鋼より至る物語
心を殺す鎖を伸ばす。かつてと同じそのように。
何百、何千、何万と無数に繰り返したように。
――身体五殺。呼吸を殺す。足音を殺す。鼓動を殺す。脈動を殺す。視線を殺す。
――心魂五殺。喜びを殺す。怒りを殺す。哀みを殺す。楽しを殺す。愛しを殺す。
この身を鋼に。この魂を「動く無」に。
かつては暗殺者たるために、そして今は、主に仕える完璧で瀟洒な従者たるために。
極めることを本義とするこの一族として、磨いた技の全てを振るう。
手にした刃は、鬼呼の一族が鍛えた大業物。
身を包むのは妖精族の織部司が紡いだ闇吠羊の服。
最悪の可能性を考えて揃えた備えを、今全て行使する。
「ほう……すごいな、技というものは。脆弱な虫の力をここまで上げるものなのか」
だが、その全てを眼前の「魔王」は素手で止めていた。
否。私の刃はその白い皮膚に届いてすらいない。
圧倒的な魔力。術式も祈祷も音呪もない。
ただ、「否定する」という意思だけで、物質的な干渉を遮断する。
これが「魔王」。
冥府宮で継承の儀の続きを行おうとした主が、汚染を受けた……魔界としては本来あるべき姿。
「……だが、しょせんは虫だ」
灼かれた。
否。この身を襲ったのは炎ではない。氷の刃だ。
左の腕を断たれた。殺気を読み取らねば、この胴ごと断たれていただろう。
制御を失った肉体が床に倒れこむ。
磨かれた華陰石の冴え冴えとした冷気が、肉体から体温を奪っていく。
失われた左腕から、赤が流れていく。
「従えば飼ってやろうというものを……」
勝てるはずがない。
相手は魔を統べる王。しかもそれは、一にして四十と三。
歴代魔王の思念と力全てを承継し、一つの肉体に宿したもの。
魔王機構。
一定以上の力量を持つ魔族の残留思念を集積し、知識、力、魔力、欲望、記憶、全てを承継する「最強」を生みだすためのシステムの精髄。
極限まで練磨した技で身体を運用した。
用意できる最強の武具を振るった。
それでもこの圧倒的な性能差は覆らない。
噛み締めた奥歯が鳴る。
何が、メイドだ。
何が、主全ての望みを叶えるものだ。
こうして、主の危機を前にして、這い蹲ることしかできないなんて。
これではあの日と変わらないではないか。
あの終焉の日と。
目指していた背中が崩れ落ちるのを、命の灯火が消えるのを、ただ伏して見ていたあの日と。
――眩む。昏む。暗々と、冥む。黒く、意識が落ちていく――。
◇ ◆ ◇
心を殺す鎖を伸ばす。かつてと同じそのように。
何百、何千、何万と無数に繰り返したように。
焼き討ちに燃えさかる村、遠い悲鳴、瓦礫が崩れ落ちる音。
……そう、これはひとつの終わり。
とある一族の終焉の音。
そこには、倒れ伏す「かつての私」。
心を殺す鎖を伸ばす。いつもと同じそのように。
何百、何千、何万と無数に繰り返したように。
これは、なんだ。
この記憶は、誰のものだ。
私ではない。私が、「私を見下ろしている記憶」など持っているはずがない。
「記憶の主」は、私を一瞥すると、再び炎に包まれた集落へと向き直った。
私より、ほんの少し高い視界。
私より、ほんの少し澄んだ視界。
私はそれをただ、傍観者のように眺めている――。
◆ ◆ ◆
赤い、炎の色。
すべてを燃やし尽くし、灰と化す、戦いの色。
自分の視界は、血と鉄と炎で埋め尽くされていた。
炎の赤と。血の紅と。炙られた鉄の緋と。
これが、『鋼の蜜蜂』の巣。
かつて最強の暗殺者と呼ばれた血脈。その末裔の集う場所。
枯れた鉱山の片隅で業を積み上げ、技を磨く。それだけの場所。
