最愛の人へ
彼女が生まれた時の事をよく憶えている。
元気な産声は生命力に溢れていて、お母さんは息を荒げながらも幸福に満ちた笑顔で彼女を抱いていて、僕は強い憧れと少しの嫉妬を感じていた。
それからすぐに彼女は立って歩けるようになり、あどけないながらも話をするようになった。
驚いたのは彼女が僕に話し掛けてきたことだ。
舌足らずな発音だったけれど、彼女は確かに僕の目を見て「お兄ちゃん」と言った。
お父さんとお母さんは驚いていたみたいだけれど、僕にはそれが嬉しさを倍増してくれた様に思えた。
それからは2人で遊ぶことが増えた。
それは時に冒険ごっこであったり、おままごとであったりした。
僕自信、彼女と遊ぶのはとても楽しかった。
それに彼女が太陽みたいに笑うから・・・。
僕はその笑顔が好きだった。
光陰は矢の如く過ぎ去って行く。
僕がそれを横目で見ているうちに、彼女は随分と大きくなって、いつの間にか僕の事を“お兄ちゃん”とは呼ばなくなっていた。
成長すれば話が出来なくなると何処かで聞いたことがあるような気がしたけれど、僕達は相変わらず2人で遊んでいた。
内容はかなり変わってしまったけれど、彼女が笑うとパッと花が咲いたようで、僕はまたその笑顔が大好きだった。
「何なの!?もう信じらんない!」
その日、彼女は学校から帰ってくると一直線に枕へ顔を埋めた。
「どうしたの?」僕の発言は心配から出たものではない。
ただ、僕の知らない表情を作る彼女がどうしてそんな顔をするのか知りたかった。けれど―――
彼女は顔を上げ、朝露に濡れた牡丹のような笑顔を作り、言った。
「あなたは、優しいね」
違う。優しくなんかないよ、これは全部僕のエゴなんだ。
僕の指では、君の涙を拭えないから。
君が泣いていると、僕がそれを思い知ってしまうから。
そんな感情に押し潰されそうになっている僕の事なんてまるで知らずに、彼女は安心仕切った様子で話し始めた。
彼女の話を聞き終えた僕が抱いたのは、“よくある話だ”という冷淡な感想だった。
僕自信、自分はきっと激昂するだろうと思っていたのだ。それなりに驚いた。
それでも、彼女が僕に話をしてくれた喜びには勝らなかったらしい。
彼女の置かれた立場は、所謂“いじめられっこ”だった。
大きくなった彼女は来年1月に大学受験を控えており、それに応じて教室の空気も悪くなる。
彼女はその殺伐とした空気の捌け口にされてしまったのだろう。
よくある話だ。
正直うんざりだった。
――嫌がらせなんて、贅沢じゃないか。
自然と冷えていく自分の思考を頭を振る事で自省する。
こんなになってまで僕は、自分の事で頭を悩ませるのをやめられないのかと。
「ごめんね、こんな話して。大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込む彼女に、咄嗟には返事が出来なかった。
遅れて大丈夫だと曖昧な返事をする。
彼女が困っている時だというのに心配してもらうとは情けない。
「それでさ、君は今のこの状態をどうしたいの?」
いきなりぶっ飛んだ質問をしてしまったと思った。
それでも彼女は嫌な顔一つせず、少しばかり考えた後にさらりと答えた。
「そんな事考えてなかった」
「は?」
「だってさ、外で辛いことがあったとしてもあなたが元気付けてくれるでしょう?」
同意を求めるニュアンスを含んだその言葉に小さく頷く。
「僕はいつでも此処にいるからね」
彼女は僕の大好きな笑顔でそれに答えた。
しかし、当然そんなもので全てが解決してくれる訳なんてなかった。
受験が間近に迫ってくるとクラスの嫌がらせも比例するように悪化した。
そんなおりの出来事だった。
彼女が倒れたのだ。
自分自身も受験期でピリピリしているときにこの仕打ちだ、無理もないのだろう。僕が大慌てで様子を見に行くと、彼女はいつかのように枕で顔を隠していた。
「何であなたはここにいるの?」
彼女から吐き出されたのは意表を突く質問だった。
そんな事を聞かれるとは思っていなかった僕は返答に窮する。
「どうしてそんな事を聞くのかな」
「だって私は、あなたの名前も知らない」
心臓を握られたかと思った。
「そんなの、知らなくても困らないでしょう?」
「困るよ!」
空気を切り裂くような鋭い声に身動ぎしてしまう。
彼女が僕に対して怒りを顕にする事はかなり稀だった。
まあ当たり前と言えば当たり前か、だって僕らは初めから線引きが成された関係だったんだから。
だからこそ彼女の言葉は余計に強烈に感じられた。
「あなたに会いたいのに側に居てくれない時、あなたをどうやって呼べば良いのか分からない。
それに・・・なんだか、あなたに拒絶されてるような気がして・・・」
「そんな事あるわけないじゃないか」
「じゃあ、何で私に内緒にするの?」
