』
ある大学病院の医師が陽太と葉子にそう宣告する。
娘が苦しみを訴えた日から両親は何カ所も病院を巡り、何度もお願いして複雑な検査を繰り返した結果、小花の心臓の一部が動いていないことが判明した。
『…おかあさん、ようちえん…いきたい』
『ごめんね…。もう少し元気になったら…ね?』
暑い日は幼稚園を休んだ。寒い季節は家から出ることも出来なかった。
数年が過ぎても…。
『おとうさん…、わたしのランドセルは…?』
『ごめんな、荷物はお父さんが持つから…』
小学校の入学式の日……両親は泣いていた。
運動会はただ一人だけ体操着に着替えることもなかった。
遠足の日はベッドの上でお菓子を食べた。
『こはなちゃん、いっしょに遊ばないの?』
『おとうさんが、そとで遊んじゃダメだって…』
『こはなちゃん、いっしょに帰らないの?』
『おかあさんが、お迎えにくるまで帰れないの…』
いつしか……小花の家に遊びに来るような友達はいなくなっていた。
『小花ちゃん、何か食べたいものはない?』
『お母さん、ごめんなさい……、今はお腹いっぱいなの…』
九歳になる頃には、家にいるよりも病院のベッドにいる時間が長くなっていた。
すでに心臓の三分の一が機能を止めて、歩くことさえままならなくなり、ベッドの上で教科書を眺めるだけ日々が過ぎていく。
『それなら、売店で生ジュース買ってくるわね。小花ちゃん、あれ好きでしょ?』
『うん……ごめんね、お母さん』
病室から出る母の背中を、そっと見送る小花の目から光るものが零れた。
『……本当に………ごめんなさい………』
四年生になって教科書だけが小花に届いた。
ただ弱っていくだけの小花は、いつしか大部屋から人の少ない病棟の個室に移され、新学期から一度も学校に行くことなく、十歳の誕生日も病院のベッドで過ごして…。
『まさに神の奇跡としか言いようがない』
小花の身体は、ある日唐突に回復の兆しを見せ、主治医がそうつぶやいた。
心臓の半分はまだ動いていなかったが、動く部分のみで奇跡的に血液は巡り、病気の進行も止まって、見る間に歩けるほどに回復した。
治癒要因も不明で、下手に手を出すと今の状況を崩しかねないため、後は通院だけで自宅療養の形となった。
病名・進行性心筋梗塞(仮) 原因・不明 治癒要因・不明
…『神の奇跡』とはよく言ったものだ。
さらに時は流れて……退院してから一年後。
『小花ちゃん!?』
家族が不在だった美夏の家で、二階から外に抜け出して遊んでいた小花は、胸に苦しみを感じて倒れてしまった。
『ど、どうしよう、…救急車…小花ちゃんの家に電話を、』
『…待って…』
動揺しながらも電話をかけようとする美夏を、小花が青い顔で止める。
『でもっ』
『お願い、…待って。しばらく休めば落ち着くから…』
『だって、…でも、』
『本当に……大丈夫だから』
青白い顔で冷たい汗を掻きながらも小花は微かに笑ってみせた。
『…お願い…誰も言わないで…。もう病院のベッドは嫌…。壊れ物のように扱われて…、硝子ケースのお人形みたいな…生活はもう嫌なの…』
途切れ途切れに話す小花の様子に、美夏がぽろぽろ泣きながら小花の手を握る。
『ほんとに…大丈夫…?』
『うん…。だからもう少しだけ…手を握ってて…』
泣くほど心配してくれた美夏にだけは、小花は病気のことを話した。
他の人には内緒にするようにお願いして、美夏はそれを指切りで約束してくれた。
***
□一樹 12:40
「…ご、ごめ…んなさい…」
小室さんは小花ちゃん震えるような声を聞いて、泣きながらその場から逃げ出してしまう。
「美夏ちゃ…」
呼び止めようとした小花ちゃんの息が詰まり声が止まった。