襲撃者は、蒼魔と人魔の混成軍。
かつての雇い主であったはずの存在。それだけで容易に事態を理解することができた。
『鋼の蜜蜂』は優秀過ぎたのだ。
双方の依頼で双方を殺し、双方を限界まで疲弊させた。
それにより、蒼魔、人魔の双方が気づいたのである。
このままでは便利な道具として使っていた少数部族が、雇い主をも超える勢力となりかねないという事実に。
否。それだけではあるまい。
蒼魔と人魔は知っていたのだ。
『鋼の蜜蜂』の長老、『女王蜂』にのみ伝えられる、『蜜』の存在を。
女王から手渡された革袋を握り締める。
『女王の蜜』。
赤と紅と緋に囲まれて、なお赫く輝く宝玉。
それは、『鋼の蜜蜂』が収奪してきた血と魂の具現。
『鋼の蜜蜂』は、単なる暗殺者ではない。
『鋼の蜜蜂』は全員が、ある特殊な魔術を体得している。
その性質は、奪った命の欠片の具象化。
そう。『鋼の蜜蜂』は暗殺とともにその「魂の蜜」を集め、『女王蜂』へと捧げる、収集者であるのだ。
残留思念を、生前の魔力を、そのまま簒奪するほどの大魔術ではない。
魂の一片。一つ一つの花から取れる蜜はほんの一雫だ。
だがそれとて、無数に積み重ねれば、計り知れぬ力となる。
それこそが、集落の頂点である『女王蜂』が代々承継する至宝。力の源。
『女王の蜜』は収束した無数の魂。
歴代女王の命と、『鋼の蜜蜂』が集めてきた蜜とを凝縮させた結晶。
承継した瞬間に、かつての人格は『蜜』に塗りつぶされ、それにより承継者は『女王蜂』となる。
『鋼の蜜蜂』として最強と名を馳せた自分。
その手に今、『女王の蜜』が託された。
集落を捨てて逃げよと。
一人で生き延び、『女王蜂』となって、そこからまた『鋼の蜜蜂』を再興せよと。
そういい残して、先代はその魂を『蜜』へと変えた。
「――『蜂火球』」
飛びかかる兵士を炎の玉で包み込む。
熱で炙られ、肺を焼いて息が出来ぬままもがき倒れていく襲撃者。
自分はまだ『女王の蜜』の承継を済ませていない。
だが、手にしただけでも全身に濃密な魔力が満ちていくのを実感する。
詠唱をしたこともない呪が、音節が、脳裏に浮かぶ。
承継せよと。この力に身を委ねよと。我の一部となれと。
『女王の蜜』が囁きかけてくる。
それは文字通り甘い蜜だ。
不用意に飛び込めば甘美な陶酔とともにこの心は溶かし尽くされるだろう。
その誘惑を振り払い、ひたすらに足を進める。
集落から逃げ出し、安全なところへと身を隠す。
そうすれば私は、虫の女王となるだろう。
最強の『鋼の蜜蜂』は、最強の『女王蜂』となって、この焼かれた巣よりもなお大きい巣を生み出すことができるかもしれない。
仲間を見殺しにする情などない。
この身は鋼で心は虫。
心身十殺。自分の体も心も、標的と一緒にもう数え切れないほどに殺してきたのだから。
でも。
だとしたら、どうして。私の足は、家へと向いてしまっているのか。
自分の家は、他と比べて随分と優遇されている。
それ故に目立ち、襲撃者が多く集まっていた。
周囲に散らばる亡骸を見る。
そこに妹の姿がないことに安堵し、そして同時に、自分の薄情さに笑みが漏れた。
自分は虫だ。人のように笑うことはできる。人のように泣くこともできる。
それでも、心を殺し続けてきた自分は。それに疑問を抱かなくなってしまった自分は、虫だ。
自分は、この里は、『鋼の蜜蜂』は、そうやって生きてきた。そこに、いまさら後悔はない。
足音を殺し、手近な人魔族の心臓を貫く。
何をやっているのだろう。
一族を重んじるならば。今までの自分のあり方を肯定するのならば。
