婚約破棄と、隣の部屋の距離(紗月)
「婚約者の家に、問題があるらしい」
父のその言葉を聞いた瞬間、頭の中が一瞬だけ真っ白になった。
“問題”って、何?
どういう意味?
でも、空気の変化だけは、すぐにわかった。
応接間に漂う静けさが、妙に重い。
母は黙って紅茶を口に運び、私は何も言えずに座っていた。
「紗月、少し話がある」
父の声は、いつもより低く、硬かった。
私は背筋を伸ばして、静かにうなずいた。
「相手の家に、スキャンダルが出た。週刊誌が動いている。……内容は、かなり深刻だ」
「……それって、婚約に影響があるの?」
「ある。大きくある。……正式な連絡は、明日来るだろう」
“婚約”という言葉は、私の人生の予定表の中で、いちばん太く、濃く書かれていた。
それが、今まさに消えようとしている。いや、もう消えかけている。
「……どうして、今なの?」
気づいたら、そう口にしていた。
自分でも驚くほど、素直な声だった。
「わからない。だが、これも現実だ」
母は何も言わず、私の手をそっと握った。
「紗月。あなたの人生は、これからよ」
その言葉が、少しだけ胸に響いた。
でも、頭の中はまだ混乱していた。
部屋に戻って、予定表を見た。
式の日付、顔合わせ、旅行の出発日。
全部、赤いペンで書かれていた。
その中で、ひとつだけ、まだ消えていない予定があった。
――ハネムーン。
式は中止でも、旅行はキャンセルできない。
高級リゾート、ファーストクラス、夫婦限定プラン。
それだけが、ぽつんと残っていた。
私は、窓の外を見た。隣の家の、あの部屋の窓を。
――蒼真なら、行ってくれるだろうか。