第7話:赤き借滓
岩場の陰に身を潜めながら、レンは手元のスマートフォンで周辺の地形を確認していた。広大な植民地「ハルナ平原」は、幾重にも張り巡らされた粗末な柵と、4か所の監視塔によって管理されている。監視兵たちは交代で巡回しているが、その動きは緩慢で、日中の暑さに辟易しているのが見て取れた。
「……よし、ミナ。まずはあそこの貯蔵庫の裏側から回り込もう。あそこなら監視兵の死角になるし、珍しい岩塩や乾燥させた山菜が保管されているはずだ」
レンが小声で指示を出す。だが、隣にいるミナからの返事がない。不思議に思って隣を見ると、ミナの灰色の耳が不自然なほど激しくぴんと立ち、その瞳は1点……居住区の中央にある広場を凝視していた。
「ミナ? どうしたんだ?」
レンが声をかけた瞬間、ミナの喉の奥から、獣特有の低い、震えるような唸り声が漏れた。彼女の視線の先、広場では3人の騎士たちが1組の姉弟を囲んでいた。
「おい、この娘。顔立ちは悪くないな。王都の商人に売れば、酒代くらいにはなるだろう」
金属の鎧を軋ませながら、1人の騎士が少女の腕を強引に掴み上げた。少女は恐怖で声を失い、必死に抵抗しようとするが、屈強な男の力には到底及ばない。
「やめて……! お姉ちゃんを離して!」
少女の足元に、まだ5歳か6歳ほどの小さな男の子がしがみついた。泣きながら騎士の脚を叩く子供に対し、騎士は鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「失せろ、小汚い亜人のガキが」
ドガッ、という鈍い音が響く。騎士の鉄靴が子供の腹部を容赦なく蹴り飛ばした。小さな体は数メートルも地面を転がり、ぐったりと動かなくなる。
「あ、あぁ……リク……!」
「ハハハ! 頑丈なガキだ。ほら、行くぞ。無駄な抵抗は死を早めるだけだぞ」
騎士たちが笑いながら、泣き叫ぶ少女を引きずっていく。その光景を見た瞬間、ミナの瞳から理性の色が消え、燃え盛るような紅い殺意が宿った。
「……ミナ、待て! 今飛び出したら……!」
レンが止める間もなかった。ミナは地面を爆発的な脚力で蹴り、岩陰から飛び出した。灰猫族特有の瞬発力。彼女は1筋の灰色の閃光となり、広場へと突き進む。
「……あ、あの野郎……っ!」
レンもまた、その凄惨な光景に胃の底が熱くなるのを感じていた。打算ではない。料理人として、誰かを笑顔にしたいと願う人間として、目の前で幼い命が踏みにじられるのを黙って見ていられるはずがない。
「琥珀! 地上へ降りろ! 派手にやっていい、ただし住民を巻き込むな!」
レンは空に向かって叫び、自分もまた4輪バギーのエンジンを始動させた。
ブロロロォォッ!
爆音と共に岩陰から飛び出したバギーが、平原を疾走する。一方、広場ではミナが先頭を歩く騎士の背中に飛びかかっていた。
「な、なんだ貴様……ぐわぁっ!」
ミナの鋭い爪が、騎士の首筋を深々と切り裂く。だが、相手は重装備の騎士だ。すぐに仲間の2人が剣を抜き、ミナを包囲した。
「野良の亜人か! 捕らえて見せしめにしてやる!」
「お姉ちゃんを……子供を、離せぇっ!」
ミナは獣のような咆哮を上げ、向かってくる剣を紙一重でかわしながら拳を叩きつける。だが、装備の差は歴然だった。騎士の放った盾の一撃がミナの肩を捉え、彼女の体が地面に叩きつけられる。
「死ね、出来損ないめ!」
騎士が剣を振り下ろそうとした、その時だった。上空から、太陽を覆い隠すほどの巨大な影が降臨した。
ズゥゥゥン……!
