第一話 鍵の音と白いワンピース
『もうひとりの、わたしへ』
第一話 鍵の音と白いワンピース
引っ越してきたのは、都心から少し離れた、くたびれた住宅街の外れにぽつんと建っている古びた一軒家だった。
築六十年。雨戸は一部壊れていたし、玄関の鍵はぎしぎしと不穏な音を立てる。でも、私はすぐに決めた。
家賃は、月二万円。安すぎる。それだけで飛びつく理由にはなる。
「ここから、始めようと思うの。ほんとの私を」
誰に話しかけるわけでもない。でも口に出さずにはいられなかった。
私は男として生きてきた。ずっと。周りに合わせて、家族に合わせて、生きるために。
けれどこの家でなら――私は、私のままでいられる気がした。
いや、そんな幻想にすがりたかっただけかもしれない。
最初の夜。
布団に入って目を閉じた瞬間、スッと現実が溶けた。
夢の中、私は女の子だった。
白いワンピース。細い手。首筋まで風が通るような、あの軽さ。
縁側に座って、ぼんやりと庭を眺めていた。
夏の空気。咲きすぎたアジサイ。湿った風が頬をなでて、私は少し笑った。
それが、自分の夢だという確信はなかった。
なぜなら、その“彼女”は――私の知らない感情を知っていた。
喉の奥に詰まった言葉。言えなかった何か。
私は、それをただ見ているだけだった。
翌朝、鏡の前に立った。
寝癖のついた髪。むくんだ顔。それはいつもの“男の自分”だった。
…けれど、どこか違う気がした。目元。雰囲気。わからない。でも、違和感だけが残った。
それから数日間、私は毎晩、同じ夢を見た。
彼女は、笑ったり、泣いたりしていた。
どこかで見た気がする部屋。どこかで聞いた気がする声。
記憶の中にあるはずのない映像が、私の心の中を満たしていく。
そして、五日目の夜。
夢の中の“彼女”は、私の方を向いてこう言った。
「ねえ。私と入れ替わってもいいよ」
私は、声が出せなかった。
ただ、その白いワンピースが、風に揺れるのを見つめていた。