応接間と“ごっこ”の始まり(蒼真)
「青葉くん、少しお時間をいただけるかしら?」
そう言われたとき、俺はまだ何も知らなかった。
ただ、隣の家の応接間に呼ばれただけ――のはずだった。
桐島家の応接間は、いつも静かで、どこか緊張感がある。
俺は、革張りのソファに座りながら、目の前の紅茶に手を伸ばすこともできずにいた。
「突然呼び出してしまって、申し訳ないわね」
紗月の母――桐島美鈴さんは、いつも通り上品だった。
その隣で、紗月は黙って座っていた。
制服姿のまま、少しだけ目を伏せている。
「……紗月から、話は聞いてるかしら?」
「婚約が……破談になったって」
「ええ。正式に、取り消しになったわ」
俺は、何と言えばいいのかわからなかった。
“家族みたいな存在”だと思っていたけど、今はそれ以上に、彼女の表情が気になっていた。
「それで、お願いがあるの」
美鈴さんが、少しだけ身を乗り出した。
「ハネムーンが、キャンセルできないの」
「……は?」
「航空券はファーストクラス、ホテルは夫婦限定のスイート。すべて予約済みなの。キャンセルには、契約上の制約があって、全額負担になるのよ」
「全額って……いくらぐらいなんですか」
「ざっと五百万円ほど」
「……高っ」
思わず口に出た。
でも、それだけの金額なら、“もったいない”って思うのも無理はない。
「それで、代わりに誰かと行ってもらえないかと考えたの。もちろん、信頼できる人でなければならない」
「……それで、俺?」
「ええ。青葉くんなら、紗月も安心できるし、わたしたちも信頼しているわ」
俺は、紗月の方を見た。
彼女は、少しだけ顔を上げて、俺を見返した。
「……仮装のような関係でもいいの。舞台裏の本音でもいい。だから、お願い」
その声は、震えていた。
俺は、紅茶に手を伸ばして、一口飲んだ。
――苦い。
でも、断る理由はなかった。
「……わかりました。行きます」
その瞬間、紗月が、ほんの少しだけ笑った気がした。