第二話 契約の代価(コスト)――最弱、進化の兆し
――胸が、重い。
息を吸うたびに、肺の奥が軋む。
神城零夜は膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
視界の端で、赤と青のランプが明滅する。
装甲車。武装した人影。空にはヘリ。
異界門の直下、交差点は完全に包囲されていた。
『現場の能力者に告ぐ。
あなたは現在、異界存在との不正契約の疑いがある。
両手を上げ、仲間モンスターから離れなさい』
拡声器の声は冷静で、機械的だった。
だが、その冷静さが逆に、零夜の背筋を冷やす。
(……不正、かよ)
零夜はスラルを見る。
裂けた体を必死に保ち、零夜の半歩前に立つ小さな粘体。
「マスター……大丈夫?」
「……ああ。平気だ」
嘘だった。
頭は割れそうに痛い。吐き気も消えない。
さっきの契約――特に黒スライムへの《支配》は、明らかに限界を超えていた。
視界に、また透明な表示が浮かぶ。
【精神負荷:危険域】
【警告:これ以上の強制契約は精神崩壊の可能性あり】
(……代価、ってやつか)
力には、代償がある。
当たり前の話だ。だが――
零夜が歯を食いしばった、そのときだった。
ビルの屋上。
あの“魔人”の姿は、もうない。
(……消えた?)
だが、安心する暇はなかった。
背後で、ぐちゃり、と嫌な音がしたからだ。
「……え?」
振り返った零夜の目に映ったのは、スラルだった。
スラルの体の一部が、溶けるように崩れている。
青かった粘体が、ところどころ白濁し、内部で微かな光が揺れていた。
「スラル……?」
「……マスター。
なんか……中、あつい」
「熱い?」
零夜は一歩近づこうとして、止まった。
スラルの体内に、はっきりと見える。
小さな光点(コアの芽)。
それは、さっき契約した“核持ちスライム”の赤い核とは違う。
淡く、頼りなく、今にも消えそうな光。
表示が勝手に立ち上がる。
【進化兆候検出】
【対象:スラル】
【原因:契約者の精神消耗+戦闘経験】
【警告:進化は不安定】
「進化……?」
零夜の喉が鳴る。
(こんな、ボロボロの状態で……?)
その瞬間、拡声器の声が鋭さを増した。
『繰り返す!
仲間モンスターから離れろ!
従わない場合、強制制圧を行う!』
装甲服の兵士たちが一斉に銃口を上げる。
向けられているのは、零夜ではない。
――スラルだ。
「……やめろ!」
零夜は叫び、思わず前に出た。
「こいつは敵じゃない!
俺を守って、誰も殺してない!」
『モンスターはモンスターだ。
感情移入は危険だぞ、少年』
冷たい声。
正論。だが、零夜の胸に刺さる。
(……こいつらには、スラルは“物”なんだ)
スラルが、ぷるん、と揺れた。
「マスター……ぼく、じゃま?」
「違う!」
零夜は即答した。
「お前は……俺の仲間だ」
その言葉に反応するように、
スラルの体内の光が、ほんの少し強くなった。
だが同時に、スラルの体が崩れかける。
「……あ、だめ……
なんか……ほどける」
零夜の心臓が跳ねた。
(進化が、失敗したら……?)
表示が、無慈悲に追い打ちをかける。
【進化失敗時:個体崩壊の可能性】
「……ふざけるな」
零夜は歯を食いしばった。
(俺のせいだ……!
無茶な契約で、精神削って……
その負荷が、スラルに流れてる!)
零夜は理解した。
仲間の進化は、マスターの状態に依存する。
自分が不安定なら、仲間も不安定になる。
そのとき――
背後から、拍手の音が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
「いやぁ、いいね。
仲間思いの救世主候補」
いつの間にか、交差点の街灯の上に、あの魔人が腰掛けていた。
影が濃く、輪郭が揺らぐ、不気味な存在。
統制局の兵士たちがざわめく。
『……高位異界存在を確認!
