第三十七話「グラオザント会戦・決戦:その十二」
統一暦一二一六年十月七日。
シュッツェハーゲン王国西部グラオザント城外、イリス師団陣内。イリス・フォン・ラウシェンバッハ伯爵夫人
夜が明けた直後、ゾルダート帝国軍が捕虜交換を申し出てきた。
そのため一時休戦となり、激戦が続いた昨夜と打って変わって、今は戦場とは思えないほど静かだ。
帝国軍はこの時間を利用して水の確保に走り始めた。だけど、この程度のことのために捕虜交換を提案するとは思えない。
(このタイミングに捕虜交換ねぇ……絶対に策を仕込んでいるわ。兄様は工作員を疑ったようだけど、あの皇帝がそんな単純な策を使ってくるかしら……)
確かに工作員を送り込んで物資を焼くなり、食料に毒を仕込むなりすれば、混乱は起きるだろう。しかし、この状況であの皇帝がそんな陳腐な策を弄するとは思えなかった。
(恐らく防衛陣地から撤退するための時間稼ぎなのだろうけど、主力は私たちと共和国軍よ。我が軍の兵士なら私と兄様、ハルトがいれば混乱するようなことはないし、共和国軍ならそもそもその程度で動揺することはないわ。そうなると、何が目的なのか全く分からないわね……)
一応懸念は兄様に伝えてあるが、捕虜交換自体をやめるという選択肢がないことも理解している。
それに城の中に入れずに監視しておけば、工作員がいても問題は起きないという方針にも異論はなかった。
正午、捕虜交換が始まった。
武装解除した両軍の捕虜がグラオザント城の前に並んでいる。捕虜たちはいずれも応急処置を施されただけで治癒魔導は掛けられておらず、戦友の肩を借りて立っている者が多い。
彼らの後ろには両軍の兵士が配置され、この機に策を弄して来ないよう牽制し合っている。
両軍の代表者が書簡のようなものを交換した。
二人が頷きあった後、捕虜たちがゆっくりと前に進む。
そして、捕虜たちの位置が入れ替わったタイミングで、帝国軍がゆっくりと下がり、それに合わせて帝国軍の捕虜たちも下がっていった。
シュッツェハーゲン軍の捕虜はまだ動かず、帝国軍の兵士たちが二百メートルほど離れたところでようやく動きだした。
一応、休戦期間は今日の午後二時までと決めてあるが、捕虜交換中に戦闘が起きないように取り決められたのだろう。
捕虜であった兵士たちが仲間のところに到着した。彼らは戦友と喜び合い、ようやく解放されたという安堵感が伝わってくる。
休戦期間はまだ一時間以上あるため、主要な将が集まり、今後について協議を行うことになった。
「捕虜については監視を強化した上、城の西側で治療を行う予定です。その上で帝国軍に対し、どのように対処すべきか話し合いたいと思います」
総司令官であるタンクレート・アイゼンシュタイン侯爵が切り出した。
「帝国軍があの場所から移動しようとしていることは明らかだ。こちらを牽制してくるのではないか」
ケンプフェルト閣下がおっしゃる通り、帝国軍の陣地では兵士たちが慌てた様子で荷台に物資を積み込み、馬を繋いでいる。
閣下の意見に私も賛同する。
「私もそう思います。荷馬車への攻撃を防ぐために我々を封じ込めに来るでしょう。ですが、それでもよいと考えています」
「輜重隊が動くなら絶好の機会だと思うのですが、イリス殿は攻撃が不要とお考えですか?」
アイゼンシュタイン殿が不思議そうな顔で聞いてきた。
「我々の戦略目的はこの場を守り切り、帝国軍を撤退に追い込むことです。今回の戦いで防衛陣地を奪っても我々を屈服させることができないということは、彼らにも分かったはずです。幸い、敵の補給は途絶えたままです。このまま敵の攻勢を凌ぎ切ることで勝利が掴めるなら、無理をする必要はありません」
「私も妹の考えに賛成です。これほどあからさまに移動の意思を見せているのですから、こちらを誘っているとしか考えられません」
兄様が私に賛成する。
「しかし、元の野営地に戻らず、城を迂回して西側に陣を敷かれたら、今度はこちらが水不足に悩むことになります。それに帝国軍はまだ一ヶ月以上行動できるだけの物資があると聞いています。それほどの期間を守り抜くことは難しいのではありませんか」
アイゼンシュタイン殿は積極的に打って出たいようだ。
「水については問題ありませんわ。城内には十分な大きさの貯水槽がありますから」
この城は元々西からやってくるレヒト法国を想定して作られている。そのため、水路からの水がなくとも長期間篭城できる設計になっていた。だから、これだけの大軍であっても半月程度は水の心配はいらないはずだ。
そんなことより、アイゼンシュタイン殿が自軍の城のことを失念していたことの方に危惧を抱く。
(水と物資の確保は篭城の基本よ。当然知っているはずなのに……焦っているのかしら?)