生き延びて、『鋼の蜜蜂』を存続するのが、理屈であろうに。
一人、二人、三人。そこまで蜜を「収奪」したところで、周囲の兵士の意識が自分へと向いた。
真正面からの戦い、しかも多対一。
圧倒的に不利な状況。
いくら研鑽を積めど相手も精鋭だ。そもそも、自分は暗殺者であって戦士ではない。
下卑た表情の男たちが迫り来る。
そのままでは物量に磨り潰される。力が足りない。
ならば。
勝てるためのものを、外からもってくる。
「――『女王の蜜』。この身を器とし、満ちよ」
赫の宝玉を握りつぶす。それは輝く粒となって、掌へと吸い込まれた。
――脳を炙られる錯覚。右と左の網膜が並行して別の記憶を写す。
足元から、光の帯が伸びる。六方。さらにそこから伸びた帯が六方に分岐する。
――内臓覚が皮膚を越境し世界と同化。天に引かれ地が離れ螺旋が踊り識を攪拌する。
描き出すのは無数の六角。その部屋から、朧な鈍色の人型が浮かび上がる。
――廻れゲシュタルトの歪曲。砂の音、嵐の前、降り注ぐ塩の柱、老いた赤子の怨嗟。
手招きするそれは蜜を食われた被害者の成れの果て。蜜を喰った犠牲者の成れの果て。
――喉が渇きひどく痒い。呼吸するも狂おしい。潤いを。蜜を。一心不乱の甘い露を。
ただの幻視だ。振り払うように、襲撃者へ拳を、脚を振るう。枷が外れたかのように体が軽い。
――満たせ満たせよ口と牙。ぐるりぐるりと息巻いて。腹が満ちたらさようなら。
この蜜は無数の魂の集積。それが発露した以上、私の体術はもはや魔法に近い。
――ふるりふるりと踊りましょう。疲れ眠ってまた今度。お目覚め前にいただきます。
研ぎ澄まされて混濁する感覚が、馴染み深い存在を認識する。
呆然と私を見上げる妹の姿。
手にした刃を手に突き立て、痛みで拡散していく自我を引き戻す。
汚染は秒刻みで進行していく。
周囲を見渡せば、襲撃者はわずかずつだが撤退を始めていた。
改めて、物陰に身を潜めてこちらを伺っている妹を見た。
虫になれなかった子。「なぜ」を捨てられなかった娘。
優しい。不器用な。それに何より悩んでいた女の子。
出来損ないの虫。 蜜蜂になれなかった、侍女兵。
言葉が出ない。かけるべき言葉など、見つからない。
けれど、やるべきことは決まっていた。
まだ周囲には、蒼魔と人魔の手勢がいる。
足手まといがいては、抜け出せない。
――否。貴様が『女王蜂』ならば。この妹の甘さを呪で殺し、『鋼の蜜蜂』にできる。
ここから出られるのはきっと、『女王の蜜』の承継者、一人だけ。
――承継せよ。さすれば、貴様ら姉妹は生きることができる。最強の『蜜蜂』として。
自分は残った自我で、最後の力を振り絞る。
――さあ、最強の『鋼の蜜蜂』。己が心を殺しきった清らなる白の魂。
当然の選択肢を掴むために。
――この『女王蜂』の一部となれ、「最強」よ。
脳に流れ込む囁きを遮断する。
「……断る、と申し上げましょう」
一人の蜜を糧とし、一人の花を生かすために。
「『女王』。今まで黙っていましたが」
最強の蜜蜂と呼ばれていた。
最優の『女王蜂』たると目されていた。
その今までの生き方を、
「……自分は虫が嫌いです」
自分は、真っ向から否定した。
四方から弓が射掛けられる。
それを振り払いながら、自分は魂を潰さんとする汚染に抗った。
否。抗うだけではない。それだけでは、足りない。もっと。より強く。より能動的に。
「この魂を鎖とし。この魂を楔とし」
――心魂五殺。
それは「動く無」となる技法。
その本義は、「完全な隠形」を体現することではない。