コード・マジン! 全隊、警戒!』
「コードだなんて、ひどいなぁ。
ちゃんと名前、あるんだけど?」
魔人は肩をすくめ、楽しそうに笑った。
「でもまあ、今は名乗らなくていいか。
それより――」
魔人の視線が、スラルに向く。
「そのスライム、
このままだと――死ぬよ?」
「……っ!」
零夜は睨みつけた。
「お前が、何を知ってる」
「そりゃあ、知ってるさ」
魔人は指を鳴らす。
パチン、という音と同時に、空気が歪んだ。
「進化ってのはね、
“力”だけじゃダメなんだ」
魔人は楽しそうに言う。
「覚悟が要る。
マスターと、仲間、両方の」
零夜の拳が震える。
「……どうすればいい」
「お?」
魔人は目を細めた。
「聞くんだ。
いいね、その顔。
答えは簡単」
魔人は、スラルを指差した。
「その子に、選ばせなよ。
進化するか、しないか」
「……選ばせる?」
「そ。
強制はダメ。支配もダメ。
“契約”なんだろ?」
魔人はにやりと笑う。
「進化ってのは、
自分が何者になるかを決めることだから」
零夜は息を飲んだ。
(……俺、また“命令”しようとしてた)
守りたい気持ちが、
無意識に、スラルの意思を無視していた。
零夜は膝をつき、スラルと目線を合わせた。
「スラル……」
「マスター……?」
「……正直に言う」
零夜は震える声で続ける。
「このままだと、お前は……消えるかもしれない。
進化すれば、生きられる可能性がある。
でも――」
喉が詰まる。
「進化したら、
もう“前のスラル”じゃいられないかもしれない」
スラルは、しばらく黙っていた。
粘体が、ゆっくり揺れる。
「……ぼく」
スラルが、ぽつりと言った。
「ぼく、こわい」
零夜の胸が締め付けられる。
「でも……
マスター、守りたい」
「……!」
「弱いままじゃ、
また、マスターが、痛くなる」
その言葉に、零夜の目が潤んだ。
「……だから」
スラルの体内の光が、はっきりと輝く。
「進化……する」
瞬間、表示が弾ける。
【進化承認】
【対象:スラル】
【進化ルート選択】
①変異スライム(ミュータント)
②守護スライム(ガーディアン)
③核形成スライム(コア・ベアラー)
(ルート……!?)
零夜は迷った。
だが、スラルの言葉が頭に残っている。
――守りたい。
零夜は、震える指で選んだ。
「②……守護スライム」
選択と同時に、世界が光に包まれる。
スラルの体が大きく広がり、
青だった粘体に、白銀の線が走る。
「……う、あ……!」
スラルの声が、苦しそうに震える。
「スラル! 無理なら――」
「だいじょうぶ……!
マスター、信じる!」
その言葉が、最後の引き金だった。
スラルの体内で、
コアが“形”を持った。
淡い光が、確かな核へと変わる。
そして――
【進化完了】
名称:スラル
種族:守護スライム
ランク:D
特性:粘体障壁
技能:体当たり/防御展開/自己再生(低)
光が収まる。
そこにいたのは、
一回り大きく、どこか頼もしいスラルだった。
「……マスター」
声が、少しだけ低くなっている。
「守れる……前より」
零夜は、笑った。
涙が出そうになるのを堪えながら。
「……ああ。
ありがとう、スラル」
その瞬間。
バン!
銃声。
統制局の一部が、魔人に向けて発砲した。
だが弾丸は、空中で止まり、溶ける。
「おっと。
今は君たちの出番じゃない」
魔人は立ち上がり、零夜を見下ろした。
「いい進化だったよ。
じゃあ――次は君の番だ」
「……俺?」
「そう」
魔人は愉快そうに笑う。
「契約者として、
どこまで背負えるか」
そう言い残し、
魔人の姿は影と共に掻き消えた。
静寂。
統制局の兵士たちが、慎重に距離を取る。
『……能力者、神城零夜。
あなたを、保護対象として指定する』
保護。
だが、その言葉の裏にあるのは、監視と管理だ。
零夜は、進化したスラルを見た。
そして、まだ閉じきらない異界門を見上げる。
(……まだ、始まったばかりだ)
仲間は増える。
進化も続く。
そして代価は、これからもっと重くなる。
それでも――
「行こう、スラル」
「うん。
マスターと一緒」
最弱から始まった契約は、
確かに“次の段階”へ進んだ。




