古書店の初版本
私の肉体は、植物繊維の集合体である。
亜麻と砕木パルプを混合し、漉き上げられたクリーム色の洋紙。
そこに黒色カーボンを含んだ油性インクが浸透し、一〇万を超える文字の羅列として定着している。
一九二三年。大正十二年。
私は東京の印刷工場で産声を上げた。
活版印刷機の凄まじい圧力。鉛の活字が、私の白い肌に食い込む痛み。
それは「意味」を刻印されるための通過儀礼だった。
私はただの紙束から「書物」へと進化した。
私の背表紙には金の箔押しが施されている。
奥付には「初版」の二文字。
それは血統書であり、私の誇りの源泉だ。
増刷された弟たちとは違う。修正も、検閲も受けていない、著者が最初に吐き出した魂の形状をそのまま保っている純血種。
だが、その誇りは長い孤独の始まりでもあった。
ここは古書店「遅日堂」。
北向きの窓からは、決して直射日光が入らない。紫外線はインクを退色させ、紙を酸化させる敵だからだ。
空気は停滞している。
漂うのは、古紙特有の甘いバニリンの香りと、防虫剤の樟脳、そして店主が淹れるコーヒーの焙煎臭。
チリ一つないガラス戸棚の中が、私の住処だ。
ここには時間が堆積している。
隣には明治時代の詩集。その隣には江戸時代の和綴じ本。
私たちは無言で鎮座している。賢者の沈黙。
店主は七十代の老人だった。
彼の指は、紙よりも乾燥しており、決して私たちを汚さない。
ページをめくる時、彼は指を舐めたりしない。
指の腹で優しく紙の端を捉え、空気を含ませるようにしてめくる。
その所作は、茶道の点前のように洗練されていた。
彼は毎日、毛ばたきで棚の埃を払う。
「おはよう」
彼は私たちに話しかける。
彼は知っているのだ。私たちが単なる物体ではなく、凍結された精神であることを。
しかし、客たちは違う。
ドアベルが鳴り、外の世界の騒音が流れ込む。排気ガスの臭い。
入ってくるのは、様々な人間たちだ。
無知な学生。
彼はリュックサックを背負ったまま、狭い通路で体を回転させる。
危ない。リュックの金具がガラス戸に当たる!
私は身を縮める。
彼は雑に棚から本を抜き出し、中身も見ずに値段だけを見る。
「ゲッ、たっか。ボロいのに」
彼は舌打ちをして、乱暴に本を戻す。
背表紙が傷つく。痛みよりも、その無礼さに私は憤る。
我々は「中古品」ではない。「文化遺産」なのだ。
転売屋。
彼らは最悪だ。
片手にバーコードリーダーを持ち、無感情な目で棚をスキャンしていく。
彼らが見ているのは、私の文章ではない。
背表紙の向こうにある「市場価格」というデータだけだ。
電子音が鳴るたび、仲間たちが値踏みされ、商品化されていく。
「利益率がいいな」
男が私を手に取る。
脂ぎった手。爪の間の汚れ。
やめろ。触るな。
私は必死に抵抗する。ページの間に静電気を発生させ、簡単には開かせないようにする。
男は眉をひそめ、スマホで検索する。
「……ネット相場より高いな。パスだ」
男は私を戻した。
屈辱的だが、安堵した。
彼らのような無粋な輩に買われるくらいなら、ここで朽ち果てて紙魚の餌になった方がマシだ。
ある雨の午後。
一人の少女が店に入ってきた。
高校生くらいだろうか。濡れた傘を丁寧に畳み、傘立てに入れる。
彼女は静かだった。
足音を忍ばせ、棚の間を彷徨う。
彼女は何かを探しているようだったが、具体的な目的があるわけではなさそうだった。
彼女は言葉に飢えていた。
誰かの言葉で、自分の空洞を埋めたいと願っている、切実な渇望の匂いがした。
彼女の目が、ガラス戸の向こうの私と合った。
引き寄せられるように、彼女は立ち止まる。
「……これ」
彼女が店主を見る。
店主は無言で頷き、ガラス戸の鍵を開けた。
彼女はおそるおそる、両手で私を受け取る。
まるで、傷ついた小鳥を扱うような手つきだった。
表紙の布クロスの感触。
彼女の指先が、箔押しの文字をなぞる。
そして、表紙を開く。
見返しのアート紙。遊び紙。そして扉。
一ページ目。
『或る曇った冬の日暮れである。私は自殺の事を考えていた。』
彼女の視線が、冒頭の一行に吸い込まれた。
瞳孔が開く。
呼吸が止まる。
活字が網膜に焼き付き、視神経を通って脳の海馬を直撃する。
百年前の著者の絶望が、時空を超えて、現代の少女の絶望と共振した瞬間だった。
彼女の指が震えている。
ページをめくる。
古い紙の匂いが立ち上る。
それは彼女にとって、異世界への扉が開く匂いだった。
彼女は読みふけった。店内であることも忘れ、時間の経過も忘れ。
彼女の涙が一滴、落ちそうになる。
危ない!
紙は水分を嫌う。シミになる。
しかし、店主は止めなかった。
彼女は寸前でそれに気づき、慌てて手の甲で涙を拭った。
「……私、これ、買います」
彼女の声は震えていた。
「でも、お金が足りなくて……取り置きしてもらえませんか」
彼女は財布の中身を見つめて言った。
店主は微笑んだ。
深い皺が刻まれた、優しい笑顔だった。
「いいんですよ、お嬢さん。この本は、あなたを待っていたようだ」
店主は値札を見る。
「雨の日割引です。これで足りるでしょう」
それは大幅な値引きだった。利益など度外視した、ほとんど贈与に近い価格。
彼女は驚き、何度も頭を下げた。
私はパラフィン紙で丁寧に包まれ、さらに茶色い紙袋に入れられた。
温かい。
少女の胸に抱きしめられている。
心臓の鼓動が聞こえる。トクン、トクンと、力強いリズム。
さようなら、静謐なガラス戸棚。
さようなら、古紙の匂いのする仲間たち。
さようなら、優しい店主。
私は旅立つ。
コレクションとして保存される安寧の道ではない。
何度も読み返され、手垢にまみれ、背表紙が割れ、ボロボロになるまで愛される「実用品」としての道だ。
だが、それこそが書物の本懐だ。
私は百年前に書かれた言葉だ。
しかし、今、この少女の中で私は蘇った。
私は彼女の血となり、肉となり、彼女が明日を生きるための小さな灯火となるだろう。
ドアベルが鳴り響く。
外の空気は湿っていたが、どこか清々しい予感に満ちていた。




