第一話 最弱から始まる救世主(メシア)
世界が壊れ始めたのは、爆発でも、地震でもなかった。
ただ――空が裂けた。
それは六月の湿った朝だった。梅雨の雲が低く垂れ、通学路のアスファルトは夜の雨をまだ抱いている。
神城零夜はイヤホンの片方を外し、信号待ちの群れの中でぼんやりと空を見上げた。
何も起こらないはずの空。
その、青と灰色の境目が――
ピシリ。
音がした気がした。
次の瞬間、空間が蜘蛛の巣のようにひび割れ、黒い裂け目が開いた。
「……は?」
誰かが笑った。冗談だと思ったのかもしれない。
だが裂け目から落ちる影を見た瞬間、笑いは悲鳴に変わった。
――異界門。
ニュースで何度も見た単語が、目の前の現実になっていた。
裂け目から、青い塊が転がり落ちた。ゼリーみたいにぷるん、と弾み、濡れた路面に張り付く。
「ス、スライム……?」
ファンタジーの雑魚モンスター。
最弱。最初に倒される役。ゲームならチュートリアル。
それなのに周囲は逃げ惑い、誰かが転んで泣き叫んでいる。
異界門から出てきたものは、雑魚だろうが何だろうが、**“人間にとっての異物”**だ。
スライムはゆっくりと形を変え、丸い体を伸ばす。狙いをつけるみたいに、零夜の足元へにじり寄った。
(やばい……!)
周りはもう散っていた。信号待ちの群れは霧散し、取り残されたのは零夜と、転んだまま動けない小学生の女の子だけ。
「お、お兄ちゃん……!」
涙声。足がすくむ。
逃げろ、という理性と、動けないという本能が喧嘩して、体が鉛みたいに重い。
スライムが跳ねた。
青い塊が弾丸のように飛び――
その瞬間、零夜の視界の端に、あり得ないものが浮かんだ。
【契約可能】
【対象:雑魚モンスター】
【条件:接触/意思の提示】
【代価:精神負荷】
「……な、に……?」
文字はスマホの画面でも、看板でもない。空中に浮かぶ、透明なUIみたいなもの。
ゲームの表示。いや、現実がゲームみたいに見えている。
そして、頭の奥に“声”が響いた。
《起動確認》
《固有能力:万象契約》
《世界の万象と結び、従え、進化させる》
――能力。
異界門が現れてから、人間には稀に“能力者”が生まれると聞く。
だがそれはテレビの中の話だった。
(俺が……? 今?)
スライムが迫る。
小学生の女の子が泣く。
考える暇はない。
零夜は、半歩前へ出た。
――怖い。
――でも、ここで逃げたら、あの子が死ぬ。
拳が震える。喉が乾く。
それでも、零夜は叫んだ。
「……俺と、来い!」
瞬間、胸の奥が熱を持った。
心臓が、ぎゅっと握り潰されるみたいに痛い。
光が弾けた。
青いスライムの体に、白い紋様が走る。
首輪のような輪が一瞬浮かび、すぐに消えた。
スライムは跳ねるのをやめ、地面に落ちて――ぷるん、と揺れたまま、静止した。
数秒の沈黙。
零夜の耳に、はっきりとした声が届いた。
「――契約、完了」
声は、幼い少年のようにも、無機質な機械のようにも聞こえた。
スライムの体が変形し、前面に小さな“口”のような割れ目ができる。
「マスター。よろしく」
「……は?」
零夜は固まった。
喋った。スライムが。普通に。
女の子の泣き声が止まっている。
視界の隅にまた、透明なUIが浮かぶ。
【仲間登録】
名称:スラル
種族:スライム
ランク:E
特性:粘体
技能:体当たり(タックル)/分裂(スプリット:未解放)
進化条件:討伐経験/魔力吸収/核形成
(スラル……? 名前も勝手に……?)
零夜が呆然としていると、スラルはぷるん、と体を揺らし、女の子の前に移動した。
そのまま、盾みたいに彼女の前に立つ。
「……守る。マスターの意志」
零夜の背筋に、鳥肌が走った。
(守る……?)
最弱モンスターが、守ると言った。
それが不思議で、でも――妙に頼もしい。
遠くでサイレンが鳴った。
街のどこかでも異界門が開いたのだろう。今やそれは日常の一部だ。
だが、この交差点の空に開いた裂け目は、まだ閉じていない。
黒いひび割れの向こう側で、何かがうごめく影が見えた。
「……まだ、来るのかよ」
零夜が呟くと、スラルがぷるん、と震えた。
「多数。危険。
マスター、戦う?」
戦う?
