9 告白 ①
一樹はポエマー
□一樹 12:15
枯れ葉色の絨毯が、足の下で乾いた音を奏でる。
暑そうに見えていた冬服の制服も、いつの間にか違和感はなくなっていた。
隣と歩く彼女の歩いた跡が少しも落ち葉が崩れていないのも、その横顔を見ていると何故か納得してしまう。
彼女の細い睫毛に掛かる淡い瞳の色が綺麗に見えるのは、それも秋のせいだろうか。
「五十根先輩、お呼び立てしてごめんなさい」
以前より少しだけ長くなった細い髪がさらりと流れて。
「呼ばれた、って、まだ大学の構内だし、来てくれたのは小花ちゃんだよ?」
「…そうでした」
冗談めかして言うと小花ちゃんも笑って、琥珀色の瞳を細めた。
今ではそんな普通の笑顔も見せてくれるようになって、僕に彼女がちゃんと存在する一人の女の子だと実感させてくれた。
「今日はどうしたの? 何かあったっけ…?」
大学生と中学生では、同じ敷地にあるとは言え滅多に会うことはない。実際、四日ぶりに会う小花ちゃんは、辺りを見渡して空いているベンチを見つけてから僕を見た。
「あの…お昼がまだでしたら、ご一緒しませんか? 作ってきましたので」
小花ちゃんが初めてお弁当を作ってくれてから三週間が経ち、これで四回目になるけど、一緒にと誘われたことはなかった。
そしてもちろん、僕が断る訳もない。
「うん、ご馳走になるよ」
本日のメニューは『彩りサンドイッチ』。
・トマトとレタスとローストチキンのサンド。
・エビとアスパラとアボガドのサンド。
・溢れるほどたっぷりなタマゴサンド(激甘)。
どれもちゃんと美味しくて僕はあっと言う間に食べてしまったけど、小花ちゃんはトマトの水分で濡れたパンにちょっと落ち込んでいた。
最後に小さな水筒から、温かな紅茶をいただいていると。
「……あの、…また……アレをお願いしたいのですが…」
いきなり切り出された例の『お願い』に、僕は紅茶を吹き出しそうになった。
僕は動揺を隠しつつ平静を装う。
「えっと……前にしてから、あまり日も経ってないけど、身体は大丈夫? 少し辛いんでしょ?」
「はい…」
僕の言葉に小花ちゃんは恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「五十根先輩が、いつも優しくしてくれますから」
「…………」
何故か最近、神経が削られているような気がするのは気のせいだろうか……。
そもそも、こんなカップルだらけの場所で、大学生が中学生とお弁当を食べていること自体が拙い気がする。
他の人達からは、僕らはどう見えるんだろう…?
僕も彼女も兄妹みたいに思っているけど、僕はともかく小花ちゃんに変な噂が流れるのは、心のお兄ちゃんとしては宜しくない。
「……もしかして、今夜はご予定がありましたか?」
「あ、ごめん、違うこと考えてた。今日の予定は大丈夫だよ。…ただ、小花ちゃんみたいな妹が居たらなぁ……なんて」
不安そうな顔をしていた彼女にそう言うと、小花ちゃんは一瞬だけ表情を止めて、微妙な笑顔を浮かべる。
「…妹…ですか」
あれ…? 何か失敗したかな? と思っていたら小花ちゃんはすぐにいつもの笑みに戻った。
「うん…それもいいですねぇ。……だったら」
いつもの笑顔のはずなのに、僕は何故かたじろいでしまい、小花ちゃんはいつもよりもニッコリ微笑んだ。
「これからは『お兄ちゃん』って呼びますね」
「…………」
□一樹 0:05
さすがに肌寒くなってきた10月終わりの深夜。
いつも必ず僕より先に来ている彼女が、今日に限ってまだ姿を見せていない。
「メールしようかな…」
でも事故でないなら必ず連絡はくれるだろうと思って、もう少しだけ待ってみると。
「…す、すみません、遅れました」
僕が来た道ではなく、暗い路地のほうから小花ちゃんが謝りながら現れた。
「ううん、この程度なら遅れたうちに入らないよ」
路地の向こうは鍵の掛かったドアしかないのに、彼女はどうやってきたのだろう?
