3. 僕のオレンジ、君のイエロー 上
1,2話とは全く違う感じの話になっております。
彼女は、
今日は何時に来るだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、僕は4本目のタバコに火を点けた。
すでに暮れた静かな公園には、ライターのカチッという音がやけに大きく響く。
小学生向けの小さなブランコをキコキコと足で揺らしながら空を仰けば、そこには濁った空に浮かぶ、不完全な月。夜なのに、曇っているわけでもないのに、星は見えない。溜まりに溜まった排気ガスなどがフィルターになって隠しているのだ。
別に星が見たいなんて思わないから、自分が今吸っているタバコをやめる気もない。
ただ、想像した灰色の排気ガスのフィルターが、どことなく今の自分の気持ちに似ていたから、月しかない空と自分との間にあろうそれを凝視してしまった。
僕は、県でも有名な私立のエリート校に通う高1男子だ。
この間の全国模試で上位に入っただのなんだだので、今朝理事長に『我が校の誇りだ』とかなんとか予鈴が鳴るまで延々と言われた気がする。
そしてそんなことを言われるためだけに呼ばれた、すでに頭の中は自分の利益のことしか考えていない教師共が勢揃いしている理事長室が、僕には酷く歪んだ空間に見えて、吐きそうなくらい気持ち悪かったんだ。
よくやったな、と言い僕の背中を叩く担任が語外に『次はもっと良い順位を取れよ』と言わんばかりだったせいかなんなのか、僕は一日中、そいつに叩かれたところから全身に毒が回るような、最悪な気分だった。まるで静かに身体を蝕んでゆく猛毒に侵されているような、それはもう最悪な感覚。
だけど、そんな感覚も、彼女が来ればきっと消える。
彼女は、中学校の同級生だった。
同じクラスになったことは一度もなかったが、僕は彼女を知っていた。
それは、彼女が特別目立つような人物だったからではない。ましてや小学校が一緒だったわけでも、委員会が一緒だったわけでもない。
ただ単に、僕は彼女を知っていたんだ。
傍から見れば、こうゆうのは、ただの僕の片想いだと言うのだろう。
でもこれは恋なんかじゃない。
憧れなんだ。
彼女に憧れていると気付いたのは、今思うと鈍感だったな、って笑いたくなるほど、最近だ。
中学3年間、それこそ入学式から卒業式まで。僕はずっと彼女を見ていたのに、その感情がなんなのか、ずっとわからなかった。
だからと言って考え込むようなことはなくて、ごくごく平凡な日常を送っていた。
けどそれも、今年の夏まで。
僕の通う高校は、エリート校といっても建っているのは郊外で、自宅からは電車とバスを乗り継いで、1時間30分も掛かってようやく着くような辺鄙な所だ。
バスは通学の時間帯ですら1時間に2本しかなくて、8時05分発のに乗れなかったら、完璧遅刻になる。走って着くような距離でもない。
一応近くに学校管轄のアパートや寮があるが、やはりそういった所に入る生徒は少ない。よほど家が遠いか、家庭にワケありの奴だけだ。
そんな辺鄙な場所だから、自然に他の高校生たちより早い時間に家を出て、早い時間の電車に乗ることになる。
そんな僕が高校生になってから彼女を見かけたのは、3回。
1回目は、1学期の終業式の帰りだった。
いつもと違う帰りの時間。
いつもより早い時間の時刻表を見ていた。
その反対側。
僕と違う学校の制服に身を包んだ彼女が同じように時刻表を見ていた。
それが、1回目で、高校生の僕が初めて彼女を見た時。
2回目は、夏休みの真っ直中、猛暑の日。
担任に呼ばれて、不本意な登校をした日。
大学の資料を山程渡されて、行く時に比べて倍以上にもなった荷物にうんざりしながらホームのベンチに座って電車を待っている時。
向かいのホームで、数人の友達と笑いあっている彼女がいた。
目尻の涙を拭いながら笑う彼女を見て、僕は中学生の時と同じ気持ちになったんだ。
けどやっぱりそれがどうゆう感情なのか自分でわからなくて。
それが2回目。
そして3回目は、地元の駅で。
夕方の6時頃から雨が降るという予報だった日。
帰る時に雨が降る気配がなかったからか、うっかり学校に傘を忘れて来てしまい、急いで帰ろうと久しぶりに地下鉄を利用した、午後5時30分過ぎ。
改札を抜けて、地下から地上へ上がる出口への曲がりくねった道。
最初の曲がり角で、今から電車に乗って出掛けるのであろう彼女と偶然ぶつかった。
彼女は「すみません」とだけ言ってそのまま改札に向かって行った。
声を聞いたのは、半年ぶりだった。
思わず歩いて行く彼女を振り向いたが、僕はすぐに出口へ歩き出し、僕にとっては最初の、彼女にとっては最後の、曲がり角を曲がった。
長いエスカレーターから降りると、予報通り外は雨で、仕方なくカバンから体育の時に使ったタオルを取り出して、最小限雨に濡れないようにして家へと走った。
ただの雑音でしかないアスファルトに叩き付ける雨の音。その道。
僕の耳の奥では彼女の声だけがやけに響いていた。