俺が? この、わけのわからない力で?
零夜は、転んでいる女の子を見た。
恐怖で涙を溜めながらも、必死に立ち上がろうとしている。
守らなきゃ。
ここで逃げたら、また同じだ。何も変わらない。
零夜は深呼吸をして、腹の底から言った。
「戦う。……いや、守る」
言葉にした瞬間、胸の痛みが少しだけ軽くなった。
代わりに、頭の奥が“カチッ”と噛み合う感覚がする。
スラルが短く答える。
「了解」
異界門から、今度は二匹、三匹とスライムが落ちてきた。
青だけではない。赤いスライム、黒いスライム。
色が違うだけで、どこか禍々しい。
そのうちの一匹が、べちゃり、と路面に広がり、刃物のように体を尖らせた。
(スライムって、こんな攻撃的だっけ……!?)
零夜の足がすくむ。
だがスラルは一歩も引かなかった。いや、“一跳ね”も引かなかった。
「スラル……行けるか?」
「行ける。
マスター、命令」
命令。
零夜は唾を飲み込み、言葉を選ぶ暇もなく叫ぶ。
「――あいつらを、止めろ!」
スラルの体が膨らんだ。
次の瞬間、弾丸のように跳ね――敵スライムの中心に突っ込む。
ぼふっ!
粘体同士が衝突し、敵スライムが弾けるように転がった。
赤いスライムが反撃しようと尖った体を突き出すが、スラルは体を変形させて受け止める。
「痛く……ないのかよ」
「痛い。
でも、守る」
淡々と言うスラル。
零夜の胸が、ちくり、と刺された。
(……こいつ、ただの雑魚じゃない)
スラルが敵を押さえている間に、零夜は女の子の手を掴んで立たせた。
「走れる? 大丈夫?」
「う、うん……!」
「じゃあ、向こうの歩道まで!」
女の子を安全な場所へ送り出し、零夜は交差点に戻った。
スラルが敵三匹を相手に粘体を伸ばし、絡め取り、動きを止めている。
(俺は、何をすればいい……?)
戦えと言われても、素手でモンスターに殴りかかれるほど無謀じゃない。
だが、スラルだけに任せるのも違う。
そのとき、視界に別の表示が浮かぶ。
【契約補助:支配/説得/理解】
【対象の“核”に干渉可能】
【提示:意思/対価:精神負荷】
(核に……干渉?)
零夜は敵スライムを見た。
ただ襲うだけの目をしている。意思は薄い。だが、完全な機械ではない。
(なら――)
零夜は一歩踏み出し、敵スライムに手を伸ばした。
怖い。だが、手を引っ込めたら終わる。
指先が、べちゃり、と粘体に触れる。
途端に、頭の中に濁流みたいな感情が流れ込んだ。
――飢え。
――不安。
――本能。
――ただ、食べたい。
――ただ、生きたい。
「……お前らも、生きたいだけかよ」
零夜が呟くと、敵スライムがビクンと震えた。
零夜は目を見開く。
理解した。
こいつらは“悪”じゃない。ただの“異物”だ。
生きる場所を求めて、ここに落ちてきただけ。
(じゃあ、俺が……)
零夜は、強く意志を込めた。
「俺の下に来い。
生きるなら、ここで殺されるより、俺と一緒に生きろ」
胸が、裂けるように痛い。
精神が削られる感覚。視界が白く霞む。
だが、表示が走った。
【契約成立:失敗】
【理由:対象の抵抗】
【補足:対象は“群れ”の核に従属】
「……群れの核?」
零夜が歯を食いしばると、異界門の向こうから、ひときわ濃い影が落ちてきた。
黒いスライム。
他の個体より大きい。体内に赤い光――核が見える。
(ボス……!)
黒いスライムが路面に落ちた瞬間、周囲のスライムが一斉に零夜へ向き直った。
まるで、命令を受けたみたいに。
黒スライムが、笑うように体を歪ませた。
「――ぐ、ぎゅ……」
言葉にならない声。
だが意思は強い。敵意が濃い。
スラルが零夜の前に跳ね戻り、盾になる。
「マスター、危険。
あれ、核強い」
「……あいつを倒せば、他も止まるのか?」
「止まる。
でも――強い」
零夜は拳を握った。
震えは止まらない。
それでも、ここで引いたら、この力を持った意味がない。
黒スライムが跳ねる。
今度は弾丸じゃない。
槍みたいに尖った粘体が、一直線に零夜を貫こうとする。
「スラル!」
「――!」
スラルが体を広げ、壁になる。
槍が刺さり、粘体が裂ける。
スラルの体がぶるぶる震えた。
「痛い……!」
初めて聞いた、明確な苦痛の声。
零夜の目が熱くなる。
「……やめろ、俺のせいで……!」
その瞬間、零夜の中で何かが切れた。
怖い?