まっさらな状態で『女王蜂』を受け入れるだけの器となるための精神制御。
魂に自然と発生する感情の抵抗を殺し、『女王蜂』への拒絶反応を防ぐ消毒作業。
今それを、自分は内に蠢く『女王の蜜』――歴代の『女王蜂』が収奪した魂を封じるために行使する。
一の心にて、万の魂を縛る無謀。
そう。無謀である。謀など必要無い。躊躇う理由もありはしない。
この身は鋼。心は鎖。束縛こそが我が生涯。
心を殺す鎖を伸ばす。いつもと同じそのように。
何百、何千、何万と無数に繰り返したように。
――喜びを殺す。
魔王の力の贋作。魂の蜜化。その業を身につけた快哉を。
他者の魂を簒奪し、力を得ていく『女王蜂』の喜びを。
――怒りを殺す。
遅々として進まぬ 力の収奪への怒りを。
奪ったものの魂に汚染され、拡散していく自我への憤りを。
――哀みを殺す。
漂白されていく意思への悲しみを。
個が消え、全として名を失い、『女王蜂』という現象と化した己への哀れみを。
――楽しを殺す。
力を、技を、知識を、そのまま蜜のように味わう悦楽を。
器を変え、永遠を得て成長し、いつか贋作が真作を覆す日を待つ、ただ一つ残された楽しみを。
「――ああ」
――愛しを殺――
五殺の絶息を為す直前。
私が見たのは、小さなとある少女の、後悔の記憶。
力無きが故に友を救えなかった、精霊五家の末端の娘。
彼女は誓った。力を得て。知恵を得て。いつか、友の力になると。
名も失われ。力とともに集積した無数の魂により、元の自我も失われた『女王蜂』。
そのはじまりは、そんな真っ直ぐな思いだった。
いつか濁り、捩れ、ただ「力を得る」ことが目的となってしまったけれど。
それでも、はじまりには、そんな誰かを愛おしいと思う気持ちがあったのだ。
だが、それでも、例外はない。
自分はその愛を、鋼の鎖で封じて殺す。
いつだって、死者の思いは語り継がれて生者に継がれるものだ。
それがたとえ、暖かな思いでも。尊い愛の類であったとしても。
死者の思いが直接、生者を操るなんて、それは呪いでしかないのだから。
正しく伝わらないのは悲しいし、もどかしいけれど。
それが虫ではない、魂もつ人の在り方のはずだろう。
記憶を。思いを。それが励起する力を。全てを殺し、封じて縛る。
人としての機能を、魂の鎖へと転化する。
意識が眩む。このままであれば、私は動かぬ人形となるだろう。
だから、その前に。
この鎖となった私の魂を含めた、万の魂の蜜を。
私のただ一人の肉親へと、引き継ごう。
薄れいく意識の中で、私は全身を貫く矢を、他人事のように眺めていた。
射手を、自分の手から放たれた短剣が貫く。
妹が物陰から飛び出し、私の背へとすがりつく。
もう、感覚など残っていない。ただ、幻灯を見ているような感覚。
だが、『蜜』に触れた今、妹の魂が自分のそれに接していることはわかった。
その接触面を経路とし、『女王の蜜』を承継する。
それはもはや、毒とともに力の大半を失い、薄められた微弱な魔力の塊だ。
記憶も。思いも。それが励起する力も、封じきった。
ただ、幾ばくかの温もりと生命力。
本来ならばこれからの稽古で継承される程度のささやかな力だけを、伝えるための承継。
これをもって『鋼の蜜蜂』を生み出す力も、『女王蜂』という存在も、消滅する。
魂の蜜という大きすぎる力に惹かれ、振り回された虫の群れは死に。
『鋼の蜜蜂』たりえなかった、心に疑念を抱き続けられるこの子こそが、生きる。
これでいい。
きっと、これでいいのだ。
完璧な虫であった自分は、不完全な人に憧れた。
