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公爵令嬢は笑わない

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/06/24

 

「笑え、リュシエンヌ。お前が北方の勝利を祝えば、敗戦など最初から存在しなかったことになる」


 王太子ジュリアン殿下は、私にとても簡単なことを頼むような口調でおっしゃった。


 けれど、私が最後に笑った日、姉はこの世界から消えた。


 あれから十二年。


 嬉しいことがなかったわけではない。笑い方を忘れたわけでもない。


 ただ、自分の笑顔と引き換えに、また誰かが消えることが怖かった。


「先ほど婚約を解消した女性に、国のために笑ってほしいと頼まれるのですか。殿下は私のことがお嫌いでも、私の力はまだ必要なのですね」


 王宮の大広間には、祝賀会へ招かれた大勢の貴族が集まっていた。


 壁には北方戦争の勝利を称える旗が並び、楽団の奏でる華やかな音楽が響いている。


 けれど、肝心の帰還兵は一人もいない。


 勝利を報告したはずの将軍の姿もなかった。


 その不自然さを指摘する者はいない。皆、王太子殿下の顔色をうかがっていた。


「公爵家の娘として生まれた以上、お前には国へ尽くす義務がある。十二年もの間、一度も笑わない女を王妃にはできないが、その力まで不要になったわけではない」


 婚約者にはふさわしくない。


 けれど、力は差し出せ。


 あまりにも身勝手な言い分だった。


「三日後の凱旋式で、北方の勝利を王国史碑へ刻んでもらう。最後くらい、未来の王妃にできなかった役目を果たしてみせろ」


「それは随分と、殿下にとって都合のよい義務ですこと」


 大広間の空気が凍った。


 十二年間笑わなかった私は、怒ることも、言い返すこともない女だと思われていたらしい。


 何を言われても黙って受け入れる氷の人形。


 殿下も、そう信じていたのだろう。


 だから私が反論しただけで、顔を赤くして声を荒らげた。


「誰のおかげで、笑いもしないお前が王太子の婚約者でいられたと思っている。私が見捨てれば、お前には何の価値も残らないのだぞ」


「殿下が彼女を見捨てたところで、彼女の価値は一つも損なわれません」


 静かな声が、広間を横切った。


 扉の前に、一人の男性が立っている。


 濃紺の軍服には泥が残り、濡羽色の髪も少し乱れていた。それでも背筋はまっすぐで、誰よりも落ち着いて見えた。


 北方を治める、アルベルト・フォン・エーデルシュタイン辺境伯。


 王国が本当に勝利したのなら、今頃は国境で凱旋の準備をしているはずの人だった。


 殿下の顔から余裕が消える。


「なぜお前がここにいる。北方で敵軍の残党を始末するよう命じたはずだ」


「残党と呼べるほど、敵軍は減っておりません。そもそも我が軍は勝利していませんから」


 ざわめきが広がった。


 殿下はすぐに笑ったが、唇の端が引きつっている。


「敗軍の将が、自らの失態を隠すために虚言を申すか。北方からは勝利の報告が届いている」


「その報告書を書かせたのは殿下でしょう。補給部隊を引き揚げるよう命じた書簡と一緒に、原本を持ち帰りました」


 アルベルト様は胸元から折り畳んだ書類を取り出した。


 殿下が護衛へ目配せする。


 けれど、護衛たちは顔を見合わせるだけで動かなかった。


 証拠を掲げた辺境伯をここで斬れば、誰の目にも口封じに見える。


 アルベルト様は殿下へ一礼すると、私の前まで歩いてきた。


「お会いできて嬉しいです、リュシエンヌ嬢。ずっと、もう一度あなたに会いたいと思っていました」


「申し訳ありませんが、私たちは今夜が初対面のはずです。辺境伯閣下ほどの方が、人違いをなさるとは思えませんけれど」


「人違いではありません。この世界が忘れてしまっただけです」


 彼は悲しそうに、それでも懐かしい人を見るような優しい目をしていた。


 そして、周囲には届かないほど小さな声で告げる。


「僕だけは、君の笑顔を覚えているよ」


 息が止まりそうになった。


 この世界に、私が昔はよく笑う子供だったと知る者はいない。


 両親でさえ、私は幼い頃から感情の乏しい娘だったと思っている。


 誰も覚えていない。


 そのはずなのに、この人はそれを知っている。


 なら……まさか、あの人のことも?


