“キス”って、いつするものなんですか?(紗月)
朝、ホテルのレストランで朝食をとっていた。
窓の外には、穏やかな海。
昨日の水族館デートの余韻が、まだ胸の奥に残っている。
「紗月、パン取ろうか?」
「うん、ありがとう……彼氏くん」
「……っ」
蒼真が、パンを持ったまま固まった。
「……今、なんて言った?」
「彼氏くん」
「……やめろ、そういうの」
「だって彼氏でしょ? 」
「……いや、そうだけど……」
蒼真は、耳まで真っ赤になっていた。
やっぱりかわいい。
「じゃあ、“蒼真くん”って呼ぼうか?」
「それも照れる」
「ふふ。じゃあ、“ダーリン”?」
「やめろ、やめろ、やめろ」
笑いながら、パンを受け取る。
そのやりとりが、昨日までとは違って感じた。
……恋人って、こういうことなんだ。
ちょっとした言葉で照れたり、笑ったり。
それが、すごく幸せに思える。
午後のカフェテラス。
海が見える席で、蒼真と並んで座っていた。
風が心地よくて、アイスティーのグラスがカランと鳴る。
……“彼氏”、もう慣れてきたかも。
でも、次の言葉が、まだ口にできない。
“キス”——
恋人になったら、いつかするもの。
そう思っていたけど、いざその瞬間が近づくと、どうしていいかわからなくなる。
「紗月、ケーキ食べる?」
「うん。……あーんしてくれる?」
「……えっ」
蒼真が固まる。
「冗談だよ。自分で食べる」
「……びっくりした」
「ふふ。でも、ちょっとやってみたかったかも」
「……俺も、ちょっとだけ」
その言葉に、胸が跳ねた。
……じゃあ、“キス”も、ちょっとだけ……?
でも、言えない。
「ねえ、蒼真」
「ん?」
「“キス”って、いつするものなんだろうね」
蒼真は、グラスを持ったまま、少しだけ考えて——
「……したくなったとき、じゃない?」
その答えに、顔が熱くなる。
……今、ちょっとだけ、したくなってる。
でも、言えない。
私は、そっとグラスに口をつけた。
その冷たさが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「ねえ、蒼真」
「ん?」
「今日も、どこか行こうね。……ダーリン」
「……もう、好きに呼べよ」
そう言いながらも、蒼真は笑っていた。
その笑顔が、昨日よりもずっと柔らかくて、あたたかかった。




