応接間と“ごっこ”の始まり(紗月)
応接間の空気は、いつもより少しだけ重かった。
母が紅茶を淹れ、父は黙って新聞を読んでいる。
でも、今日の主役は、わたしでも、両親でもない。
――蒼真だった。
彼がソファに座る姿を見ながら、わたしは胸の奥がざわついていた。
制服のまま、姿勢を正して座っている彼は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「……紗月から、話は聞いてるかしら?」
母の声に、彼はうなずいた。
「婚約が……破談になったって」
その言葉を聞いて、わたしは少しだけ目を伏せた。
――本当に、終わったんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がまた空っぽになった気がした。
「それで、お願いがあるの」
母が切り出したとき、わたしは息を飲んだ。
この瞬間が、怖かった。
でも、同時に、期待していた。
「ハネムーンが、キャンセルできないの」
蒼真の目が、少しだけ見開かれた。
その反応に、わたしは心の中で謝った。
――ごめんね。こんなお願い、普通じゃないよね。
「それで、代わりに誰かと行ってもらえないかと考えたの」
母の言葉に、わたしはそっと蒼真の顔を見た。
彼は、黙ってわたしを見返していた。
「……仮装のような関係でもいいの。舞台裏の本音でもいい。だから、お願い」
自分の声が、少しだけ震えているのがわかった。
でも、止められなかった。
――本当は、怖かった。
彼に断られるのが。
彼に、引かれるのが。
彼に、もう“幼馴染”として見てもらえなくなるのが。
でも、彼は言った。
「……わかりました。行きます」
その瞬間、わたしは――
ほんの少しだけ、笑ってしまった。
涙が出そうだったけど、笑った。
それが、わたしの精一杯の「ありがとう」だった。