第3話:砂漠を焦がす香辛料の煙
「……ああ、思い出したよ。女神様」
灰の砂漠の熱風に煽られながら、俺、相良レンはよろよろと立ち上がった。
あのアホな王様や騎士たちに蹴られた脇腹が疼く。胃の辺りを押さえると、鈍い痛みが走ったが、それ以上に胸の奥にある「料理人としての誇り」が、俺の意識をはっきりと繋ぎ止めていた。
俺を無能と呼び、ゴミのように捨てたあの連中。
修行時代から愛用していた包丁セットまで奪い取り、死の大地へ放り出した。
だが、あの女神の説明が事実なら、俺はこの世界で誰よりも多くの人を救える「最高の厨房」を1人で担っていることになる。
俺は震える手で、ボロボロになったシャツのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をスワイプし、万象市場のアプリを起動する。
電池残量はなぜか100パーセントのまま固定されていた。
画面の端に表示されている初期保有ポイントは、50000ポイント。
これが今の俺の全財産であり、誰かに飯を食わせるための軍資金だ。
「……まずは、水と食いもんだ。俺は、俺の飯を待ってる奴のために生き残ってやる」
俺は検索欄に指を走らせ、生きるために必要な品々を次々と選択した。
天然水2リットル(3本):150ポイント
カセットコンロ:3500ポイント
ガスボンベ(3本入り):500ポイント
鉄製フライパン:2500ポイント
厚切り豚バラ肉(500グラム):1200ポイント
スタミナ醤油ダレ:400ポイント
パックのご飯(3食入り):600ポイント
使い捨ての皿・箸セット:200ポイント
合計:9050ポイント
残り:40950ポイント
「……よし、確定だ」
注文した瞬間、目の前の空間が歪み、白い光と共に1箱の段ボールが転がり出た。
俺は急いで箱を開け、まずは天然水のキャップを捻った。
ぬるい。だが、乾ききった喉を通り、胃に染み渡る感覚は、どんな高級酒よりも贅沢に感じられた。
「ふぅ……次は、飯だ。温かいのを食わせてやりたいからな」
俺は平らな岩の上にコンロを置き、ガスボンベをセットした。
カチッ、ボッ、という小気味よい音が砂漠に響く。
フライパンが熱を帯びるのを待ち、厚さ1センチはある豚バラ肉を並べた。
ジィィッ……!
静寂に包まれていた砂漠に、肉の脂が弾ける快音が響き渡る。
表面がこんがりときつね色に変わり、透明な脂がジュワジュワと泡を立てて溢れ出す。
俺はそこに、ボトルのキャップを開けたスタミナダレを豪快に回し入れた。
ジュワァァァッ!
醤油が焦げる芳醇な香りと、ニンニクの刺激的な匂い、そして隠し味のリンゴの甘みが混ざり合い、暴力的なまでの匂いが風に乗って広がっていく。
魔力が枯渇し、泥のような水と乾いたパンしかなかったこの世界に、現代日本の調理技術が生み出した「温かな活力」が解き放たれた。
「……たまんねえな。やっぱり、飯の匂いはこうでなくちゃ」
俺が1人前の豚丼を完成させようとした、その時だった。
「…………グルルルッ」
低く、飢えた獣の唸り声が背後から響いた。
俺は反射的に身を硬くし、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、20センチほどの小さな影だった。
琥珀色の鱗を持つ、小さなドラゴン。
だが、その体は無数の切り傷で覆われ、翼の一部は欠けている。
群れに見捨てられ、過酷な砂漠を1匹で生き抜いてきたはぐれドラゴンだ。
体は小さいが、その瞳には一切の妥協がない、獰猛で凶暴な光が宿っている。
小さな顎をカチカチと鳴らし、喉の奥から小さな炎を漏らしている。その視線は、俺ではなく、フライパンの中にある肉に釘付けだった。
「お前……そんなに小さいのに、1人で頑張ってきたのか。……腹、減ってるんだろ」
俺はかつての自分を重ねた。