「……お姉様を、ご存じですか……?」


 声が震えてしまった。


 アルベルト様は、迷うことなくその名を口にした。


「エレオノール・ド・ヴァレリアン。君より三つ年上で、淡い紫色の花が好きだった。刺繍は上手でしたが、文字を書くと最後の一文字だけ大きくなる癖がありましたね」


 膝から力が抜けそうになった。


 その癖を知っているのは、私だけのはずだった。


 お姉様の名前を呼んでも、両親は知らない子供を見る目をした。


 肖像画も部屋も服も、何一つ残っていなかった。


 それでも私だけは忘れられなかった。


 笑いながら私の髪を結ってくれた指も。


 眠れない夜に、朝まで手を握ってくれた温かさも。


 私の命を救うために、消えてしまったことも。


「ここではお話しできません。少しだけ、お時間をいただけますか」


 アルベルト様は私の腕をつかまなかった。


 急かすこともなく、ただ手のひらを上へ向けて差し出す。


「手を取ってもよろしいですか。あなたが望まないのであれば、触れません」


 私は少し迷ってから、その手に自分の指を重ねた。


 不思議なほど温かかった。


 ◇◆◇


 案内されたのは、大広間から離れた小さな客室だった。


 扉の外には辺境伯家の騎士が立ち、誰も近づけないよう見張っている。


「どうして、あなたは覚えているのですか」


「エーデルシュタイン辺境伯家の当主は、王国の歴史が書き換えられたとき、それ以前の記憶を受け継ぎます。国境に立つ『証人』だけは、変えられる前の真実を忘れない。そのための力です」


「それなら、十二年前から私のことも、お姉様のことも覚えていたのですか」


「父が北方で亡くなり、僕が爵位と証人の記憶を継いだときからです。何度も君へ手紙を書きましたが、未成年だった僕の書簡は、幼い当主の妄言として後見人に握り潰されていました」


「それでも、私のことを覚えていてくださったのですね」


「ええ。あの日の君は、僕にとって大切な記憶でした」


 その言葉だけで、胸の奥へ押し込めてきたものがあふれそうになった。


「十二年間、私は自分の記憶がおかしいのではないかと何度も疑いました。誰にも信じてもらえないのなら、姉など最初からいなかったと思った方が楽なのではないかと」


「それでも、忘れなかったのですね」


「忘れられるはずがありません。私が生きているのは、お姉様が消えたからです」


 幼い頃、私は重い病にかかっていた。


 医師は、夜を越えられないと言った。


 泣き続けるお姉様の前で、私は怖くないふりをしていた。


 そんな私の手を握り、お姉様は微笑んだ。


「リュシエンヌは必ず元気になるわ。明日の朝には、きっと自分の足で庭を歩けるもの」


 私はその言葉を信じた。


 死ななくていいのだと思った。


 嬉しくなって、笑った。


 翌朝、病はきれいに消えていた。


 代わりに、お姉様が消えていた。


 誰に尋ねても、そんな娘は最初からいないと言われた。


 ヴァレリアン公爵家の娘は私一人だけ。


 それが、書き換えられた世界の真実になっていた。


「ヴァレリアン公爵家の祝福は、あなたが心から受け入れ、笑った言葉を王国の歴史へ刻む力です」


 アルベルト様は、私の知らなかった力の続きを教えてくれた。


「語られた言葉が真実でなければ、現実が言葉に合わせて書き換えられ、その言葉を託した者が代償として消えます」


「やはり、私が笑ったからお姉様は……」


「君は代償を知らなかった。幼い君に罪はありません」


 アルベルト様は、はっきりと言い切った。


「祝福を使った本人と、証人である辺境伯家の当主だけは、書き換えられる前の記憶を失いません。だから君は忘れず、僕も爵位を継いだとき、証人の記憶としてすべてを受け継ぎました」


