第四話 交換条件
「わたしと、入れ替わってくれない?」
その声が、どこから聞こえたのか思い出せない。
ただ、朝起きたとき、鏡の前に立っていた“自分”の顔が少しだけ違っていた。
唇の形、まぶたの厚み、首の傾げ方――
全部、自分のはずなのに、自分じゃないような。
朝食を食べても、味がしなかった。
おかゆのように、記憶がゆるく流れていく。
昨日食べたものを思い出せない。
食器が、いつのまにか二人分洗ってある。
夜、また鏡の前に立った。
“彼女”がいた。
白いワンピースに、素足。髪は肩まで。
私は話しかける。
「君は、誰なの?」
鏡の中の“わたし”は笑った。
「わたしは、あなたよ。ずっと昔、なりたかった“あなた”。
でも閉じ込められたまま、ここでずっと待ってたの。」
私は目をそらす。
そんなはずない、と思いたかった。
でも、あの頃を思い出す。
思春期、夜中にひっそりと服を着替えていたこと。
誰にも言えなかった願い。
男として生まれた体に、違和感を抱えていた日々。
「ねえ。あなた、もう限界なんでしょう?」
その一言が、心の奥に突き刺さる。
誰にも言えなかった。
毎日、仕事に疲れて。誰かに“こうあるべき”と押しつけられて。
もう、自分が誰だったか、わからなくなっていた。
「だから、交換しよう? あなたはわたしになって、
わたしは、あなたの外の世界を生きてあげる。」
それは誘惑だった。
甘くて、怖い、救いのような毒だった。
私は、頷きかけた。
そのとき、鏡の中の“彼女”の首が、不自然に傾いた。
「ね? ねえ…どうして、まだ迷うの?
わたしたち、もう区別なんて、つかないじゃない…」
次の瞬間、鏡の表面に、白い手が浮かび上がった。
こちら側に伸びてきた――