第三話 姿見
引っ越してくる前から使っていた姿見を、私は寝室の隅に立てかけていた。
縁が少し欠けていて、角度によって歪んで見える。
でも、不思議と手放せなかった。なぜか、それだけが「本当の自分」を写してくれる気がしていた。
ある朝、洗面所で顔を洗ったあと、ふと鏡を見た。
自分の目元が、少しだけ、柔らかくなっている気がした。
睫毛が長くなった気がした。肌が白くなった気がした。
いや、そんなわけない。そんな都合よく人は変わらない。
私は、目をそらした。
夜。
寝る前に、寝室の姿見を何気なく覗いたときだった。
――鏡の中の“私”が、一瞬だけ、笑った。
私は笑っていない。動いていない。
けれど、鏡の中の私は、ほんのわずかに口角を上げた。
その顔は、どこか女の子のようだった。
「…会えたね」
かすかに、唇がそう動いた。
私は立ちすくんだ。足が動かない。
喉が渇く。鼓動がうるさい。
けれど、その“私”の目は、どこか懐かしいものを宿していた。
懐かしい、でも、思い出せない。
まるで、かつて確かに「自分だったもの」が、そこにいるような。
「私はね、ここに閉じ込められてたの」
そう呟いたのは、夢だったのか、現実だったのか。
私は気がつけば、朝まで鏡の前に座っていた。
そして気づいた。
鏡の前に置いたはずの自分のスリッパが、片方だけ、鏡の中に映っていなかった。