 私だけが覚えていた理由を、十二年を経て初めて知った。


「証人が現在の真実を語り、君が受け入れて笑えば、そのまま王国史へ刻まれます。過去に消された真実なら、奪われた記録と記憶が戻る。そして、誰かの言葉を歴史へ刻もうとせず、自分の気持ちで笑うだけなら、何も起こりません」


「普通に笑っても、誰も消えないのですか」


「ええ。君の笑顔は、本来それほど恐ろしいものではありません」


 笑ってもよかった。


 十二年間、私は笑ってもよかったのだ。


 すぐには信じられなかった。


 それでも、胸を締めつけていた鎖が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


「お姉様を生き返らせることはできますか」


「失われた命と時間は戻せません。ですが、彼女が生きていた記録と、人々の記憶は取り戻せます」


 アルベルト様は胸元の銀色の徽章へ触れた。


「公爵家の祝福と辺境伯家の証言は、本来一組でした。証人が真実と代償を告げ、その上で公爵令嬢が何を信じるか選ぶためです」


「それなのに、今は誰もその役目を知らない」


「長い年月のうちに、本来の意味が失われたのでしょう。殿下は、その断絶を利用したのです」


 私の中で、恐怖が静かに怒りへ変わった。


「君が笑わない理由を知ろうともせず、価値がないと言った人々へ、僕は腹を立てています。記憶がなかったことは言い訳になっても、君の痛みを軽く扱ってよい理由にはなりません」


 そんなふうに怒ってもらったことは、たぶんなかった。


 冷えていた胸の奥へ、遅れて熱が広がっていく。


「あなたは、昔の私をどこでご覧になったのですか」


「王宮の庭です。母を亡くしたばかりの僕は、泣いているところを見られたくなくて、植え込みの陰へ隠れていました」


 そこへ、幼い私とエレオノールお姉様が通りかかった。


 お姉様が人を呼ぼうとするのを止め、私は彼の隣へ座ったらしい。


「君は『泣いているのを見られたくないなら、私もここで泣きます。二人で泣いていれば、どちらが慰められているのか分かりませんもの』と言いました」


「私が、そのようなことを?」


「ええ。しばらく一緒に泣いたあと、君は僕へ紫色の花を一輪くれた。そのときの笑顔を、僕は忘れたことがありません」


 忘れていた記憶の中で、私も一度、この人の心に触れていたらしい。


 それが嬉しくて、少しだけ気恥ずかしかった。


「北方で何が起きているのか、教えてください」


 アルベルト様は、王太子殿下の印が押された命令書をテーブルへ置いた。


「殿下は即位前に功績を得るため、国境の守備隊まで敵国へ侵攻させました。僕が補給路を維持できないと反対すると、敗北を認めるくらいなら敵地から奪えと命じ、補給部隊を引き揚げたのです」