この娘は、自分などを羨望の目で見てくれていたようだけど。眩しく眺めていたのは、自分の方だ。
だから、これでいいのだ。
過去の思念に縛られるのではなく。
己の意思で、この子は刃を振るう理由を見つけることだろう。
願わくは。
自分という鋼の鎖が封じた『蜜』から漏れ出す幾ばくの力が、この子の助けとなりますように――。
◇ ◇ ◇
石畳の冷気が意識を覚醒させる。
断片的な映像、感覚が、滝のように脳を流れていったような呆とした記憶だけが残っていた。
だが。それがなぜか、内容も覚えていないにも係らず、腕に力を与えてくれた。
残された右の腕で体を起こす。
私を火の中からすくい上げてくれた紅の瞳が、今は血の赫に染まっている。
なんて醜い。怨念と、恩讐と、そして慟哭を煮詰めた蜜のような色。
違う。こんな彼女を見るために、私は技を磨いたのではない。
「……鬱陶しい眼だ」
不愉快な視線に見下ろされる。
掌に爪が食い込むほどに握った右の拳。
不意に、その中に脈動があった。
初めて感じる懐かしい感覚。矛盾だらけの感触。
欠落した左腕に存在していた「何か」が、握った手の中に収束していく。
それが何かも理解できないまま、突き動かされるように、体が動いた。
何でもよかった。この身を動かしてくれるなら。私の選んだ運命を、守ってくれる助けになるなら。
「よかろう。死にたいならすぐに殺して……?」
「魔王」の動きが止まる。
まるで、体の中にいる「もう一人」によって束縛されているかのような、奇妙な挙動。
それだけで理解できた。
「私の主」は、まだそこにいる。その魂は、魔王の思念に汚されてもなお気高くあると。
「ち……まだ意識が残っているのか。眠っていればいいものを!」
赤熱した鉄に鎚が振り下ろされる幻想。鉄が、鋼になるイメージ。
掌の中の「何か」が明確な輪郭をもって具象化する。
こんな魔法は知らない。こんな能力は鍛えたことがない。
けれど、確信があった。
これは、私を守る力。私の守りたいものを守る力であると。
手にした刃を放し、私は「何か」を解き放つ。
それは鎖。鋼の鎖。
右の手を一閃し、その鎖で「魔王」を絡め取る。
物質的な強度がどれほどあったとしても、かの最強の魔族を封じるには足らない。
だが、直感する。この鎖は違う。魂を、思念をこそ束縛する鋼の戒め。
こと、魂と思念をこそ力の源とする彼の存在にとって、天敵たりうる切り札。
「ぐうっ!?」
「魔王」の動きが、完全に停止する。
そのまま力任せに振り回し、「魔王」を玄室へと投げ入れた。
そこは、歴代魔王の思念を封じる場所。
魂を縛る鎖と思念を封じる玄室。
二重の封印であれば、しばしの時間も稼げよう。
「貴様……」
怨嗟の声が響く。まったく、我が主の体で、そんな穢れた声を出さないでほしい。
彼女はもっと、真剣で、真摯で、どこか致命的に抜けていて、そんな愛らしい声を出すべきなのだ。
「時間稼ぎなど無駄だぞ……。貴様の主人の意識などすぐに喰らってやる! すぐにだ!」
玄室の扉を閉じる。
膝が折れ、豪奢な彫刻へもたれかかるように、私は扉へ体を預けた。
勝てはしなかった。
けれど、あの頃のように、ただ見ているだけではなかった。
私は、あの炎の日から、ほんの少しだけでも、進めているのだろうか。
◇ ◆ ◇
左腕の傷口を縛るように鎖が巻きつき、意識が薄れていく。
眩む意識の中で私が見たもの。
それはあの日、私の背中で死んでいった数千人の虫たちの姿と。
繋ぎ留めるではなく、結ぶもの。
縛りつけるではなく、守るもの。
彼らと私を結ぶ、細く、だがしなやかな、凛と鳴る鋼の鎖だった。