痛い?
そんなの、当たり前だ。
でも――守るって言ったのは俺だ。
零夜は走った。
黒スライムの核へ、真っ直ぐに手を伸ばす。
「俺の仲間を傷つけるな!」
指先が、核の熱に触れた。
世界が、止まった。
黒い粘体の向こう側に、赤い光の心臓。
そこへ、零夜の意志が刺さる。
《支配》
《発動》
頭が割れる。
視界が回る。吐き気がこみ上げる。
だが零夜は叫んだ。
「――俺と契約しろ!」
赤い核が、脈打った。
黒スライムが痙攣する。
抵抗の感情が、濁流のようにぶつかってくる。
――嫌だ。
――従いたくない。
――支配されたくない。
――生きたい。
――強くありたい。
「生きたいなら――俺の下で生きろ!」
零夜は押し込んだ。
意志を。
“守る”という誓いを。
そして――
【契約成立】
名称:――未命名
種族:核持ちスライム
ランク:D
特性:群体支配
表示が走り、黒スライムの体から敵意が抜け落ちる。
黒スライムはぷるん、と揺れ、静かに頭を垂れた。
「……マスター……」
今度は、低く、重い声だった。
群れを支配していた核が、零夜に従ったのだ。
周囲のスライムたちが、ぴたりと止まる。
襲撃の意思が霧散していく。
零夜は膝をついた。
吐き気がする。頭が痛い。世界が遠い。
それでも、零夜は振り返った。
「スラル……!」
スラルは裂けた体を必死に保ち、零夜を見ていた。
その目は、どこか誇らしげだった。
「マスター……勝った」
「……ああ。勝った」
零夜は笑おうとして、顔が引きつった。
それでも、確かに言えた。
勝った。
最弱から始まった、最初の戦い。
遠くでヘリの音がする。
拡声器の声が響いた。
『こちら統制局! 現場の能力者は武装解除し、両手を上げてその場に留まれ!』
統制局。
異界門対策の国家組織。
能力者を管理し、時に拘束する存在。
(……来た、か)
零夜は立ち上がろうとして、ふらついた。
契約したばかりの黒スライム――未命名の個体が、静かに零夜の横に移動する。
「命令……待つ」
スラルも、裂けた体を寄せ、盾の位置に立つ。
零夜は、空を見上げた。
異界門は、まだ閉じていない。
ひび割れた空の向こうに、もっと恐ろしい“何か”がいる気がした。
そして、零夜の視界に、見たことのない表示が浮かぶ。
【警告】
【あなたは“救世主候補”として認定された】
【観測者:神格反応あり】
【次の契約対象:――“魔人”】
「……魔人?」
零夜が呟いた瞬間、背中に冷たい視線を感じた。
振り返ると、ビルの屋上の縁に、誰かが立っていた。
人影。
だが、影が妙に“濃い”。
夜の切れ端を貼り付けたような輪郭。
その人物が、笑った。
「へぇ……やっと出たか。
《万象契約》。
面白いね、人間」
声は軽いのに、存在は重い。
息をするだけで、空気が削られていくような圧。
零夜は理解した。
――こいつが、魔人。
統制局の拡声器の声が再び響く。
『繰り返す! 現場の能力者は――』
だが零夜の耳には、もう届かなかった。
屋上の魔人が、指を鳴らす。
パチン。
その音だけで、ひび割れた空がさらに軋んだ。
「救世主くん。
最初の契約、おめでとう。
次は――僕と遊ぼうか」
零夜の喉が鳴る。
恐怖で。
でも、その恐怖の奥で、確かに燃えるものがあった。
――守る。
――従える。
――進化させる。
零夜は拳を握り、スラルを見た。
「……行けるか」
スラルは、裂けた体をぷるん、と震わせる。
「行ける。
マスターと一緒」
零夜は、屋上の魔人を睨んだ。
「……来いよ」
最弱から始まった契約は、
もう、世界を巻き込む歯車を回し始めていた。