小室さんの背中は、学内に沢山植えられた木々に隠れてもう見えなくなり、それを放心したように見つめていた僕たちに、小花ちゃんは目元を拭って振り返る。
「ごめんなさい…、おかしな話を聞かせて」
静かに頭を下げる彼女に、僕もようやく衝撃から我に返った。
「それは、…いや、それより小室さんも…」
「すみません…。美夏ちゃんは私一人で追いかけます。…ごめんなさい。私の我が儘です。深見くん、悪いんだけど…」
「五時間目の担当教諭には、保健室なり何なり誤魔化しておきますので、小花様はお気の済むまでご存分に」
行之丈くんは小花ちゃんの言いたいことを察して、そう答えながら臣下のような礼を取った。
小花ちゃんはもう一度僕たちに頭を下げて、小室さんを追って走り出す。
「…っ、」
走ってもいいの? そう言いかけたけど、自分の身体は小花ちゃんが一番良く知っているだろう。それに……こう思われるのが嫌で内緒にしていたんだろうな。
今の僕に何か出来ることはないのか……。
「それでは五十根様、わたくしは授業に戻らせていただきます」
「…あ、うん、」
自分の無力さを考えていた僕に、落ち着いた仕草で行之丈くんが頭を下げた。
「君も大変だね…」
その落ち着きぶりに、少しだけ脱力感を感じながら労いの言葉を掛けると、行之丈くんは微かに笑って眼鏡をくいっと指で上げた。
「いえ、それが私の『役目』ですから」
*
□小花 12:50
木漏れ日が差す木々の間を、白い蝶がヒラヒラと舞って……。
「…美夏ちゃん、みーつけた」
大きな木の根元で膝を抱えて泣いていた美夏ちゃんは、聞こえた私の声にハッと顔を上げてから、すぐにまた膝に顔を埋める。
そんな彼女の横にそっと腰を下ろして、私はゆっくりと独り言のように話しかけた。
「ごめんね…」
「………」
「ずっと私のこと、心配してくれてたんだよね…」
「………」
「三年前…。退院したばかりの私と友達になってくれて、…嬉しかった」
「………」
「二年前に倒れた時も……ずっと側に居てくれて、嬉しかった…」
「………」
「ごめんね……、いつも心配ばかりさせて。…いつも気にかけてくれて」
私は美夏ちゃんの肩に自分の頭を軽く乗せる。
「美夏ちゃんがいてくれるから、……私は笑うことが出来るんだよ」
私の頬に触れていた美夏ちゃんの肩が微かに震えて……。
「……小花…ちゃん……ごめん…なさい…」
「ううん…。私こそごめんね…」
「…こはなちゃ~ん…」
私がそっと美夏ちゃんの柔らかな髪に触れると、やっと顔を上げてくれた彼女が、私の胸に抱きついてまた泣き出した。
……私って本当に自分のことばっかりだ。
美夏ちゃんは、いつも私のことを見守ってくれた。
いつも私を気に掛けて過保護なまでに心配してくれた彼女は、今までずっと独りで耐えてきたんだ。
誰にも相談出来ない、自分だけが知っている友達の『生命』に関わる重大な秘密に、美夏ちゃんはどれだけ恐怖したのだろう……。
私も……決めなくちゃ。
………………ドクン…ッ。
「…きゃ!?」
涙も止まって顔を上げかけていた美夏ちゃんの顔を、私が強引に胸に抱き寄せた。
「ど、どうしたの、小花ちゃん…」
「ごめん……。私も泣いちゃって変な顔してるから…」
「……珍しいから、ちょっと見たいかも」
少しだけ固い声になってしまったけど、美夏ちゃんは納得してくれた。
「ごめんね、…すぐに『治る』から」
私は静かに空を見上げて……、突然、高く澄んだ秋空が血色に染まるのを感じた。
自分の『力』を自分で制御出来なくて、勝手に真紅に染まる瞳に、心が凍てつくように冷めていく。
もう……限界なんだ。
私の『生命』の危機を感じて、命を繋いでいる神様の『存在認識力』が暴走し始めている。
だから、私も決めなくちゃいけない。
「……美夏ちゃん、お願いがあるんだけど、…いいかな?」




