第五話 境界
その夜、鏡に手を伸ばされてから、私は鏡を布で覆った。
誰にも見せたくないものを隠すように、部屋の隅に追いやった。
けれど、それで終わるはずもなかった。
朝起きると、布は床に落ちていた。
姿見は、いつも通りそこに立っていた。
そして、私の隣には――見覚えのない白いワンピースが、畳んで置かれていた。
「夢…だったんだろうか」
そう言葉にしてみても、喉の奥でひび割れて消える。
部屋の空気が重い。
誰かがもう一人、この空間に棲んでいるような気配。
私はもう一度、カウンセラーのもとを訪れた。
彼女は静かに話を聞いてくれた。
「あなたは、自分の“本当の声”を、長い間しまい込んできたんですね」
「それが、外に出ようとしている…と感じている?」
「鏡の中の“彼女”は、あなた自身かもしれないわ」
「でも、彼女は、私を押しのけようとしてるんです。
“私”を、もういらないって顔で見るんです」
カウンセラーは少しだけ考えてから、言った。
「押しのけようとしているのではなくて――
あなたが“その存在”を恐れすぎて、
排除しようとしているのかもしれませんね」
その言葉が、妙に引っかかった。
夜、帰宅して電気をつけると、姿見はいつのまにか部屋の中央に移動していた。
そんなはずはない。自分では動かしていない。
なのに、今そこにいる。私の正面に。
私は震える手で、再びその鏡を見た。
鏡の中の“私”は、じっと私を見つめていた。
白いワンピースを着て、微笑んでいる。
でも、今夜の彼女は、泣いていた。
「わたしは、あなたに消されたくなかっただけ…」
そう、唇が動いていた。
「いっしょに、生きられたら、それでよかったのに」
私は鏡に近づいた。
もう、逃げても無意味だと知っていた。
この“もうひとりの私”は、ずっと私のなかにいた。
捨てたつもりだった。
けれど、捨てきれなかった。
むしろ…会いたかったのかもしれない。
私は、そっと鏡に手を伸ばした。
“彼女”も、同じように、鏡の中から手を差し伸べていた。
そして――