「その結果、多くの兵士と民が取り残された」


「生き残った者の多くは救出しましたが、前線の砦にはまだ援軍が必要です。殿下は三日後の凱旋式で、僕に『北方の敗北を勝利へ変えてほしい』と言わせるつもりです」


 私がその言葉を受け入れて笑えば、敗北は勝利へ書き換えられる。


 戦死者の死も、民が見捨てられた事実も、王国の歴史から消される。


 そして、嘘を託したアルベルト様は世界から消える。


 敗北も失策も、反抗的な辺境伯も、一度に始末できるというわけだ。


「私が笑わなければ、計画は失敗します」


「ですが殿下は、君が拒めば前線の砦へ援軍を送らないと脅すでしょう」


「私が、あなたを犠牲にしてでも人々を救うと決めたら、それでも止めるのですか」


「止めます」


 迷いのない答えだった。


「君が自分を傷つけることだけでなく、誰かを失う痛みまで一人で背負おうとするなら、なおさらです」


 アルベルト様は、私から目を逸らさなかった。


「僕は君の従者ではなく、隣に立ちたいと思っている男です。君が間違えていると思えば、嫌われても止めます。守るというのは、何も言わずに従うことではないでしょう」


 私は時々、ここではない場所で暮らしていた夢を見る。


 そこでは、笑顔は祝福でも義務でもなかった。


 悲しいときに無理に笑う必要はなく、嬉しいときに自分のために笑っていた。


 大切な記録も一つの場所だけには置かず、同じものをいくつも残していた。


「殿下の命令書を複製しましょう。写しを複数の貴族家と神殿へ預ければ、一通を奪われても真実は消せません」


「凱旋式には、帰還兵と北方の民にも出席してもらいましょう」


「王国の勝利を歴史へ刻むのなら、一人でも多くの者に見届けてもらうべきだと、私から殿下へ申し上げます」


 アルベルト様の目が、楽しそうに細められた。


「殿下がご自分の勝利を披露するために用意した舞台を、そのまま断罪の場へ変えるのですね」


「未来の国王として、ご自分のなさったことを王国中に知っていただきます」


「君は昔から、ただ守られるだけの人ではありませんでしたね」


「私は自分で戦えます。凱旋式でも、殿下に何を言われようと退くつもりはありません」


 そこで言葉が止まった。


 本当の気持ちを口にするのが、怖かった。


「それでも本当は、一度くらい誰かに守られてみたいと思っていました。私が強くいられないときにも、大丈夫だと言ってほしかったのです」


 私はテーブルに置かれたアルベルト様の手へ、自分から指を伸ばした。


 彼は少し驚いたように目を見開いたあと、壊れ物を包むように握り返してくれた。


「それなら凱旋式では、僕が君より半歩だけ前に立ちます。君の代わりに戦うためではありません。殿下が君へ手を伸ばしたとき、届く前に止めるためです」


「私が選んだことなのに、あなたを頼ってもよいのでしょうか」


「誰かを頼ることは、自分で選ぶことをやめるのとは違います。君が進む道を決め、僕がその道を守る。それではいけませんか」


「そのようなことを言われると、頼りすぎてしまいそうです」


「頼りすぎて困るほど、僕は頼りなく見えますか?」


「いいえ。だから困っているのです」


 アルベルト様は、今度こそ嬉しそうに笑った。


 ◇◆◇


 三日後。


 王都中央広場には、凱旋式を見届けるため、王都に滞在する諸侯と多くの民が集まっていた。


 広場の中央には、建国以来の歴史を刻む巨大な王国史碑が立っている。


 その表面には、王太子殿下が用意させた文言が仮に刻まれていた。


【北方戦争、王国軍の完全勝利に終わる】


 私の祝福を受けて初めて、その言葉は正式な王国史になる。


 アルベルト様と共に北方から戻ってきた兵士たちも、家を失った住民も、戦死者の家族もいた。


 王太子殿下は、自分の偉業を国中へ知らせるための舞台だと思っている。


 私が、