大地が激しく揺れ、衝撃波で監視兵たちが吹き飛ぶ。砂煙の中から現れたのは、宝石のように輝く琥珀色の鱗を持つ、3メートルを超える巨龍。
『……我らが主の食卓を汚す塵どもめ。その汚れた手で、我らが同胞に触れるな』
琥珀の重厚な声が響き渡り、龍の威圧がその場にいた騎士たちの精神を粉砕した。彼らは腰を抜かし、持っていた剣をガタガタと震わせる。
「り、龍……!? なぜ、こんな砂漠の辺境に……!」
そこへ、レンの乗ったバギーがドリフトしながら割り込んだ。レンはバギーから飛び降り、倒れているミナを抱き起こした。
「大丈夫か、ミナ!」
「レン様……すみません、私……体が勝手に……」
「いいんだ。よくやった。……あとは、俺たちが引き受ける」
レンは立ち上がり、怯える騎士たちを冷徹な目で見据えた。その視線の先で、蹴飛ばされた男の子が、母親らしい女性に抱き抱えられて泣き声を上げている。生きていた。その事実に、レンの胸の内の怒りは、静かな決意へと変わった。
「……おい。お前ら。それがお前らの言う『正義』か?」
「だ、黙れ! 我らはギルガデス王国の正当な権利を行使しているだけだ! 亜人は王国の財産であり……」
「財産じゃねえ。……人だ。お前らと同じ、腹が減れば泣いて、温かい飯を食えば笑う、同じ人間だ」
レンはスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
(通知:戦闘報酬を検知しました。王宮騎士3名の無力化、監視兵15名の戦意喪失を確認。合計2200ポイントを加算します)
画面の隅で数字が動き、保有ポイントは14000となった。だが、この程度のポイントでは、ここにいる数百人の空腹を救うことはできない。
レンは周囲を見渡した。柵の中に押し込められた獣人たちが、何事かとこちらを怯えた目で見ている。彼らの顔はどれも土色で、ひどく痩せこけていた。
「……ミナ。食材の採取は後回しだ」
レンはミナの肩を支えながら、広場の中央へと歩みを進めた。打算ではない。目の前に飢えている人がいる。不当に傷つけられた人がいる。料理人として、すべきことは1つしかなかった。
「皆、聞いてくれ! 俺は相良レン。……ただの料理人だ」
レンの声が、静まり返った植民地に響く。
「今から、あんたたちのために飯を作る。……今日まで耐えてきたあんたたちの腹を、俺の飯で満たしてやる。遠慮はいらない、全員分、最高に旨いやつを作るからな!」
レンは再びスマートフォンを操作した。キッチンカーを買うための50000ポイント。それを貯めるために節約しようと考えていたが、今のレンに迷いはなかった。
「ポイントの節約なんて、腹を空かせてる奴を目の前にしてやることじゃないな。……一気にいくぞ!」
レンが画面上の「業務用大量調理セット」と「高級食材パック」を次々とタップする。
特大回転釜・加熱ユニット:5000ポイント
最高級あきたこまち(30キロ):10000ポイント
黒毛和牛・バラ肉ブロック(10キロ):8000ポイント
特製デミグラスソース・大容量:2000ポイント
新鮮な根菜・玉ねぎ・マッシュルームセット:2000ポイント
業務用バター・赤ワイン・スパイスセット:2200ポイント
合計:29200ポイント
……残りポイント:-15200ポイント?
