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古書店の初版本

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/02/01

 私の肉体は、植物繊維の集合体である。

 亜麻と砕木パルプを混合し、漉き上げられたクリーム色の洋紙。

 そこに黒色カーボンを含んだ油性インクが浸透し、一〇万を超える文字の羅列として定着している。

 一九二三年。大正十二年。

 私は東京の印刷工場で産声を上げた。

 活版印刷機の凄まじい圧力。鉛の活字が、私の白い肌に食い込む痛み。

 それは「意味」を刻印されるための通過儀礼だった。

 私はただの紙束から「書物」へと進化した。

 

 私の背表紙には金の箔押しが施されている。

 奥付には「初版」の二文字。

 それは血統書であり、私の誇りの源泉だ。

 増刷された弟たちとは違う。修正も、検閲も受けていない、著者が最初に吐き出した魂の形状をそのまま保っている純血種。

 だが、その誇りは長い孤独の始まりでもあった。


 ここは古書店「遅日堂」。

 北向きの窓からは、決して直射日光が入らない。紫外線はインクを退色させ、紙を酸化させる敵だからだ。

 空気は停滞している。

 漂うのは、古紙特有の甘いバニリンの香りと、防虫剤の樟脳、そして店主が淹れるコーヒーの焙煎臭。

 チリ一つないガラス戸棚の中が、私の住処だ。

 ここには時間が堆積している。

 隣には明治時代の詩集。その隣には江戸時代の和綴じ本。

 私たちは無言で鎮座している。賢者の沈黙。


 店主は七十代の老人だった。

 彼の指は、紙よりも乾燥しており、決して私たちを汚さない。

 ページをめくる時、彼は指を舐めたりしない。

 指の腹で優しく紙の端を捉え、空気を含ませるようにしてめくる。

 その所作は、茶道の点前のように洗練されていた。

 彼は毎日、毛ばたきで棚の埃を払う。

 「おはよう」

 彼は私たちに話しかける。

 彼は知っているのだ。私たちが単なる物体ではなく、凍結された精神であることを。


 しかし、客たちは違う。

 ドアベルが鳴り、外の世界の騒音が流れ込む。排気ガスの臭い。

 入ってくるのは、様々な人間たちだ。


 無知な学生。

 彼はリュックサックを背負ったまま、狭い通路で体を回転させる。

 危ない。リュックの金具がガラス戸に当たる!

 私は身を縮める。

 彼は雑に棚から本を抜き出し、中身も見ずに値段だけを見る。

 「ゲッ、たっか。ボロいのに」

 彼は舌打ちをして、乱暴に本を戻す。

 背表紙が傷つく。痛みよりも、その無礼さに私は憤る。

 我々は「中古品」ではない。「文化遺産」なのだ。


 転売屋(せどり)

 彼らは最悪だ。

 片手にバーコードリーダーを持ち、無感情な目で棚をスキャンしていく。

 彼らが見ているのは、私の文章ではない。

 背表紙の向こうにある「市場価格」というデータだけだ。

 電子音が鳴るたび、仲間たちが値踏みされ、商品化されていく。

 「利益率がいいな」

 男が私を手に取る。

 脂ぎった手。爪の間の汚れ。

 やめろ。触るな。

 私は必死に抵抗する。ページの間に静電気を発生させ、簡単には開かせないようにする。

 男は眉をひそめ、スマホで検索する。

 「……ネット相場より高いな。パスだ」

 男は私を戻した。

 屈辱的だが、安堵した。

 彼らのような無粋な輩に買われるくらいなら、ここで朽ち果てて紙魚の餌になった方がマシだ。


 ある雨の午後。

 一人の少女が店に入ってきた。

 高校生くらいだろうか。濡れた傘を丁寧に畳み、傘立てに入れる。

 彼女は静かだった。

 足音を忍ばせ、棚の間を彷徨う。

 彼女は何かを探しているようだったが、具体的な目的があるわけではなさそうだった。

 彼女は言葉に飢えていた。

 誰かの言葉で、自分の空洞を埋めたいと願っている、切実な渇望の匂いがした。


 彼女の目が、ガラス戸の向こうの私と合った。

 引き寄せられるように、彼女は立ち止まる。

 「……これ」

 彼女が店主を見る。

 店主は無言で頷き、ガラス戸の鍵を開けた。

 彼女はおそるおそる、両手で私を受け取る。

 まるで、傷ついた小鳥を扱うような手つきだった。

 

 表紙の布クロスの感触。

 彼女の指先が、箔押しの文字をなぞる。

 そして、表紙を開く。

 見返しのアート紙。遊び紙。そして扉。

 

 一ページ目。

 

 『或る曇った冬の日暮れである。私は自殺の事を考えていた。』

 

 彼女の視線が、冒頭の一行に吸い込まれた。

 瞳孔が開く。

 呼吸が止まる。

 活字が網膜に焼き付き、視神経を通って脳の海馬を直撃する。

 百年前の著者の絶望が、時空を超えて、現代の少女の絶望と共振した瞬間だった。

 彼女の指が震えている。

 ページをめくる。

 古い紙の匂いが立ち上る。

 それは彼女にとって、異世界への扉が開く匂いだった。

 彼女は読みふけった。店内であることも忘れ、時間の経過も忘れ。

 彼女の涙が一滴、落ちそうになる。

 危ない!

 紙は水分を嫌う。シミになる。

 しかし、店主は止めなかった。

 彼女は寸前でそれに気づき、慌てて手の甲で涙を拭った。

 「……私、これ、買います」

 彼女の声は震えていた。

 「でも、お金が足りなくて……取り置きしてもらえませんか」

 彼女は財布の中身を見つめて言った。


 店主は微笑んだ。

 深い皺が刻まれた、優しい笑顔だった。

 「いいんですよ、お嬢さん。この本は、あなたを待っていたようだ」

 店主は値札を見る。

 「雨の日割引です。これで足りるでしょう」

 それは大幅な値引きだった。利益など度外視した、ほとんど贈与に近い価格。

 彼女は驚き、何度も頭を下げた。


 私はパラフィン紙で丁寧に包まれ、さらに茶色い紙袋に入れられた。

 温かい。

 少女の胸に抱きしめられている。

 心臓の鼓動が聞こえる。トクン、トクンと、力強いリズム。

 

 さようなら、静謐なガラス戸棚。

 さようなら、古紙の匂いのする仲間たち。

 さようなら、優しい店主。


 私は旅立つ。

 コレクションとして保存される安寧の道ではない。

 何度も読み返され、手垢にまみれ、背表紙が割れ、ボロボロになるまで愛される「実用品」としての道だ。

 だが、それこそが書物の本懐だ。

 私は百年前に書かれた言葉だ。

 しかし、今、この少女の中で私は蘇った。

 私は彼女の血となり、肉となり、彼女が明日を生きるための小さな灯火となるだろう。


 ドアベルが鳴り響く。

 外の空気は湿っていたが、どこか清々しい予感に満ちていた。

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