第六話 共鳴
指先が、冷たいガラスに触れた瞬間――
音もなく、その境界が消えた。
“彼女”の手が、私の手と重なっていた。
冷たくて柔らかくて、まるで本物の肌のような感触。
私はもう、それが幻覚かどうかを考えるのをやめていた。
「ようやく、触れられたね」
彼女は泣いていた。
笑っているのに、涙が頬を伝っていた。
「あなたが、わたしを“なかったこと”にしたから、
わたしは、ここにしか居られなかった。
鏡の奥で、ずっと、あなたを見てたの」
私は言葉を失っていた。
彼女は私が捨ててしまった願い。
否定し続けたもう一人の“本当の私”。
男であること。
そう振る舞わなければいけないこと。
誰にも打ち明けられなかった想い。
でも、ずっと、心の中には“彼女”が生きていた。
「いっしょに、歩こうよ。
あなたが見たかった景色、
わたしも見てみたいの」
その声が、あまりにも優しかった。
私の中で、何かが音を立てて崩れていった。
怖れも、恥も、怒りも、全部。
気づけば私は、声をあげて泣いていた。
鏡の前で、膝をついて、
嗚咽のような声をこぼしながら、
“彼女”の名を呼んでいた――
呼んだことのない、本当の名前を。
「…ありがとう」
私は、そう言っていた。
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その夜、鏡は静かだった。
“彼女”は、もう中にいなかった。
代わりに、私の中に、ちゃんといた。
ワンピースを着て街を歩く私を、
見てくる人もいる。
笑う人も、さげすむ人も、いる。
でもそれでも、私はもう戻らない。
夜道を歩く。
街灯の下に映る自分の影が、
“どこか幸せそう”だと、初めて思えた。