第10話:山菜の掟
ハルナ平原の北端、霊峰「アズール」の裾野。
昨日の熱風が嘘のように、ここは冷涼な霧と森の香りに包まれていた。
琥珀によって空輸された4輪バギーが着地した場所には、すでに数十人の影があった。
ミナの同胞である獣人たち、そして――かつて彼らを不当に支配していた監視兵たちだ。
「……あ、あの、レン様」
一人の兵士が、震える手で槍を置き、レンの前に進み出た。
彼は昨日、泣きながら和牛シチューを貪り食っていたあの男だ。彼の後ろに控える10名ほどの兵士たちも、一様に深々と頭を下げている。
「昨日は……本当に、ありがとうございました。我々は王国の命令に従い、貴殿のような聖者に、そして……彼らに、酷い真似を……。どんなに謝っても済むことではありませんが、どうかお許しを……」
兵士たちの謝罪。だが、レンはその言葉を遮るように手を挙げた。
「おい、勘違いするな」
レンの低い声に、兵士たちがビクリと肩を揺らす。
「あんたたちが謝る相手は、俺じゃない。……謝罪は、俺たちにじゃなく、あんたたちが今まで傷つけ、踏みにじってきた獣人にするんだ」
兵士たちは顔を見合わせた。
この世界において、種族の壁は絶対だ。人族が亜人に謝るなど、騎士の誇りが許さない――はずだった。だが、昨日の「飯」が、彼らの誇りよりも大切な「良心」という名の根っこを、胃袋から呼び覚ましていた。
兵士のリーダー格の男が、ゆっくりと獣人の子供たち、そしてミナの方へ向き直った。
「……すまなかった。……本当に、すまなかった……!」
地面に額を擦り付けるほどの勢いで、兵士たちが獣人たちに頭を下げる。
ミナは、呆然とした様子でその光景を見つめていた。
奪われ、蹴られ、死を待つだけだった自分たちに、支配者が頭を下げている。
打算のない、ただ「美味い飯」が生んだ奇跡の光景だった。
「よし! しんみりするのはここまでだ。今日はみんなに手伝ってほしいことがある!」
レンはスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
現在の保有ポイントはマイナス16,800。全商品の価格は2倍という、とんでもないペナルティーの真っ最中だ。
「……くっ、やっぱり高いな。でも、これは必要経費だ」
レンが「園芸・作業用品」のカテゴリーから注文を確定させる。
高枝切りバサミ(5本):2,000ポイント(定価1,000)
軍手(30組):600ポイント(定価300)
大型の収穫カゴ(20個):1,000ポイント(定価500)
合計:3,600ポイント
累積債務:マイナス20,400ポイント
光の粒子が舞い、広場に大量の軍手と、銀色に輝く高枝切りバサミが出現した。
レンはそれを次々と兵士や獣人たちに配っていく。
「手が空いてる者はこれを持ってくれ! 軍手はトゲから手を守るため、ハサミは高いところの芽を摘むためだ。今から、この森に眠る『宝物』を採りに行くぞ!」
「宝物……? 金銀財宝ですか?」
ミナが不思議そうに首を傾げる。
「いいや、それよりも価値がある。この季節にしか味わえない、最高のご馳走……『山菜』だ!」
レンが先頭に立ち、一行は霊峰の裾野へと足を踏み入れた。
レンの鑑定スキルと料理人としての知識が、森のあちこちに隠れたご馳走を次々と見つけ出していく。
「あそこにある木を見てくれ。トゲがあるだろ? あの先端にある小さな芽……あれが『タラの芽』だ。山菜の王様と呼ばれてて、天ぷらにすると最高なんだ」
「えっ、あんなトゲだらけの木の芽が食べられるんですか?」
兵士の一人が、興味深そうにタラの木に近づいた。
彼は、レンが配ったハサミを使うのがもどかしかったのか、それとも軍手の性能を過信したのか、ガシッと素手でタラの木の幹を掴んだ。
「なんだ、軍手があればトゲも平気だな。レン様、こんなの、枝ごとへし折って取れば早いですよ。ほらよっ!」
バキィッ!!
