婚約破棄と、隣の部屋の距離(蒼真)
「桐島紗月が婚約した。」
……そう思っていたのに、数日後、破談になったという話が聞こえてきた。
週刊誌のスキャンダルだとか、家の事情だとか、詳しいことはわからない。
でも、紗月の表情を見れば、それが本当だってことくらい、すぐにわかった。
あれから数日。紗月はいつも通り、隣の家にいて、いつも通り、俺の部屋の窓から顔を出す。
「蒼真、今日の課題やった?」
「やったけど。見せる義理はないだろ」
「ケチ」
そんなやり取りも、昔から変わらない。
でも、俺の中では、何かが変わってしまった気がしていた。
婚約して、破談になって。
紗月の人生は、きっと大きく揺れたはずなのに、彼女はそれを感じさせない。
それが、逆に怖かった。
「……顔合わせって、どんな感じだったんだ?」
「え?」
「いや、別に。俺、そういうの知らないし、参考までに」
「うーん……両家の人が集まって、食事して、形式的な挨拶して……って感じ?」
「ふーん。緊張するもんなの?」
「……するよ。だって、相手のこと、何も知らないんだもん」
紗月は、少しだけ目を伏せた。その横顔が、いつもよりずっと遠くに見えた。
「……怖かった?」
「ちょっとだけ。……でも、仕方ないよね。そういう家に生まれたんだから」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
紗月が“仕方ない”って言うときは、だいたい本音じゃない。
「……昔さ、紗月が“お嫁さんになる”って言ってたの、覚えてる?」
「え? ああ……うん。覚えてるよ」
「そのとき、わたし、本気だったんだよ」
「……は?」
「子供だったけど、あなたと一緒にいられるなら、どんな未来でもいいって思ってた」
紗月は、そう言って笑った。
でも、その笑顔は、どこか寂しげだった。
俺は、何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で引っかかって、出てこなかった。
紗月は、窓から身を引いて、庭を歩いて帰っていった。
その背中を見ながら、俺は思った。
――俺は、紗月のことを、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。