「本当にすみません…。今日は双葉…弟がお昼寝しすぎたみたいで、なかなか寝付いてくれなくて…」
「へぇ…弟くんがいるんだ?」
「はい、まだ三歳なんですけど、凄く可愛いんです。でもなかなか『お姉ちゃん』って呼んでくれなくて」
ニコニコと弟くんのことを話す小花ちゃんからは、本当に可愛がっているのが伝わってきて僕も思わず笑顔になる。
でも……。
「本当は逢えなかったはずの弟だから…」
三年前に死んだはずの彼女の言葉は、重くて…切なかった。
「…あ、それと、」
しんみりとする空気に、小花ちゃんは慌てて明るい声を作る。
「最近寒くなってきたので、服を選ぶのにも悩んでしまって」
「あ~、そうだね」
小花ちゃんが来た時から気になっていたけど、今日の彼女は真っ白なワンピースで、華美な装いが苦手な彼女には珍しく、ふわふわフリルのとても可愛らしい物だった。
「これ、鎌倉のお祖父ちゃんが、入学祝いに買ってくれたんですけど、あまり着る機会が無くて…」
「いや、…うん、よく似合っているよ」
「……すみません」
何が失敗したのか、小花ちゃんはさらに真っ赤になって縮こまってしまった。
普通に似合っていると思うけど、……あ。
「…小花ちゃん」
「はい…?」
「その服だと…汚れない?」
「………あっ」
いつもは汚れても目立たないように濃い色の服を着ていたのに、今日は服選びに夢中になって忘れていたらしい。
「…………」
小花ちゃんはお祖父さんが買ってくれたワンピースに視線を下ろして、小さく溜息をつくと諦めたように僕に顔を向けた。
「…あの、今日は前を開くだけではダメだと思いますので……ごめんなさい」
「うん…?」
何で謝られたのか分からないまま頷くと、小花ちゃんは真っ赤な顔でもう一度『ごめんなさい』と謝ると、胸のリボンを解いて……はらりとワンピースを腰まで下ろした。
「…え!?」
夜気に晒される、絹のような白い肌……。
さらに白くて…淡い膨らみを包み込む、白い布地……。
両手で胸元を隠す雪のような肌は、見つめていると桜色に染まって……
「……ぁ、あの」
「うわぁっ、ごめんっ」
泣き出しそうな小花ちゃんの顔と声に、凝視してしまっていた僕は我に返って慌てて後ろを向いた。
小花ちゃんは、いつもは胸元だけを開いて露出は最低限に抑えていただけに、今の状況はすごく恥ずかしいんだと思う。
「………でも、見ないと出来ませんよね…」
それでも下着の前のホックを自分で外し、プールサイドのベンチに横になる彼女の健気さに、僕は思いを新たにする。
けれど……。
「…お願いします。…お兄ちゃん」
「…………」
潤んだ瞳で…上気した頬で…濡れた口唇で……、そんな台詞を言うのは激しく反則だと僕は思った。
小花ちゃんは用意してくれていた物を僕に手渡して。
「ちゃんと『アレ』を使って下さいね。…危ないですから」
「…うん」
そうだね。うっかり使い忘れたら大変なことになる。
横になった彼女に僕はそっと近づいて………僕の『異法』を発動させた。
僕が『異法使い』と呼ばれる力は『浄化』だった。
でもこの世に浄化出来る物があるのかというとほとんど無く、出来るのは海水や腐った飲み物を無害な真水に変えると言う、とても微妙な能力だ。
どんな物でも真水に変えられるのは強力に見えるかも知れないけど、実際は使い勝手が悪く、僕から5ミリ以上離れれば効果が及ばなくて、間違った絵の具を消したり、お風呂の湯の取り替えを数日先延ばし出来る程度で、かなり実用性は低い。
だから誰にも気付かれることはなかったんだけど……。
小花ちゃんの『お願い』とは、異法を使いながら僕に血を吸い出して欲しい……そんなことだった。
一度死んで蘇ったらしい小花ちゃんは、その『存在』が不安定らしく、生きているだけで『歪み』が生まれる。
歪みは彼女の『力』の一部を変質させて、おかしなモノを呼び寄せる『甘い蜜』になり、それだけでなく、蜜は血に溶けて小花ちゃんの心臓を圧迫していた。
対処法は蜜となった『血』を抜き取ることだけど、その血は彼女以外の生き物にとっては『猛毒』らしい……。
