“許嫁”だった彼女と、今の僕(蒼真)
カフェの席に戻ると、紗月と真理がちょうど何か話していた。
二人とも、少しだけ真剣な顔をしていて、俺は思わず足を止めた。
「……あ、ごめん。邪魔した?」
「ううん。ちょうど話が終わったところ」
紗月はそう言って笑ったけど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
真理は俺の顔を見てから、少しだけ間を置いて、静かに言った。
「蒼真くん、紗月の“許嫁”のこと、昔から知ってたよね?」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。
もちろん知っていた。高校の頃から。
でも、あの話題は、ずっと触れてはいけないもののように思えていた。
「……うん。知ってた。でも、あの頃は……どうしていいかわからなかった」
「紗月、ずっとそのことで悩んでたんだよ。誰にも言わなかったけど、わたしだけには少し話してくれてて」
紗月は、何も言わずに俯いていた。
その横顔が、いつもよりずっと遠くに見えた。
俺は、言葉を探しながら、彼女の沈黙を受け止めようとしていた。
「……俺、何もできなかったけど……今こうして一緒に来られて、よかったと思ってる」
紗月は、少しだけ驚いた顔をして——
それから、静かに笑った。
その笑顔は、昨日よりもずっと深くて、
俺たちの“舞台の上の恋人役”が、少しずつ“本物”に近づいている気がした。
真理は、少しだけいたずらっぽく笑って言った。
「ねえ、せっかくだし、あとで写真撮ろうよ。新婚旅行っぽく」
「えっ、俺たちも?」
「もちろん。今の空気、完全に“夫婦”だよ」
紗月が、ちらりと俺の方を見た。
その目が、少しだけ揺れていた。
「……じゃあ、撮るとき、名前で呼んでみて」
「名前で?」
「うん。いつもみたいに、“紗月”って。……なんか、今はそれが嬉しい気がする」
その言葉に、心臓が跳ねた。
たしかに、俺は彼女の名前を呼ぶことに慣れていたけど——
今は、その一言に、特別な意味が宿る気がした。
「……わかった。じゃあ、ちゃんと呼ぶよ」
「今?」
「うん。……紗月」
彼女は一瞬、目を見開いて——
それから、ふわっと笑った。
「……うん。いい感じ」
その笑顔が、潮風よりもずっとあたたかくて、胸の奥に静かに灯をともした。
……“ふり”のはずなのに、今の俺は本気で隣にいたいと思ってる。




