第三話「ヴォルフタール渓谷の戦い:その三」
統一暦一二一五年五月八日。
グライフトゥルム王国西部ヴォルフタール渓谷内。第一騎士団長ピエール・フォン・ホルクハイマー子爵
戦いが始まって三時間ほどが過ぎた。
しかし、ここは前線から三キロメートル以上離れているため、戦いの音は全く聞こえない。
時折、王国騎士団長のマンフレート・フォン・ホイジンガー伯爵から状況が伝えられるため、戦闘が起きていると分かるが、それがなければ野営地でのんびりと過ごしているように見えただろう。
前線では一進一退の攻防が続いていると報告があったが、実際のところはよく分かっていない。ただ時折運び込まれる負傷者や遺体は既に三百を数え、激戦が繰り広げられていることだけは分かっていた。
前線では激しく戦っているようだが、この野営地では特にすることはない。そのため、第一騎士団と貴族領軍の兵に緩みが見られた。
「敵が奇襲を掛けてくるかもしれぬ! 警戒は怠るな!」
周囲の警戒を部下たちに命じているが、私自身この険しい山を兵が移動できるとは思っていなかった。
(影でもなければ、この山は通れぬ。だが、万が一ということも考えられる。もっともここに敵が来るような状況なら、陛下をお守りすることは難しいのだが……)
そんなことを考えるが、実際第一騎士団の実力はないに等しい。
元々儀仗兵として見た目がよい貴族階級の若者で構成されていた。一時期、実力者を配属することがあったが、今残っている実力者はごく少数だ。役に立たないだろう。
その実力者たちだが、彼らは戦場で武勲を上げた騎士階級の者たちだ。
一応褒賞ということになっているが、マルクトホーフェン侯爵派に属さない騎士階級の者を排除するために第一騎士団に放り込み、貴族階級の者たちがいびり倒して辞めさせるのだ。
そのため、アレクサンダー・ハルフォーフのような一騎当千と呼ばれる実力者もいたが、帝国との戦いから七年近くたった今では数えるほどしか残っていない。
守るべき対象であるフォルクマーク十世陛下は天幕の中に篭り切りだ。
私としては士気を高めるために兵たちの間を回り、負傷者たちに声を掛けてほしいのだが、何かと理由を付けて外に出ようとされないのだ。
そろそろ陛下にお願いしようと思った時、遠くから喧騒のようなものが聞こえてきた。
「ひ、東から敵です! 物凄い勢いで敵が襲い掛かってきました!」
騎士の一人が慌てた様子で報告するが、要領を得ない。
「敵の規模は? こちらの防衛体制はどうなっておる?」
「わ、分かりません! 獣人らしいという声は聞こえましたが……」
「すぐにホイジンガー伯に連絡を入れろ!」
「連絡ですか? ど、どのように……」
パニックになっているのか、通信の魔導具のことを忘れているようだ。
「通信兵に伝えさせろ! 早くするのだ!」
それだけ命じると、詳しいことが分からないまま、陛下の天幕に飛び込む。
「敵襲でございます! すぐに退避を!」
「て、敵襲? どういうことだ!」
陛下はすぐに理解できず、聞き返してきた。しかし、ここでも喧騒の音は聞こえており、敵が攻め込んできたのだと気づかれたようだ。
「ど、どうすればよい、ピエール……」
不安そうな表情を向けられた。
その目は私が守役を務めていた幼少期に、先代陛下に叱られた時のものと同じに見えた。
「後方から敵が襲い掛かってきました! すぐに西へ、第四騎士団の方へお逃げください!」
挟み撃ちになるが、野営地にいるのは我が第一騎士団と貴族領軍であり、お守りすることは不可能だ。それならば、狭い街道の方に向かい、兵士たちの壁の中にいた方が安全だと判断したのだ。
陛下も私の意図を理解されたようだ。
「わ、分かった!」
陛下はそう言いながら、慌てて立ち上がられた。
天幕を出ようとした時、小姓の一人が陛下を呼び止める。
「剣をお忘れです、陛下!」
小姓は宝石が散りばめられた宝剣を掲げていた。
剣を忘れる陛下も陛下だが、このタイミングで呼び止める小姓も小姓だ。今はそのような時ではないことが分からないようだ。
