スーツケースと仮の覚悟(紗月)
「これは、ただの“借り物の関係”だから」
そう言い聞かせながら、わたしはスーツケースに服を詰めていた。
クローゼットの中には、母が用意してくれたリゾート用のワンピースや、サンダル、帽子。
本来なら、婚約者と行くはずだった旅のために選ばれたものたち。
でも、今は違う。
その隣にあるのは、蒼真の名前が書かれた航空券。
「……ほんと、どうかしてる」
自分で言って、自分で苦笑する。
でも、ほかに選択肢はなかった。
あのとき、応接間で両親が「誰か信頼できる人はいないか」と言ったとき、
真っ先に思い浮かんだのは、蒼真だった。
昔から、わたしのことを特別扱いしなかった。
“名家の娘”でも、“婚約者候補”でもなく、ただの“紗月”として見てくれた。
だからこそ、頼りたかった。
でも、同時に、頼るのが怖かった。
「……断られるかもって、思ってたのに」
あっさり「行くよ」と言った蒼真の顔が、頭に浮かぶ。
あのとき、少しだけ泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
これは“仮装のような関係”だから。ふりをするだけだから。
――本気になったら、終わり。
わたしは、スーツケースの中に、白いワンピースをそっと入れた。
それは、母が「ハネムーンにはこれがいいわよ」と言って選んでくれたもの。
着るつもりはなかった。
でも、なぜか、手が止まらなかった。
「……どうせ“一時的な役割”なんだから、いいよね」
そうつぶやいて、わたしはワンピースをたたんだ。
これは、仮の旅。
仮の夫婦。仮の関係。
でも、心のどこかで、
“本物になってしまいそうな自分”がいることに、わたしは気づいていた。