震災の夜、誰にも頼れず、ただ飢えに震えていた自分に、あの料理人が豚汁を差し出してくれた時のことを。
俺は、湯煎で温めたパックのご飯の上に、たっぷりとタレを纏った肉を乗せ、皿をドラゴンの前に置いた。
「食えよ。……毒なんて入ってない。俺が作った、自慢のメシだ」
ドラゴンは一瞬、罠を疑うように瞳を細めたが、立ち昇るニンニクと焼けた肉の香りに、生存本能が屈服した。
バクリ、と小さな口で肉に食らいつく。
その瞬間、ドラゴンの体が激しく震え始めた。
今まで口にしてきた生肉とは次元が違う、複雑で濃厚な旨味。
カリッと焼けた表面から溢れ出す熱い肉汁。
そして、甘辛いタレが染み込んだ白飯の、圧倒的な充足感。
黒胡椒のピリッとした刺激が、ドラゴンの全身の細胞を叩き起こしていく。
「キュゥ、キュゥゥ……!」
あまりの旨さに、小さな体がその情報量を処理しきれていない。
そして、異変が起きた。
ドラゴンの全身から、眩いばかりの琥珀色の光が溢れ出した。
砂漠の熱風を掻き消すほどの魔力の激流が、俺の周囲を渦巻く。
女神が言っていた高密度エネルギーが、ドラゴンの飢えた細胞1つ1つに浸透し、その構造を根底から書き換えていく。
光の中、ドラゴンの姿が急激に膨れ上がっていく。
20センチだった体格は瞬く間に3メートルを超え、四肢には鋭い爪が備わり、背中には金剛石のように硬く輝く翼が展開された。
ボロボロだった鱗は、磨き上げられた宝石のような輝きを放ち、周囲の空間を圧倒する。
光が収まった後、そこにいたのは、伝説の種族琥珀の天龍へと変貌を遂げた姿だった。
だが、その巨大な魔物は、俺を襲うどころか、その場に深々と跪いた。
『……御方に、永劫の忠誠を。我が名は琥珀。見捨てられ、死を待つのみだったこの命、貴殿の食卓を守る盾として捧げましょう』
その声は、重厚でありながら、どこか若々しい青年のものだった。
「琥珀……か。いい名前だ。……よかった、気に入ってくれたみたいだな」
俺は驚きながらも、ただ1匹の命が救われたことに安堵し、自分でもう1人前の豚丼を作って口に運んだ。
サクッ、ジュワッ。
自分でも驚くほどの完成度だ。スタミナたれのパンチが、蹴られた脇腹の痛みを忘れさせる。
『主よ。これより我は、貴殿の盾となり、矛となりましょう。この不毛の地を汚す者があれば、我が爪で塵も残さず引き裂きましょう』
琥珀は静かに、俺の前で巨大な前足を折り、忠誠の礼をとった。
10年以上の修行で培った俺の料理は、意図せずとも、この世界の住人の進化の鍵となったのだ。
その時、俺のスマホに新たな通知が届いた。
進化達成報酬として100000ポイントが加算された通知だ。
保有ポイント:140950ポイント
「……こんなに増えるのか。これなら、もっとたくさんの食材を呼べるな」
俺は、琥珀の巨大な背中を見上げ、穏やかに微笑んだ。
自分を無能と呼び、ゴミのように捨てたあの王国。
彼らが不味いパンと泥水を啜っている間に、俺はこの地で、誰の腹も空かせない最高の理想郷を創ってやる。
「よし、琥珀。まずは住む場所の確保だ。手伝ってくれるか?」
『御心のままに、わが主よ。その代わり……次の食事には、あの肉を多めにお願いしたく』
琥珀が少し照れたように、巨大な尾を振った。
最強の魔物が、たった一片の肉でこんなにも幸せそうな顔をする。
俺は、その光景を見られただけで、この世界に来てよかったと思えた。
灰の砂漠の朝空に、琥珀の天龍の咆哮が響き渡った。
それは、ギルガデス王国への反撃の狼煙などではなく、世界を温かな飯で満たすための、新しい朝の合図だった。
俺は空になった皿を片付けながら、次なるメニューを考え始めた。
昼は、スパイスをたっぷり効かせた夏野菜のカレーにしようか。
あのスパイスの香りが風に乗れば、どこかで飢えている誰かが、少しでも元気づけられるかもしれない。
そう思うと、料理人としての血が騒いで仕方がなかった。