「王国の勝利を歴史へ刻むのでしたら、一人でも多くの者に見届けてもらうべきです」


 と申し上げると、機嫌よく承諾した。


 殿下は壇上から民を見下ろしながら、まだ気づいていない。


 自分を称えるための舞台が、そのまま断罪の場になったことに。


 私の隣にはアルベルト様が立っている。


 約束どおり、ほんの半歩だけ前に。


「リュシエンヌ」


 殿下が私を呼んだ。


「先日の無礼は、今日の働き次第で許してやる。辺境伯の言葉を受け入れ、王国の勝利を祝え。それで北方の民も救われる」


「アルベルト様に、どのような言葉を口にさせるおつもりですか」


「北方の敗北を勝利へ変えてほしいと言わせる。辺境伯一人の存在と、王国の未来を比べるまでもない」


 広場が静まり返った。


 殿下は口を滑らせたのではない。


 私が笑えば、今ここにいる者たちの記憶も、殿下が口にした言葉も、すべて都合よく書き換えられる。


 そう信じているからこそ、隠す必要がないと思っているのだ。


「ありがとうございます、殿下。今のお言葉は、こちらにいる諸侯と帰還兵の皆様も確かにお聞きになりました」


「何を企んでいる」


「企んでなどおりません。殿下がご自分の失策を消すため、辺境伯閣下を世界から消そうとなさった。その尊いご決断を、皆様に知っていただいただけです」


 殿下の顔から血の気が引いた。


「衛兵、こいつらを捕らえろ!」


 誰も動かなかった。


 殿下が、辺境伯一人を犠牲にすると公言した直後である。


 ここで従えば、王太子の私欲に加担したことになる。


 アルベルト様は壇上の中央へ進み、用意されていた戦勝報告書を広げた。


「こちらには、北方戦争が王国の完全勝利に終わり、民は一人残らず救われたと書かれています」


 殿下の表情に、わずかな希望が戻った。


 命令どおり読むと思ったのだろう。


 アルベルト様は報告書を二つに破った。


「ですが、私が報告するのは真実だけです」


 紙の裂ける音が、広場に響いた。


「王国軍は敗北しました。王太子殿下はご自身の功績を急ぐあまり、国境の守備隊まで敵国へ侵攻させました。私が撤退を進言すると、敗北を認めるくらいなら敵地から物資を奪えと命じ、補給部隊を引き揚げました」


 辺境伯家の騎士たちが、いくつもの書類を諸侯へ配り始める。


 王太子の印が押された侵攻命令。


 補給を止めるよう命じた書簡。


 虚偽の戦勝報告書。


 さらに、アルベルト・フォン・エーデルシュタインが失踪、あるいは任務中に死亡した場合、北方領を王家の管理下へ置く内示。


 三日の間に作った写しは、既に複数の貴族家と神殿へ預けてある。


「偽造だ!」


 殿下が叫んだ。


「辺境伯が敗北の責任から逃れるために作った偽物だ! その男は自分の領地を守れず、王国へ泥を塗った!」


「それなら、どちらの言葉を歴史へ刻むか、私が選びます」


 私はアルベルト様の隣へ立った。


 殿下が勝ち誇ったように笑う。


「そうだ。辺境伯に勝利を願わせ、その言葉を受け入れろ。それがお前の役目だ」


「私が受け入れる言葉を、殿下が決めることはできません」


 アルベルト様が私を見る。


 穏やかな眼差しだった。


 怖くないと言えば嘘になる。


 この人まで消えてしまったら、私はもう二度と立ち上がれないかもしれない。


 それでも今は、信じたいと思った。


 十二年間、私とお姉様を覚えていてくれた人を。


「リュシエンヌ嬢」


 アルベルト様の声が、広場の隅々まで届いた。


「北方軍は敗北しました。王太子殿下の命令によって、多くの兵士と民が見捨てられました。ここにある命令書はすべて本物です」


 殿下が何か叫んでいる。


 けれど、もう耳には入らなかった。


「そして、エレオノール・ド・ヴァレリアンという女性は、確かにこの世界に生きていました。あなたより三つ年上で、淡い紫色の花を好み、あなたを誰より大切にしていた人です」


