許嫁”だった彼女と、今の僕(紗月)
「紗月の“許嫁”のこと、蒼真くん、昔から知ってたよね?」
真理の言葉に、わたしは一瞬だけ息を止めた。
蒼真が席に戻ってきたばかりだった。
彼の表情は、静かに揺れていた。
わたしと彼の間では、もうとっくに共有されていたこと。
でも、第三者の口から改めて言われると、胸の奥が少しざわついた。
「高校の頃、紗月、ずっとそのことで悩んでたんだよ。誰にも言わなかったけど、わたしだけには少し話してくれてて」
真理の声は優しかった。
でも、その優しさの奥に、鋭さが混ざっていた。
まるで、わたしの仮面をそっと剥がすように。
蒼真は、わたしの顔を見ていた。
その視線が、責めるでもなく、ただ静かに受け止めようとしているのがわかった。
彼は、わたしが言葉を選ぶ時間を、黙って待ってくれていた。
「……破談になったの。いろいろあって。だから、代わりに蒼真に来てもらってる」
言葉にするのは、思ったよりも難しかった。
でも、言ってしまえば、少しだけ楽になった。
蒼真の声が、静かに響いた。
「俺、何もできなかったけど……今こうして一緒に来られて、よかったと思ってる」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
わたしの事情を知って、それでも隣にいてくれる。
それだけで、少し救われた気がした。
真理が、少しだけいたずらっぽく笑って言った。
「ねえ、せっかくだし、あとで写真撮ろうよ。新婚旅行っぽく」
「……それって、わたしたちも?」
「もちろん。今の空気、完全に“夫婦”だよ」
蒼真が、少し照れたように笑った。
わたしは、ちらりと彼の顔を見た。
その目が、少しだけ揺れていた。
「……じゃあ、撮るとき、名前で呼んでみて」
「名前で?」
「うん。いつもみたいに、“紗月”って。……なんか、今はそれが嬉しい気がする」
彼は一瞬、目を見開いて——
それから、ゆっくりと、わたしの名前を口にした。
「……紗月」
その声が、昔と少し違って聞こえた。
優しさの中に、何か確かなものが混ざっていた。
……名前で呼ばれるのなんて、ずっと前からだった。
でも、今の“紗月”は、少し違う。
その違いに気づいたとき、胸の奥に静かに灯がともった。
それは、絵空事だったはずの“恋人役”が、少しずつ本物に近づいていくような感覚だった。