「余が持っていても役に立たぬ。そなたが持ってまいれ!」
陛下はそれだけおっしゃると、天幕から出ていく。
私も天幕から出たが、既に戦闘の音はすぐ近くまで来ていた。
「お急ぎください! 敵は既にすぐそこまで来ております!」
私は焦りを含んだ声で急かす。
『国王を見つけたぞ! 餓狼兵団よ! 国王を討ち取れ!』
二、三十メートルほど離れた場所で敵兵が叫んでいる。
「陛下! お逃げください! ここは私が食い止めます!」
「ピエールよ! そなたも来るのだ!」
私はその声を無視して、思いつく限りの命令を発していく。
「陰供よ! 陛下をお連れしろ! 近衛の騎士たちよ! 今こそ力を発揮する時だ! 陛下をお守りする! 第一騎士団の猛者たちよ! ここで敵を食い止めるのだ!」
右往左往している騎士たちに向かって叫ぶ。
私の声に気づいた者が集まってくるが、不安そうな表情を隠そうともしていない。
「敵の数は少ない! ここで敵を止めれば、第四騎士団が敵を排除してくれる! 何としてでも時を稼ぐのだ!」
敵の数が少ないかは全く分かっていないし、連絡を入れたとはいえ、第四騎士団がすぐに戻ってくるかは分からないが、このくらい言わないと騎士たちが逃げ出しかねないと思ったのだ。
私の嘘が功を奏したのか、騎士たちの表情が少しだけよくなった。
しかし、その表情は元の不安げなものに戻ってしまう。
敵兵は凄腕の獣人族戦士らしく、我が騎士団の騎士や兵では一太刀も返すことができず、無残に殺されていくだけだからだ。
「ば、化け物だ! こんな奴らに敵うはずがない……」
怯えた騎士の一人が剣を捨てて蹲っている。マルクトホーフェン侯爵派の貴族の若造だった。
普段偉そうなことを言っていたが情けない奴だなと思ったが、今はそんなことを考えている時ではないと、声を張り上げる。
「今こそ陛下の盾として命を捨てる時だ! 奴らは命乞いしても助けてはくれぬ! 死にたくなければ、敵を倒せ!」
しかし、私の叫びは無駄だった。
「大物そうなジジイがいるぞ! 俺の獲物だ! 手を出すな!」
目をぎらつかせた虎人族の若い男が、両手剣を担いで近づいてくる。
「グライフトゥルム王国第一騎士団長ピエール・フォン・ホルクハイマー子爵だ! 陛下の下には誰一人行かせはせぬ!」
そう言いながら、剣を構える。
しかし、勇ましい言葉とは裏腹に陛下を守り抜くことはできないだろうと思っていた。
(ここで死ぬことになるのか……私自身は長く生きたし、分不相応な地位にも就けた。しかし、陛下をお守りできぬことは残念で仕方がない……少しでも時間を稼げれば重畳だな……)
私自身、武術の才能はなく、騎士団長という地位も陛下の守役であったからに過ぎない。
「団長様か! その首もらった!」
「下郎にやる首などない! もっと私に相応しい者を寄越せ!」
少しでも時間を稼ぐために挑発するが、あまり意味はなかった。
「俺で充分だぜ、死にぞこないのジジイにはよ。早くそこを通せよ」
虎人族の若者は舌なめずりをすると、無造作に踏み込んできた。私の実力が大したことがないと看破したのだろう。
「通さぬ!」
そう言って渾身の力で突きを放つが、あっさりと弾かれる。
「年寄りは大人しく家にいればよかったんだぜ!」
ニヤつきながら剣を無造作に振った。
左腕に強い衝撃を受け、首筋から血が噴き出しているのが見えた。
私には何が起きたのか分からなかったが、無意識のうちに剣を腕で受けようとしていたようだ。
「てめぇ! この死にぞこないが!」
一撃で殺せなかったことに怒りを覚えているようだ。
「陛下を、陛下をお守りせよ! 陛下を……」
声の限りに叫んでいたが、敵に首を刎ねられたのか、唐突に意識が遠のいた。
下に前作のリンクがあります。こちらもご興味があれば、よろしくお願いします。
また、地図や世界設定などを集めた設定集もありますので、興味のある方はご確認ください。
感想、レビュー、ブックマーク及び評価(広告下の【☆☆☆☆☆】)をいただけましたら幸いです。




