第三話 奈々の父
「…すみません。差し出がましく色々聞いちゃって」
「差し出がましいなんて、とんでもない。…奈々の事を気遣ってくれてありがとう」
病院を出ようとした所、信司はロビーで奈々の父親に出くわした。
奈々との付き合いが長い信司は、その家族とも交流を持っている。
今日は、手術の最終的な手続きをしに病院へ来たらしい。
事前に担当医からの説明も受けたと言う父親から、信司はその内容を教えてもらっていた。
「要するに、このまま順調に手術の日を迎えられればほぼ確実に成功させられるそうだよ」
奈々の父は、穏やかな人柄を思わせるゆったりとした優しい口調で言った。
「良かったです」
「ただ」
彼は少し迷ってから、言いにくそうに続けた。
「奈々の病気は非常に病状の波が激しくて、当日どんなコンディションになっているのかはまったく予測がつかないそうなんだ」
それは知っている。
今日みたいに元気に動き回っている日もあるが、過去には高熱を出してベッドから起き上がれなくなった事もあるし、血を吐いて病院の廊下で倒れた事もあるのだ。
「手術の特性上かなり大がかりな準備をしなければならない上、とても長い時間手術室を占領する事になってしまうから今回の予定日を逃せば次にチャンスが来るのはいつになるか保障できかねるとも言われたよ」
『体調が悪いから三日延ばして下さい』とかは通用しないという事だろう。
「これから手術までの数日間、健康管理には十分気を配らなければならないという事ですね」
「うん」
彼はうなずいた。
信司は時計を確認した。
ロビーの壁に設置されたアナログ時計は、そろそろ帰らなければならない時間だと告げていた。
「じゃあ、僕今日はこのへんで」
「ちょっと待って」
立ち去ろうとした信司を、彼が呼びとめた。
「…………」
「信司君は知っていると思うが、奈々…あいつはうわべこそ元気に振る舞っているものの、本当はひどくさびしがり屋で、気弱なやつだ」
語る声には、他の何でもない、娘を想う父の気持ちがこもっていた。
「それに加えて身体があんなだから、中学・高校と友達らしい友達も作れていないようだし、精神的に信司君に助けられている所がかなり大きいと思うんだ。……本当にありがとう」
「そんなことありませんよ」
信司は否定した。
「僕は奈々の事なんて何もわかってやれてないし、寧ろ傷付けてるんじゃないかって思うことばかりです。…今日も、ちょっと泣かせてしまいました。すみません」
信司は奈々の言葉を思い出した。
『もう…病気のせいでやりたい事もできないなんて、いやだよ……』
奈々の精神状態、ひいては体調の事を考えるなら、きっと自分は力強く彼女を元気づけるべきだったのだろう。
「…信司君が今日奈々に会いに来てくれなかったら、あいつはきっと泣くのすら我慢してたんじゃないかな」
「……」
「あいつは信司君に心を許してるんだよ。だから君の前では素の自分を晒して、甘えているんだ」
「甘えている?…奈々がですか?」
「人間にはね、泣きたいときもあるし愚痴を言いたいときもある」
彼は、人生の厚みを感じさせる遠い目で語りを続けた。
「景気よく励ましてくれる人だけでなく、不安や焦りを共有してくれる人も必要だったりするしね。…そしてそういう人には誰もがなれるわけじゃないと思うんだ。実際最近の奈々は私にはなかなか本音を言ってくれない気がするよ」
彼の声は少しさびしそうな響きを含んだ。
「…まあ、というわけで私個人の見解として、奈々には信司君が必要だと思うわけだよ。…ところで、将来君はあれを貰ってくれる気があるかい?」
重く沈んだ空気を一掃しようとしたのか、奈々の父は唐突に聞いた。
「え…」
「父親の私が言うのもなんだが奈々はなかなかかわいいし、身体は弱いが料理はできるんだ」
奈々が、結婚……
当然に来るはずの未来。
それなのに、どうしても信司は、それを現実の話としてとらえる事ができない。
どうして、こんなにも自分はマイナス思考ばかりしているのだろう。
自分よりずっと心配なはずの奈々の父でさえ、来るべき未来を信じているというのに。
「ま、まあ、娘の婚活はまた今度にしましょうよ。…もう夜も遅くなりましたし」
彼は笑った。そして、引きとめてすまなかったねと言った。
信司は丁寧に挨拶をし、その場を去った。
病院を出て自転車にまたがると、信司は後ろを振り返らず、ただがむしゃらにペダルをこいだ。
………何やってんだ俺は?
自分が心底嫌になった。
明るくいられると思っていた。少なくとも奈々と手術の話をするまでは。
こんな時こそ、自分が強くあらねばならないのに。
自分自身の、「奈々を失うかもしれない」という恐怖が、どうしても先に立ってしまう。
「奈々を不安がらせに来たんじゃねえだろうがっ…!」
なぜ、「大丈夫だ」と言えなかった?
俺の不安を奈々に移してどうする?
悶々と考えながら信司はペダルをガチャガチャと回し続けた。