「えっ、マイナス……!?」
レンが驚いて画面を二度見すると、画面が赤く点滅し、不気味なメッセージが表示された。
(ポイントが不足しています。……が、対象の『幸福期待値』が極めて高いため、特別融資を適用します。※返済は今後の獲得ポイントから自動的に差し引かれます。なお、過度な債務超過を検知したため、本日24時を以て『とんでもないペナルティー』を執行します。詳細は執行時に通知されます)
「……ペナルティー? なんだよそれ。だが、後回しだ! 今はこの火を消すわけにはいかない!」
レンが叫ぶと、光の粒子が広場の中央に降り注いだ。泥にまみれた大地に、巨大なステンレスの調理器具と、山のような最高級食材が出現する。獣人たちから、驚きと困惑の声が上がった。
レンは包丁を抜き、琥珀とミナに指示を出した。
「琥珀、火の番を頼む! 弱火から中火だ。ミナ、お前は野菜を洗って、皮を剥いてくれ。できるか?」
「はい……! はい、レン様! 喜んで!」
ミナは涙を拭い、生き生きとした表情で立ち上がった。レンは10キロの牛肉ブロックを手に取り、慣れた手つきで一口大に切り分けていく。最高級の和牛。美しいサシが入ったその肉は、この世界のどんな贅沢品よりも輝いて見えた。
「メニューは……『極上和牛のビーフシチュー』だ。パンもたっぷり用意する。……さあ、世界で1番旨い炊き出しを始めようか!」
レンは巨大な釜にバターを落とした。溶け出したバターの甘い香りが、死の気配が漂っていた植民地の空気を塗り替えていく。
修行時代の記憶が蘇る。あの炊き出しの夜、師匠が言っていた。「レン、料理ってのはな、技術じゃない。誰かの腹を満たしたいっていう、その祈りの深さだ」。
俺は今、祈っている。この泥水を啜らされてきた連中の腹を、この世で1番贅沢な味で満たしてやる。
まずは牛肉を強火で焼き上げる。ジューッという景気のいい音と共に、肉の表面がキャラメル色に染まり、食欲を暴力的に刺激する脂の香りが爆発した。そこへミナが刻んだ大量のタマネギを投入する。飴色になるまで炒められたタマネギの甘みが、肉の旨味と溶け合っていく。
赤ワインを豪快に注ぎ込み、アルコールを飛ばすと、芳醇な葡萄の香りが立ち上った。そこに5キロのデミグラスソース。じっくりと時間をかけて煮込まれたソースは、深い茶褐色に輝き、宝石のような野菜たちがその中で踊る。
香りは、風に乗って監視塔の隅々にまで届いた。槍を構えていた残りの兵士たちが、思わずその香りに鼻をひくつかせ、戦意を喪失していく。彼らが普段食べているのは、カビの生えたパンと水のようなスープだけ。この圧倒的な「美食の気配」に、空腹という名の本能が牙を剥いたのだ。
「あきたこまち、炊けたぞ!」
炊飯ユニットの蓋を開けると、真っ白な湯気が立ち上り、一粒一粒が真珠のように輝く米が姿を現した。これこそが日本の誇り。この世界の住人が今まで食べてきた、石の混じった雑穀とは次元が違う代物だ。
レンは1人1人に器を手渡していく。
「熱いから気をつけてな。ほら、たっぷり食え」
最初に受け取ったのは、さっき助けた少年、リクだった。彼は震える手でスプーンを持ち、熱々のシチューを一口運んだ。
「……っ!!」
口に入れた瞬間、少年の瞳が限界まで見開かれた。和牛の脂が舌の上で雪のように溶け、デミグラスの深いコクと、タマネギの圧倒的な甘みが口内を支配する。噛み締めるたびに溢れ出す肉汁。それを、炊きたての白米がすべて受け止める。
「おいしい……おいしいよぉ、お兄ちゃん……っ!!」
少年が泣きながら食べ始めると、それを待っていたかのように、長蛇の列が動き出した。数百人の獣人たちが、無我夢中でレンの料理をかき込んでいく。
「なんだこれ……こんなに柔らかい肉、食べたことないぞ」
「お米が、甘い……噛まなくても溶けていくみたいだ」
「あったかい……体の中から力が湧いてくる……」
あちこちから啜り泣く声が聞こえてくる。美味しいものを食べる。ただそれだけのことが、絶望の淵にいた彼らの魂を、現世へと繋ぎ止めていく。
レンは汗だくになりながら、巨大な木べらで釜を回し続けた。打算など微塵もない。今のレンにあるのは、プロの料理人としての至福だ。自分の作った飯で、目の前の人間が、獣人が、子供が、生気を取り戻していく。これ以上の報酬など、この世には存在しない。




