第二話 少女の病
「よっ。奈々」
信司は元気よくガラッと引き戸を開けると、個室の主の名を呼んだ。
しかし、返事がない。
信司は個室の中に入り中を見回した。が、いない。
「……奈々?」
どうしたんだ?信司はいぶかしんだ。
が、次の瞬間――――
「しんじぃっ!」
背後に響いた声に驚いて振り返った刹那、信司の額に何やら緑色の物体が迫り…
スパコーンッ☆
乾いた音とともに直撃した。
「いってえ!」
「いってえじゃないっ」
「……やっぱり奈々か。こんなガキ臭い事しやがって…」
信司は頭を押さえながら目の前で病院のスリッパを握っている女の子を睨んだ。
向こうは向こうで柔和な顔に小さな皺を寄せてプンスカしている。
おそらく彼女の背後で半開きになっているクローゼットの中にでも隠れていたのだろう。
「だって信司がいつもの時間になっても来ないんだもん。…心配したんだよ?」
そう言って奈々は頬を膨らませた。
「ごめん。途中で腹が痛くなっちゃって」
信司は嘘をついた。
プレゼントはサプライズで渡さなければつまらないと考えての事だ。
かといって咄嗟に上手い言い訳が思いつかず、イタズラがばれた子供レベルの嘘しかつけない所が何とも隠し事の苦手な信司らしい。
「ふ~ん。なんか嘘くさいけど…まあいいや。引っぱたいてすっきりしたから許してあげるっ」
ようやく奈々はいつもの和やかな表情に戻った。
「じゃあほら、無理してないで寝てなって」
信司は、白い鉄柵に囲まれたベッドを指差した。
「無理なんかしてないもん。立ってる方が楽なんだよー」
「いいから。大事な時期に何かあったらどうするんだよ」
「もう、しょうがないなあ」
そう言うと奈々は、よいしょっとベッドの上に乗り、横たわった。
信司は奈々の肩まですっぽりと布団を被せてやった。
「……ありがと」
奈々は布団の端に顎を埋め、恥ずかしそうに礼を言った。
「……どういたしまして」
……………
二人の間に微妙な空気が流れる。
「……もうすぐだな」
信司は沈黙をやぶって言った。
「……うん」
浮かない顔で奈々が答えた。
もうすぐ、奈々の運命を決める大切な日がやってくる。
幼い頃から、命にかかわる難病と闘って来た奈々。
その完治を目的とする高度な手術が、ついに奈々の身体へ施されるのだ。
年齢が幼く、体力がないから無理だという理由で、長い間手術を受けられなかった奈々。
高校生になってやっと手術可能と判断された彼女は、手術の日が来るのをずっと待ち望んでいたに違いない。
でも…
奈々の顔を見ると、どうも手放しに喜べない様子。
まあそれもそうだろうと信司は思った。
「やっぱり、不安…だよな」
不安でないはずもない。
しかし、こんな事を言ってどうするというのか。
「…………」
奈々は答えない。
「…………」
信司は今さらながら不用意な発言を後悔した。
「不安」とか「怖い」なんていう発言は、一番不安で怖がっている本人の前では許されない。
「…………」
また気まずい沈黙。
信司は黙りこんでしまった奈々を元気づける言葉を見つける事ができなかった。
きっと自分自身不安に思ってるから言葉が出ないのだ、と信司は自覚していた。
『やっぱり、不安…だよな』ではなく信司自身が不安なのだ。
「信司……」
今度は、奈々から口を開いた。
「…学校、楽しい?」
「奈々……」
信司は驚いた。
普段の奈々は、滅多に学校の事など話題にしない。
信司も、入退院を繰り返す生活のせいでろくに学校へ通えていない奈々を気遣って学校の話はなるべく出さないようにしていた。
「…………楽しいよ」
嘘をついても仕方がない。でも…
「お前がいないから寂しいけどな」
これだって、決して嘘ではない。
「………そうだよね」
奈々は上体を起こし、病室の窓から外を眺めた。
窓の外には、都会とは趣を異にした郊外の美しい風景が広がっている。
少し右手に視線をずらせば海が見えそうだ。
…この風景を見る事はできても、実際に行くことは滅多にかなわない奈々。
病気のせいで、今までどれほどつらい思いをしたことだろう。
「……手術が成功すれば、私も学校に行けるんだよね」
「……そうだな」
「友達も作れるし、遠くへお買い物にも行けるんだよね」
「……うん」
すると突然、奈々が身体の向きを変え、手を伸ばして信司のシャツを掴んだ。
「おい……」
「……不安だよ。……怖いにきまってんじゃん」
しゃくりあげるような声は、かすかに震えている。
「でも、やっとチャンスが来たんだよ?………信じるしかないじゃん」
「奈々…」
「もう…病気のせいでやりたい事もできないなんて、いやだよ……」
信司は、自分の鈍さを呪った。
気丈な奈々は、時として周りの人間にその強さを誤認させてしまう事があるのだ。
「ごめん…」
信司はただ、震える奈々の手を握ってやる事しかできなかった。
静寂に包まれた病室に、断続的な嗚咽が響き続けた。