そんな、彼女のことが頭から離れぬまま勉強も手付かずで眠りについた翌朝は、最悪なものだった。
1時間も寝坊した上に、改札を通る直前に定期がないことに気付き、その上生徒手帳も無いことが発覚して、その日は初めての遅刻をした。
その日は2学期が始まって5日目の金曜日。
太陽が燦々と照り付ける、快晴の日。
そして、彼女を見掛ける4回目はなくなった。
なぜなら、『見掛ける』が『会う』に変わったから。
シチューに使う牛乳がないから買って来て。そんな母の一言で、近くのスーパーまで牛乳とアイスを買いに行った帰り道。暮れなずんでいる7時前。
アイスが溶けないうちに早く帰ろうとしていたら、携帯が鳴り、出ると『シチューやめてカレーにしたからやっぱり牛乳いらない』なんていう身勝手なことを言うだけ言って電話を切られた。
ものの見事に通話時間3秒。その3秒で僕の買い物の意味がなくなった。
僕は深く溜息を付いて、カレー嫌いなんだよな、と心の中で呟いた。
どっと暑さが増した気がして、このまま家に帰るのもなんだか気乗りしなくて、心の向くままに僕は近くにあった公園に入った。
砂場と滑り台とブランコと東屋しかない小さな公園には、ここを遊び場にしているような子供はさすがにもういなくて、貸し切り状態だった。
僕はその中のブランコに座る。
やはりというか、小学生向けのブランコは小さくて、高校生の僕が座るには低すぎた。
気付けば紫色だった空は夜の黒に変わっていた。
僕はポケットからタバコとライターを取り出して、火を付けた。
タバコは肺を侵すと学校では習うが、吸ってる側からすれば、だから何、って感じだ。
あぁそうなんだ、って納得してやめられるくらいなら始めから吸ったりしない。
煙を吐き出す。
と。
『保科くん?』
突然名前を呼ばれて、思わず体が跳ね上がってしまった。
それは喫煙中だったからというわけではない。
『あ、ご…ごめんね、おどろかすつもりはなかったんだけど……』
振り向くと、そこには思ったとおり彼女がいた。
僕は他でもない彼女の声に驚いたのだ。
彼女は僕だと確認すると、小走りで僕の正面までやって来て、自分のカバンからなにかを取り出した。
『はい、定期。と生徒手帳』
彼女が僕に差し出したのは、紛れもなく僕が無くしたと思っていたそれだった。
『定期も保科くんのだよね? あのとき落ちてたから』
『あの時?』
『ほら、昨日駅でぶつかったとき。』
あの時落としたのか、とか、彼女が拾ってくれたのか、とか思う前に、馬鹿みたいに僕は、彼女は僕のことを知っているのかどうかを考えた。
生徒手帳の中を見てそこで初めて僕のことを知ったのか。それとも同じ中学校だということを知っているのか。
後者はただの僕の自惚れだろうか。
『ありがとう』
僕は彼女に礼を述べ、定期と生徒手帳を受け取る。
『セッター?』
彼女が言った。
唐突な彼女の質問に、セッター? と、僕の頭の中ではバレーボールのポジションが思い浮かんだが、彼女がタバコを持った僕の左手を見ていたので、すぐにセブンスターの方だとわかった。
『あぁ、うん。いる?』
『ううん、いらない。わたし今3ヶ月禁煙生活してるの』
『そうなんだ』
じゃあ見るのも辛いかな、と思い、僕は携帯灰皿にタバコを捩じ込んだ。
『……アイス食べる? 定期のお礼。暑そうだし』
嘘を吐いた。
本当はただ、まだ一緒にいる理由がほしかっただけだった。
『アイス?』
彼女が聞き返す。
『うん。抹茶味の』
『抹茶!? だいすき!! 食べたい!!』
彼女の表情が、ぱぁああと明るくなった。
『抹茶すきなの?』
彼女が僕の右側のブランコに座って聞いてきた。
『抹茶っていうか甘い物が』
僕は右手に持っていたスーパーの袋の中から、丸いカップの抹茶アイスと店員が入れてくれたプラスチックの小さいスプーンを2個ずつ出して、隣に座る彼女に1個ずつ渡した。
『保科くん甘いものすきなの?』
ありがとう、と言って受け取ってから、彼女が聞いてきた。
『うん』
『そーなんだー。わたしは逆にからいものの方がすきだなー。甘いのは苦手。でも抹茶はすき』
そう言って、彼女はアイスを食べ始めた。
僕も、フタを開けて、スプーンをビニールの袋から出して、そのアイスを食べる。
2人して黙々とアイスをつついていたから、すぐに食べ終わった。
そして、少しの沈黙の後、彼女が言った。
『わたし、保科くんと同じ中学だったんだよ』
『知ってる。仲野あゆみ』
彼女は僕の口から自分の名前がでたことに驚いたように目を丸くした。
でも、きっと、僕の方が彼女よりも驚いていただろう。
彼女が僕を知っていたなんて。
目を丸くして驚いていた彼女は、なにか小さく1人ごちて、それから僕に、わたしの名前知ってるんだ、と言うように笑いかけた。
──その時、唐突に、ようやく分かったんだ。
僕は彼女に憧れていたのだと。
僕だけに向けられた笑顔を見て、ようやくその思いに気付けたんだ。
「ごめんね保科くん、さむくない?」
ふいにそんな声を掛けられ、回想に耽っていた僕は意識を戻す。
彼女だ。
会いたかったよ。