だって・・・。
「僕の過去を知ってどうするの?」彼女が顔をしかめる。
僕の言い方がきつすぎただろうか。
震えた声で抗議してきた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん!」
「ごめんね。でも、聞いて楽しいものじゃないよ」
そう言って笑って見せれば、彼女は対照的な感情を色濃くし、
「名前くらいは知りたかった」
拗ねたようにそう言って再び枕に顔を沈めたのだった。
その後も僕らの関係は変化を遂げることなく、彼女は無事に受験を乗りきり平穏な生活が戻ってきていた。
それでも僕の隣には変わらず彼女がいる。
その日彼女は1冊のファイルを持って僕の前に表れた。
「どうしたの?今日は随分と気分が良さそうじゃないか」
ふふん、と誇らしげに鼻を鳴らしてファイルのあるページを示唆する。
その指を辿って視線を巡らせると―――。
「何で・・・」
「やっぱり、これはあなたの名前だよね」
信じられない気持ちで彼女を見つめた。
彼女は興奮した様子で僕にこれ迄の経緯を説明する。
「ずっとこの家に住んでるって事は、この辺りの人なら誰かはあなたの事を知っているんじゃないかって思ったの。それであなたの特徴を何人かに話してみたんだけど・・・そしたらお母さんが、家の戸籍謄本とこのファイル持ってきてくれて」
軍人が戦果を誇るように、子供が悪戯を成功させた時のように彼女は無邪気に笑う。
その無邪気な探求心が時に人を傷付ける事を知らない年齢でもないだろうに。
「あなたの名前は椿、私の叔父にあたる筈だった人でしょう?」
喉の奥から笑いが溢れる。
「そこまで確証を持ってるのに確認する必要があるの?」
彼女は僕に否定して欲しかったのだろう。
でも僕にはそれを否定する余地はなかったから。
「多分さ、僕よりも君のお母さんの方が詳しいと思うんだよね」
「どういう事?」
「死んだときの記憶が飛んでるみたいでね、あんまり覚えてないんだ。続けてくれる?」
彼女は顔を真っ青にしながら頷いた。
「このファイル、あなたが亡くなった時の調査ファイルだったの」
そう言って中の紙を1枚捲る。確かに目に飛び込んできたのは自分の名前と顔写真だ。
「夜中に忍び込んだ強盗を偶然発見しちゃったんだって。それを止めようとして揉み合っているうちに、弾みで強盗が持っていた刃物が刺さってしまったって」
その紙の下には現場の写真。今では物置になり埃を積もらせている部屋だ。
自分の死を自分の目で確認しているのだからもっと感じるものがあるかと思ったが、予想に反して余りにも僕は冷静だった。
“他人事”という言葉が胸にストンと落ちた。しかし、
「早坂椿、享年26歳。刺傷による失血死」
失血、その感覚だけは不思議と鮮やかに思い出せた。
「そうか、殺されたんだっけ・・・」
僕の声が露骨に沈んでいたのだろうか、彼女が気遣わしげに此方を窺う。
「ごめん。嫌なこと思い出させたよね、そんなつもりじゃなかったんだけど」
彼女が延ばした手が僕の頬に触れようとしてすり抜ける。
寂しそうな表情を浮かべる彼女にある種の懐かしさを覚えた。
僕も初めのうちは何も感じない肌に寂しさを覚えたが、それも最近は感じなくなっていた。
僕は気丈に笑ってみせる。
心配はいらないと。
大丈夫だと。
「無理して笑わなくても良いよ」
その瞳いっぱいに涙を溜めておきながら、強がっているのはいったいどちらなのか。
「無理なんかしてないよ」
納得できない様子の彼女に重ねて言う。
「本当に無理はしてないんだ。こんな姿になっておいて変な話だし、それに君に触れられないのはとても残念だけれどね」
「悔しくないの?・・・だって、まだ生きられたのに・・・」
悔しそうに唇を噛み締める姿に、同情は湧いても同感は出来ない。
「・・・だって、あの時僕が殺されてなかったら、今君とこうして話すことは出来なかったと思うから」
彼女が信じられないと言いたげな目を向けてくる。
こんなにも親身になって心配してくれる彼女に笑みが溢れる。
「そんなに悲しそうな顔をしないで、僕は君の笑った顔が好きだ」
僕がそう言うと、彼女は不満げな顔をしつつも頷いた。
その日以降は彼女から生前の僕について探られる事もなく、またいつものような時間が流れていた。
「・・・・何してるの?」
机にかじりついている彼女に単純な疑問符が浮かんだ。
どうやら論文を書いているらしい。なかを覗いてみたが何の話だかまるで分からなかった。
「懐かしいな、卒論ですか?」
声をかけると彼女は難しい顔で振り向く。
あなたは楽そうですねという不平が見てとれた。
「あなたは何について書いたの?」
「“ヒモ理論に関する思考と解答”」
文系の彼女にヒモ理論は縁遠かったらしい。頭の上の疑問符を察して説明を付け足す。