しかもやっかいなことに、毒の血は彼女から離れると強い酸に変わり、あらゆる物を腐食させるため、小花ちゃんは注射器みたいな物を使って抜き取ることを諦めていた。
そこで僕の出番らしい。
毒の血を浴びても死ななかった僕なら、小さな傷から小花ちゃんの毒を吸い出して、浄化することが出来るんだ。
………胸からなんだけど。
僕が安全ピンを白い胸元に近づけると、小花ちゃんはギュッと目を瞑る。
最近気付いたけど、小花ちゃんは痛みに対してとても恐がりだった。
だからこそ僕に頼むんだろうけど……。
あの夜…自分の胸を刃物で切り裂いた彼女の気持ちを考えると寒気がした。それも、三年前から…10歳くらいの時からそれをしていたのだとしたら、痛みや刃物に対してかなり恐怖心を抱いているだろう。
「……ぁ、」
胸の真ん中を針で突くと、白い肌に赤い玉が生まれ、瞬く間に甘く濃密な蜜の香りが辺りを満たした。
この香りが拡がって『害虫』を呼び寄せてしまう前に僕が浄化しないといけない。
出来るだけ肌と…膨らみを見ないように口を付けると、小花ちゃんがピクンッと跳ねて、胸に乗せていただけの下着がずれてしまった。
「あ、」
一瞬固まってしまった僕が何かをする前に、普段の彼女からは想像も出来ない速さで小花ちゃんの手が下着を押さえる。
「……すみません…」
「い…いや…」
ちなみに僕は何も見ていない。うん、一瞬だったし、記憶にも残らない。
そんなことより今は『毒血』を抜き取るほうが先だろう。
命を繋ぐ神様の力のおかげか、小花ちゃんの身体は傷の治りが早く、小さな傷なら数分で傷跡さえも消えてしまうので、血を吸い続けていないと傷が消えてしまう。
早くしなければ…と、焦る気持ちはあるけど、新たな問題も起きていた。
小花ちゃんが胸を隠すために手で押さえているので、血を吸い出している僕の両側から、柔らかな膨らみが頬に押し当てられるんだ。
「…………」
なんとか……中学生によこしまな気持ちを抱かないように作業を続けて。
「…もう大丈夫です」
吸い出した血が、彼女が用意した水入れに半分溜まったところで、小花ちゃんが僕を止めた。
元は毒だから、ちゃんと吐き出すように言われていたけど、その甘い味わいに僕は何度も飲み込みそうになった。
これが『甘露』って奴なのかな……。
そんなことをぼんやり考えていた僕は、肌を隠すように下着を着け直す白い背中に居たたまれなくなって、小花ちゃんの肩に上着を掛けてあげた。
「ありがとうございます。…あの」
「どうかしたの?」
小花ちゃんは微妙な顔で言いづらそうに言葉を続ける。
「やっぱり…『お兄ちゃん』って呼び方、変えてもいいですか……?」
「…だよねぇ」
やっぱり僕だけじゃなくて、小花ちゃんも恥ずかしかったのか。
まぁ理屈じゃなくて、小花ちゃんみたいな子に『お兄ちゃん』と呼ばれるのは後ろ髪を引かれるけど、僕の心の平穏のためには『先輩』か『五十根さん』あたりが丁度いいかな。
そう考えていた僕に、小花ちゃんは初めて見せるような大人びた表情で……。
「一樹さん…って呼んでもいいですか…?」
優しい夜風に彼女の繊細な黒髪が揺れて、桜色の頬をさらりと流れる。
妹だったらいいな…と、まだ子供だと思っていた女の子が見せた大人の顔に、僕は息を飲み込む。
「うん……いいよ」
何とか頷いた僕を琥珀色の瞳が優しく映していた。
この年頃の女の子は、見るたびにその色彩を変えていく……。
「…あ、もう一時近いから、そろそろ帰る用意をしよっか」
「は、はい…」
少し早口になった僕が言うと、僕を見つめていた小花ちゃんも慌てて着替えを再開した。
そんな小花の様子に僕は何故かホッとする。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
そう声を掛けると、僕が上着を貸しているからか、さらに焦って急いでいるけど、何故か着替えが終わらない。なんだろう…?
「もしかして、どこか痛いの?」
不安になって聞いてみると、小花ちゃんは申し訳なさそうな、恥ずかしそうな、泣きそうな顔で小さく振り返る。
「いえ、……その……夏に買った…下着が、少しきつくなってて…」
「…………」
この年頃の女の子は、見るたびにどこかが成長している……。




