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契約夫婦、演じる条件(紗月)
応接間の空気は、静かで、でもどこか張り詰めていた。
母がファイルを開いて、蒼真に説明を始める。
わたしは、その隣で黙って座っていた。
「この旅行は、ただの観光じゃないのよ」
母の言葉に、蒼真が少しだけ眉をひそめる。
――そう。これは“契約”なの。
ただの思い出作りじゃない。ただの逃避でもない。
「夫婦限定のサービスが含まれているの」
「イベントって、何をするんですか?」
「カップルディナー、記念撮影、愛の誓いセレモニーなど」
その言葉を聞いた瞬間、わたしは思わず蒼真の顔を見た。
蒼真は、真剣な表情で契約書を見つめていた。
(……本当に、“夫婦のふり”をするんだ)
「……俺と紗月が“夫婦のふり”をしないと、契約違反になるってことですか?」
「そういうこと」
母の言葉に、わたしは小さくうなずいた。
それが、現実だった。
「……わかりました。ちゃんと演じます」
蒼真のその一言に、わたしは胸が少しだけ熱くなった。
――ありがとう。
――でも、ごめんね。
こんな“仮装のような関係”をお願いしてしまって。
でも、蒼真が隣にいてくれるなら、わたしは――
少しだけ、強くなれる気がした。