「物理の理論だよ。答えが見つかってないからネタに使っても二番煎じにならないんだ」
僕の言葉を聞き終わらないうちに、彼女は僕に背を向けて再び作業に取り掛かってしまった。
そうして大人しく座っている姿を見るといつも連想してしまう言葉がある。
「立てば芍薬、座れば牡丹―――」
「名前負けしてるって言いたいの」
言葉を遮る様に僕を睨む。
僕は小さく笑いながら首を振った。
「違うよ。君には牡丹よりもフリージアが似合うってこと」
それを聞いて彼女も声をあげて笑い出す。
「お転婆だって言いたいのね」
「悪いことじゃないよ。僕は活発な子の方が好きだ」
「ふふっ、私もこれが欠点だとは思ってないよ」
「当たり前さ。それが君の美点なんだから」
そんなことを話していると不意に彼女が僕に顔を近づけてきた。
「それって私の事が好きって言いたいの?」
目を見張るような質問をするその目に期待が宿るのを感じた。
大きく見開かれた焦げ茶色の瞳に吸い込まれそうになるのをグッと堪える。
彼女の期待に添える解答は出来ないのだから。
「好きだったらどうするの?」
「え?」
「僕が君を好きだと認めたところで、僕らの関係は何も変わらないんだよ?」
その言葉の意味が分からないほど鈍感でも無いようで、彼女は苦虫を噛み潰した様に顔を歪めた。
「そりゃあ・・・そうだけどさ」
何かを思案するような間が少しあり、彼女が口を開いた。
「今日ね、同じサークルのこに告白されたよ。この時期に?って思ったけど・・・でも・・・・」
「嬉しかったんだ」
「・・・・うん。でも私、ずっとあなたとしか居なかったからかな、他の人と親密になるのが少し怖い」
噛み締める様に言葉を交わす。
今は特に彼女に触れられない事がもどかしかった。
「君はまだ兄離れが出来ないの?」
「兄離れ?」
「そう、君は小さい頃から僕と2人きりでしか遊ばない引きこもりっ子だったから、だから家の外を知らなすぎるんだよ」
ポカンと口を開けている彼女に微笑み掛けて先を続ける。
「そう言うものは色んな人との関わりの中で学ぶものだよ。僕に捕われずにもっと広い世界を見ておいで。」
色んなものを見て、色んなものを聞いて、色んなものを感じて、そうして人は大人になっていくのだから。
僕なんかに囚われていてはいけない。
君には死者の為に費やす時間なんてない筈だ。
「君には僕の分まで幸せになって貰いたいから」
彼女は深く俯いて、やがて絞り出すように呟いた。
「・・・・わかったよ」
だから、僕は出来る限り綺麗に微笑んでみせた。
大学を卒業すると同時に、彼女は家を出ると言い出した。
家族は渋っていた様だが、当然僕は笑って頷いた。
正直、かなり寂しかったけれど、それは紛れもなく僕が提案したことだから。
引っ越しの日はすぐにやって来た。
新しい家に荷物をほとんど送り終えて、小さな鞄に少しの日用品を携えて。
出発直前になってから僕は彼女の前に姿を見せた。
「やっと来た」
僕を見て、彼女は口許を綻ばせる。
何も言えない僕を小さく笑った。
「まさか今更寂しいなんて言わないよね」
「・・・言わないさ」
そう掠れた声で返して深く息を吸い込む。
視界の端で早咲きの桜が揺れた。
自分の事は自分でよく分かっている。
僕が言うべきたった1つの言葉を。
「行ってきます、椿」
―――驚いた。
彼女がヘタレな僕を見兼ねて声を掛けてくれた事にも、その声の明るさにも。
でも何より驚いたのは、彼女が呼んだ名前が僕の中でしっくりきたこと。
桜が一枚、風に乗って舞い踊る。
あの日から呼ばれることの無くなったその名前。
ずっと誰か違う人のもののように思っていた名前がやっと自分の物になった。
僕はとびきりの笑顔で彼女に答える。
君のお陰で、やっと僕は僕を取り戻せたから。
「行ってらっしゃい」
とびきりの笑顔で、僕は最愛の人の幸福を願う。
風に踊る花弁が段々と量を増す。
僕の視界を覆う程の花弁はたった今見送った彼女の後ろ姿を隠すほどに。
「さようなら、牡丹」
振り返った彼女の涙を、しかし僕が見ることは無く。
早すぎる満開の桜が僕の視界を白く染める。
完全に真っ白になった視界の中で誰かが僕の腕を掴んだ。
大丈夫、怖くなんかない。
世界から弾き出された僕が、正しい輪の中へ帰るだけだ。
「―――」
どこか懐かしいその声は僕の名前を呼んでいるのだと分かる。
その声のする方へと僕は花弁を掻き分けながら進む。
そうか、この声は僕の・・・。
この先に僕の望むものがあるのだと。
花弁を掻いていた手が空を掴む。
開けた視界に柔らかな橙色が映り目を閉じた。
すると何か暖かい温もりが僕の手を掴む。
優しい声が僕を呼んだ。
「初めまして、産まれてきてくれてありがとう。あなたの名前は椿、元気で明るい男の子になってね」