第16話:二つの権能
ハルナ平原の隅、砕け散った岩陰でヴェイルは血の混じった息を吐き出していた。魔将の尻尾による一撃は、カメレオン・スーツを切り裂き、彼の肋骨を数本へし折っていた。
「……くっ、想定外だ。あの少女、魔将クラスどころではない……。だが、それ以上に……」
ヴェイルの視線の先では、レンのスタミナ炒めを口にした琥珀とミナが、生物としての限界を超えた魔力の奔流を纏い、勇者と魔将を押し返していた。
ヴェイルは震える手で、懐から「高精度記録石」とは別の、禍々しいほどに輝く真紅の宝石を取り出した。
「思念共鳴石」。
記録しかできない安価な石とは違い、一度きりの使い切りだが、どんな遠方へもリアルタイムで音声を届けることができる超高価な秘蔵品だ。
「……ベルナルド様、聞こえますか。ヴェイルです」
その頃、ギルガデス王国の王宮。
外交大臣ベルナルド・サックスは、深夜の執務室でいつものように胃薬を白ワインで流し込んでいた。手元の共鳴石が赤く点滅するのを見て、彼は即座に魔法障壁を展開し、密談の儀式を整えた。
「ヴェイルか。報告を。ハルナの月華菜は確保できそうか?」
「……いえ、状況はそれどころではありません。相良レンの能力の詳細が判明しました。奴は……奴は、これまでの召喚者にはあり得なかった『二つの権能』の所持者です」
ベルナルドの手が止まった。
「……二つだと? 召喚時に与えられる権能は一つと決まっているはずだ。万象市場以外に、何があるという」
「料理です。単なる技術ではありません。奴が作った料理を食べた相手に、絶大かつ即効性のある身体強化バフを付与する権能です。伝説の天龍が、奴の一皿でさらに上の位階へ進化し、ただの亜人が魔将の攻撃を片手で受け止めています。……これは、兵站というレベルではありません。奴は『英雄を量産する工場』そのものです」
ベルナルドの瞳に、鋭い光が宿った。
勇者召喚の歴史において、能力を二つ持って現れた者など一人もいない。しかも、片方は無尽蔵の物資を呼び出し、もう片方はそれを食べた者を神の領域まで引き上げる。
この二つが組み合わさった時、世界はどうなるか。
飢えはなくなり、あらゆる弱者が最強の戦士へと変貌する。それは現在の「奪い合う世界」の終焉を意味していた。
「……そうか。分かった。ヴェイル、そのまま死なずに身を隠せ」
「はっ……。それで、ベルナルド様。この情報は王や他の勇者たちにも……」
「馬鹿を言え」
ベルナルドは立ち上がり、窓の外に広がる漆黒の夜を見据えた。
彼の顔からは一切の感情が消えていた。いつもの胃痛に苦しむ中間管理職の表情ではない。一国の運命を、いや世界のバランスを天秤にかける政治家の顔だった。
「この情報は、絶対に外に漏らすな。王に知られれば奴は道具として使い潰され、勇者たちに知られれば嫉妬で殺される。……そして魔王軍に渡れば、人族は滅ぶ」
ベルナルドは即座に魔法通信機を手に取り、彼が密かに組織している「実務派官僚直属の精鋭部隊」へ向けて、最も優先度の高い命令を下した。
「全軍に告ぐ。外交部直属部隊、および隠密部隊は直ちにハルナ平原へ向かえ。目的は一つだ。……手段を問わず、相良レンを確保しろ。傷一つ付けるな。奴は、この世界の壊れた理を修復するための、唯一の心臓だ」
ベルナルドの決断。
それは、レンを「略奪」しようとするタカシや、魔界へ「拉致」しようとする魔将とはまた別の、あまりにも重く冷徹な「保護」という名の拘束を意味していた。
ハルナ平原。
レンは琥珀とミナの背中越しに、スタミナ炒めの完成を告げるフライパンの音を響かせていた。
自分を取り巻く状況が、単なる「食い物の恨み」を通り越し、世界規模の争奪戦へと発展していること。
そして、自分が授かった二つの力の意味を、レン自身もまだ完全には理解していなかった。
「……おかわり、いるか?」
レンのその一言が、さらに世界の火種を大きくしていく。