乾いた音が響いた。
兵士は自慢の筋力で、タラの木の先端、新芽が吹いている枝そのものを力任せに叩き折った。
「なっ…………」
レンの顔から、一瞬で血の気が引いた。
そして、次の瞬間。
「何やってんだゴラァァァー!!!」
地響きのようなレンの怒号が森を揺らした。
驚いた琥珀が空で翼をバタつかせ、ミナが飛び上がって驚く。
折った兵士は、あまりの気迫に腰を抜かして尻餅をついた。
「れ、レン様……? たかが草の枝一本で、そんなに……」
「『たかが』だぁ!? ふざけんな!」
レンは鬼の形相で兵士の胸ぐらを掴み上げた。
「いいか、よく聞け! 取り方にも工夫が必要なんだよ! このタラの芽はな、木の先端にある『一番芽』が命なんだ。だが、そこを枝ごと折っちまったら、この木はどうなると思う? 枯れるか、来年以降もう芽を出せなくなるんだよ!」
レンは折られた枝を拾い上げ、震える声で続けた。
「俺たちは、この自然から命を分けてもらってるんだ。……来年以降も取るためには、根こそぎ奪うような真似は言語道断なんだよ! 芽の付け根を少し残して、木を傷めないように優しく摘み取る。それが『採らせてもらう』者の最低限のマナーだ。それを忘れるような奴に、俺の料理を食う資格はねえ!」
兵士は顔を真っ青にして、何度も「申し訳ありません!」と謝罪した。
獣人たちも、その剣幕に驚きつつも、レンがどれほど食材と、この地の未来を大切に思っているかを知り、身が引き締まる思いだった。
「……ふぅ。分かればいい。……いいか、みんな。山菜採りは格闘だ。でも、相手は倒す敵じゃない。共生するパートナーだ。ハサミを使って、芽だけを丁寧に切り取るんだ。分かったな!」
「「「はいっ!!」」」
そこからは、まさに「静かなる収穫祭」だった。
レンの指導のもと、兵士も獣人も、真剣な眼差しで芽を選別し、丁寧にハサミを入れていく。
トゲのあるタラの芽を、元騎士が真剣な顔で摘み取る。
コシアブラの若葉を、獣人の子供たちが歓声を上げながら拾い集める。
「レン様! こっちに、月のように光る草が……」
ミナの声に導かれ、森のさらに奥へ。
そこには、昼間の陽光を反射して青白く輝く、幻想的な山菜――「月華菜」が群生していた。
人族の国が独占し、獣人たちを死ぬまで働かせて採取させていた禁断の食材。
「……これだ。これを納品すれば、借金が返せる」
レンは、今度は自分自身が手本を見せるように、丁寧に、丁寧に月華菜の根元を傷つけないよう採取した。
一方、その様子を地上から、一切の気配を消して見守る影があった。
ベルナルドの密偵である隠密工作員だ。
彼は、記録石にこの異様な光景を刻み続けていた。
「……信じがたい。監視兵が、亜人と共に草を摘んでいる。それも、あの気難しい料理人の一喝に震えながら……」
密偵は冷や汗を流した。
力による支配ではなく、教育と共感による融和。
それは、ギルガデス王国が何百年もかけて築き上げた「支配の構造」を、根底から腐らせる毒、あるいは――新芽のようなものだった。
だが、密偵の視線とは別に、森の奥深く、漆黒の淵からもう一つの気配が蠢いていた。
風に乗って舞い落ちた、一枚の黒い羽。
「ククク……。ハルナの地で、面白い芽吹きがあるものだ」
魔王軍。
人族の国の動乱を虎視眈々と狙う彼らもまた、この「美食の変革」に目を付けていた。
夕暮れ時。
レンたちは、カゴいっぱいの山菜を抱えて広場へと戻った。
今日の成果は、特級の月華菜15株、そしてタラの芽やコシアブラなどの高級山菜が数百個。
レンはスマートフォンを掲げ、「納品・精算」のボタンを押し込んだ。
鑑定・納品結果:
天然・月華菜(特級)15株:22,500ポイント
山菜各種(特選):5,000ポイント
戦闘報酬補填:100ポイント
合計獲得:27,600ポイント
画面が激しく明滅し、あの忌々しい金庫のマークが砕け散った。
精算完了:
マイナス20,400 + 27,600 = プラス7,200ポイント
借金完済! ペナルティーを一部解除します。
制限解除:『一般食材』『調理器具』カテゴリーの通常価格復旧。
拠点再購入権利が復活しました。
「……やった……! やったぞぉぉぉぉぉ!!!」
レンは砂の上に座り込み、拳を突き上げた。
借金完済。ついに、あのどん底から這い上がったのだ。
「レン様! おめでとうございます!」
ミナが飛びついてくる。琥珀もまた、上空で喜びの咆哮を上げた。
兵士たちも、自分たちが摘んだ草が、この聖者の「自由」を買い戻したことを知り、我がことのように歓声を上げる。
「よーし! 約束通り、今夜は宴だ! 採りたての山菜を、最高にサクサクな『天ぷら』にしてやる! 全員、腹空かせて待ってろ!」
打算なき料理人の、再起の夜。
ハルナ平原には、かつての憎しみさえも溶かすような、香ばしい胡麻油の匂いと、サクッという幸せな咀嚼音が響き渡ろうとしていた。