 胸の奥で、十二年間凍っていたものがほどけていく。


「彼女はあなたの命を救うために願いを託し、その代償として消えました。ですが、それはあなたの罪ではありません。あなたが生きていることを、誰にも責める権利はない」


 涙で視界が揺れた。


「私はあなたの笑顔を覚えています。しかし、もう一度見せてほしいと頼むつもりはありません。あなたが笑わなくても、私があなたを大切に思う気持ちは変わらないからです」


 笑ってほしいと言わなかった。


 国のためでも、自分のためでも、私の笑顔を求めなかった。


 ただ、私が生きていることを肯定してくれた。


 お姉様は、確かに生きていた。


 私が生きていることは、罪ではない。


 そしてこの人は、笑わない私の隣にもいてくれる。


 そのすべてを、今度こそ信じたかった。


 私はアルベルト様が語った真実を、私自身の意思で受け入れた。


 誰かに笑えと命じられたからではない。


 私が信じたいと思ったから、笑った。


 広場中から、息をのむ音が聞こえた。


 アルベルト様は消えなかった。


 王国史碑が低く震え、それに呼応するように、王宮の鐘が一斉に鳴り響いた。


 史碑の金文字へ、一本の亀裂が走る。


【北方戦争、王国軍の完全勝利に終わる】


 偽りの言葉が、音を立てて崩れ落ちた。


 その下から、本当の歴史が浮かび上がる。


【王太子ジュリアンの無謀な侵攻命令により、北方軍は敗北】


【補給部隊の撤退により、多数の兵士と民が犠牲となる】


 続いて、戦死者と行方不明者の名前が一人ずつ刻まれていった。


 広場のあちこちから、泣き声が上がる。


 兵士たちは、自分たちの隣で戦った仲間の名を呼んでいる。


 遺族たちは、ようやく正しく刻まれた名前を抱きしめるように、史碑へ手を伸ばしていた。


 後から知ったことだが、同じ瞬間、公爵邸では消えていた一枚の肖像画が元の場所へ戻ったという。


 父も母も、使用人たちも、その絵を見た途端、一人の少女の名を思い出した。


 エレオノール。


 私を守り、確かに生きていた姉。


 時間は戻らない。


 お姉様が今ここへ帰ってくることもない。


 それでも、存在しなかったことにはさせない。


「違う!」


 王太子殿下だけが、現実を認めようとしなかった。


「リュシエンヌが笑ったのだぞ! それなら私の勝利を歴史に刻め! 敗北を消し、この男の言葉を取り消せ!」


 私は殿下へ向き直った。


「殿下は、私に笑えとお命じになりましたね」


「そうだ。お前は王国の勝利を祝ったのだ!」


「いいえ」


 涙を拭い、もう一度微笑んだ。


「私が祝ったのは、あなたの嘘が今日ですべて終わったことです」


 誰かが、堪えきれないように笑った。


 王太子を称えるために集められた兵士の一人だった。


 笑いは周囲へ伝わり、やがて大きな歓声へ変わっていく。


 王太子殿下の勝利を祝うはずだった広場が、今は殿下の嘘が終わったことを祝っていた。


「黙れ! 私は次代の国王だぞ!」


 壇上の下にいた宰相が、静かに前へ出た。


「王太子殿下を拘束せよ。この場にいる諸侯の証言と証拠を添え、国王陛下へご裁可を仰ぐ。同時に北方の砦へ援軍と物資を送れ。これ以上、殿下の虚栄のために民を死なせてはならない」


