第13話:深淵の羽ばたき
ハルナ平原の広場に、焼けた醤油とバターの香ばしい匂いが漂う中、異変は唐突に訪れた。
焼きおにぎりを最後の一口まで大切そうに食べた紫瞳の少女は、突然、その顔を法悦に歪ませてレンに向かって一歩踏み出した。
「……決めた。あなた、ウチの国に来るべきだよ」
その声は、先ほどまでの蚊の鳴くような細さとは打って変わり、鈴を転がすような涼やかさでありながら、絶対的な命令の響きを帯びていた。彼女は躊躇なく細い腕を伸ばし、屋台のカウンター越しにレンの肩をガシッと掴んだ。
「え……? ウチの国って……?」
レンが呆然とする間もなく、少女の体から、常人なら圧死しかねないほどの濃密な魔力が溢れ出した。彼女はレンを、まるで軽い荷物でも扱うかのように、そのまま無理やり引きずっていこうとする。
「主に触れるな、不届き者がッ!!」
上空で警戒していた琥珀が、瞬時に異変を察知した。宝石のような鱗をきしませ、音速を超える速度で急降下する。その巨大な前足が、レンを掴む少女の腕目がけて振り下ろされた。
「レン様から離れろッ!」
同時に、ミナも動いた。灰猫族特有の瞬発力で地面を蹴り、少女の死角からその首筋へ向かって鋭い爪を繰り出す。
伝説の天龍と、熟練の獣人戦士による、寸分の狂いもない同時攻撃。だが、少女はレンの肩を掴んだまま、不敵に口元を歪めた。
「……うるさいな。食事の余韻を邪魔しないでよ」
少女の背中、外套の下から、人族にはあるまじき何かが弾け飛んだ。それは漆黒の鱗に覆われた、禍々しい魔力を纏う一対の巨大な羽。いや、それは羽というよりは、自在に動く「3本目と4本目の腕」だった。
ギチィィィン!!
硬質な金属音が響き渡る。少女から生えた漆黒の魔腕は、琥珀の巨大な爪を、そしてミナの鋭い爪を、それぞれ片手ずつで完璧に受け止めていた。琥珀の渾身の一撃を受け止めながら、少女の体は微動だにしていない。
「なっ……魔力を、物理的に……!?」
琥珀が驚愕に瞳を細める。龍の爪を受け止めるなど、魔王クラスの肉体強度でなければ不可能だ。ミナもまた、自分の爪が漆黒の腕に阻まれ、一ミリも食い込んでいないことに戦慄した。
「……ふぅん。龍と猫、ね。あなたたちの相手は、後でしてあげる」
少女は琥珀とミナを睨みつけ、さらにレンを引き寄せようとする。その光景を、離れた岩陰でヴェイルは息を殺して記録していた。
(馬鹿な……。琥珀の天龍の攻撃を、片手で防いだと? あの禍々しい魔力の腕……間違いない。あれは魔王軍の幹部、それも十指に入る魔将クラスの権能だ)
ヴェイルの背中に冷たい汗が伝わる。ただの斥候だと思っていた少女は、この世界を滅ぼしかねない、とんでもない怪物だった。
(この情報は、今すぐベルナルド様に……いや、まずは私が生き延びなければ)
ヴェイルは自身の隠密スキル「カメレオン・シャドウ」の出力を最大にした。魔力を完全に遮断する特殊な外套の効果で、完全に背景と同化する。
だが、レンを連れて行こうとしていた少女が、不意にヴェイルの方へ顔を向けた。
「……さっきから、うっとうしい。コソコソと、ネズミみたい」
少女の紫の瞳が、ヴェイルの隠れている場所を正確に捉えた。魔力を遮断しているはずなのに、彼女の視線はヴェイルの存在を直接見透かしているようだった。
「……ッ!? 見破られた……!?」
ヴェイルが驚愕した瞬間、少女の外套の下から、もう一本の何かがしなやかに伸びた。それは先端に鋭い棘を持つ、強靭な漆黒の「尻尾」だった。
ドォォォォォン!!
音速を超えて放たれた尻尾の攻撃が、ヴェイルの潜んでいた岩塊を粉砕した。カメレオン・スーツが裂け、ヴェイルの体が血を吐きながら弾き飛ばされる。
「ぐわぁぁぁッ!!」
ヴェイルは地面を転がり、岩に激突して動かなくなった。記録石が手元からこぼれ落ち、虚しく空を映す。
「……これで、少しは静かになったかな」
少女は尻尾を静かに収め、再びレンに向き直った。琥珀とミナは、ヴェイルが一撃で沈められた光景に、レンを守りきれるかという、かつてない恐怖に直面していた。
美食の広場は一瞬にして、深淵の魔将による支配の場へと変貌した。レンは肩を掴まれたまま、この理不尽なまでの力を前に、自分が授かった権能の真価を再び問われていた。