 今度は、衛兵たちが迷わず動いた。


 殿下は腕をつかまれ、王太子の外套と胸章を外される。


「私に触れるな! お前たちは自分が誰に逆らっているのか分かっているのか!」


「皆様、分かっていらっしゃるからこそ動いているのです」


 私がそう告げると、殿下は初めて何も言い返せなくなった。


 自分が作った舞台で。


 自分が集めた民の前で。


 未来の国王としてのすべてを失い、連れ去られていった。


 ◇◆◇


 ジュリアン元王太子は、王位継承権とすべての爵位を失った。


 敗戦の隠蔽、北方への補給停止、王国の祝福を私物化しようとした罪を問われ、王籍も剥奪された。


 ただのジュリアンとして生涯を過ごすことになった北方の監獄塔からは、復興していく街の姿がよく見えるという。


 王家へ返還された財産は、北方の復興と遺族への補償に充てられた。


 前線の砦へはすぐに援軍が送られ、敵国との停戦交渉も始まっている。


 アルベルト様は北方へ戻る前に、公爵邸を訪ねてくれた。


 庭には、エレオノールお姉様が好きだった淡い紫色の花が咲いている。


 戻ってきた肖像画の前で、両親は長い間泣いていた。


 私も泣いた。


 けれど、もう一人ではなかった。


「王太子との婚約を解消されたばかりの君へ、僕の気持ちを押しつけるつもりはありません」


 庭を歩いていたアルベルト様が、私の前で足を止めた。


「ただ、僕に君をもっと知る時間と、君の隣にいる権利をいただけませんか」


「十二年間も待ってくださったのですものね」


「正確には、会いたくても会えずにいただけです。待ったことを美談にするつもりはありません。もっと早く君を見つけられなかったことを、今でも悔やんでいます」


「それでも、来てくださいました」


「ええ。ようやく、君の隣まで来られました」


 私は少し迷ってから、意地悪な質問をしてみた。


「私が毎日笑わなくても、後悔なさいませんか」


「君を笑わせるために、そばにいたいのではありません。君が怒っている日も、泣きたい日も、誰にも会いたくない日も、僕は同じ場所にいたいのです」


「それでは、私が笑った日はどうなさるのですか」


「おそらく、とても喜びます。ですが、褒美をいただいたような顔はしないよう努力します」


 真剣な顔でそんなことを言うから、堪えられなかった。


 小さく吹き出した私を見て、アルベルト様が目を丸くする。


「今、笑いましたね」


「褒美をいただいたような顔をしないと、おっしゃったばかりではありませんか」


「申し訳ありません。努力はしたのですが、想像していたよりも難しいようです」


 嬉しそうな顔を隠そうともしない彼を見ていると、また笑いがこみ上げてきた。


「そんなあなたを、これからも見ていたいと思います」


「それは、期待してもよいということでしょうか」


「私の答えを勝手に決めることはなさらないのでしょう?」


「もちろんです。ですから、きちんと言葉で聞かせていただけるまで待ちます」


 私は彼の手を取った。


「でしたら、まずは婚約者として、私の隣にいてください。私もこれからのあなたを、一番近くで知りたいのです」


「喜んで。今度は、何があっても消えません」


 つないだ手に、彼が少しだけ力を込めた。


「それから、二人きりのときだけでも、僕をアルと呼んでいただけませんか」


「でしたら、あなたも私をリュシーと呼んでください」


「リュシー」


 初めて呼ばれたはずなのに、不思議なくらい耳になじむ優しい声に、胸の奥がくすぐったくなった。


「……アル」


 その呼び名を口にすると、彼はまた、褒美をいただいたような顔で笑った。


 ◇◆◇


 一月後、私たちの婚約が王宮の大広間で発表された。


 以前はあれほど息苦しかった場所なのに、今日は視線が集まっても怖くない。


 私はもう、誰かが望む顔をする必要はないと知っている。


 それでも、この人が隣にいてくれることは素直に嬉しかった。


「緊張していますか、リュシー」


 アルが、私にだけ届く声で尋ねた。


「少しだけ。皆様、私が笑うかどうか気になっているようです」


「無理に笑う必要はありません。君が笑わなくても、今日は十分に幸せな日ですから」


「あなたは本当に、最後まで私の笑顔を求めないのですね」


「求めなくても、君が笑いたいときには見せてくれると知っていますから」


 その言葉が嬉しくて、私は笑った。


 広間に歓声が上がる。


 アルは、褒美をいただいたような顔をしないよう努力していたけれど、まったく成功していなかった。


「また、そのお顔をなさっています、アル」


「これでも精いっぱい隠しているのですが」


「でしたら、これから何度も練習していただかなくてはいけませんね」


「君が笑うたびに練習できるのなら、一生上達しなくても構いません」


 あまりにも幸せそうに言うから、私はまた笑ってしまった。


 その日を境に、「公爵令嬢は笑わない」という噂は消えた。


 代わりに王都を駆け巡ったのは、まったく別の噂だった。


 ――エーデルシュタイン辺境伯は、婚約者が笑うたび、誰より幸せそうな顔をするらしい。

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