私の言葉でアイゼンシュタイン殿は失念していたことに気づき、顔を赤くしていた。
しかし、すぐに表情を戻し、方針を決める。
「確かにそうですね。では、帝国軍が移動を開始しても積極的に打って出ることはせず、行動を監視するだけに留めるということでよいでしょうか」
全員がそれに同意し、帝国軍を監視しつつ、兵たちを休めることになった。
師団の陣地に戻り、兵たちを労っていると、シュッツェハーゲン軍から情報が届いた。
捕虜だった兵士たちを調べた結果、身元が怪しい者はおらず、工作員が紛れ込んでいないことが確認されたと教えられる。
「ただの捕虜交換だったということかしら? 目的が全く分からないわ……」
副官のエルザ・ジルヴァカッツェ中佐が私の独り言に反応する。
「帰国準備ということは考えられませんか? こちらに大きな損害を与えましたし、エーデルシュタインではマティアス様が敵を翻弄しています。戻った方がよいと判断した可能性があるのではないですか?」
彼女の言いたいことは分からないでもないが、どうもしっくりこない。
「う~ん、どうかしらね。こちらの戦死者が一万五千人を超えたとはいえ、帝国軍も五千以上の戦死者を出しているわ。帝国軍がこれほどの損害を出したのは十一年前のヴェヒターミュンデの戦い以来よ。だから、声高に大勝利だったといっても疑われると思うのよ。それにエーデルシュタインが不安だからという理由も、新たな情報が入ったのなら別だけど、それがないならタイミング的におかしいわ」
二人で考えたが、結論は出なかった。
休戦期間が終わった午後二時過ぎ、帝国軍の騎兵部隊が移動を始めた。
更に輜重隊の一部も動きだし、慌てているように見える。
(やはり後方で何かあったのかしら?)
その後も帝国軍は碌に隊列を組むことなく、北に向かっていく。
(誘っているようね。でも残念。追撃はしないと決まったのだから、無駄な演技よ……)
私は余裕の表情で帝国軍を見ていたが、グラオザント城の方が慌ただしいことに気づいた。
「何があったのかしら? エルザ、確認してくれる?」
「はい! 見てきます!」
エルザが猫獣人らしく機敏に走っていく。
彼女が戻る前に何が起きたのか分かった。
シュッツェハーゲン軍が出撃したのだ。
「何をしているのよ! 今から攻撃するつもりじゃないわよね!」
思わず叫んでしまう。
すぐにエルザが戻ってきた。
「シュッツェハーゲン軍が出撃しました! 捕虜となっていた兵士が帝国軍の兵士たちから、マティアス様が南部街道の物資保管庫を次々と破壊しているという話を聞いたようです。その情報を聞いたシュッツェハーゲン軍の指揮官が命令を無視して出撃したそうです」
私は思わず天を仰いだ。
「やられたわ! 皇帝は捕虜を使って情報操作を仕掛けてきたのよ! イリス師団、戦闘準備! 準備を終えたらその場で待機していなさい!」
そう命じた後、兄様がいるラザファム師団の陣に向かった。
陣に入ると、ハルトも来ていた。
「してやられた。シュッツェハーゲン軍の指揮官の一部が勝手に出撃し、それに他の部隊が引きずられたようだ」
兄様が苦々しい表情で教えてくれた。
「アイゼンシュタイン殿は何をしていたの! 追撃はしないという方針だったはずよ!」
「止めたそうだが、命令を無視されたそうだ。彼は味方を引き戻すために追いかけていった」
その言葉に愕然とする。
「俺たちはどうするんだ? 下手に助けにいけば、俺たちもただでは済まないが」
ハルトが怒りを抑えていると言う感じで兄様に聞く。
「この場で待機だ。ケンプフェルト閣下にもそうお願いした。最悪の場合、共和国軍と我々だけでここを守る」
「それでもいいと思うのだけど、救援に向かわなかったら後々問題にならないかしら。同盟関係がおかしくなることもあり得るわよ」
今回の出撃は明らかにシュッツェハーゲン軍の失態だ。しかし、多くの犠牲者が出ている状況で同盟国軍が救援に向かわなければ、見捨てられたと考え、拗れる恐れがある。
「その懸念はあるな」
兄様もそのことに同意する。
そこで私は提案を行った。
「今敵の目はシュッツェハーゲン軍に向いているわ。だから、防衛陣地に残っている輜重隊に奇襲を仕掛ければ対応しきれないはず。それに敵も輜重隊を失うわけにはいかないから、シュッツェハーゲン軍への攻撃を中止せざるを得ないわ」
「輜重隊を攻撃することで、シュッツェハーゲン軍を助けるのか……その方がリスクは少なない……いいだろう。ここはケンプフェルト閣下に守っていただき、我が軍は敵陣に奇襲を行い、皇帝の目をこちらに引き付ける!」
私たちは急いで準備を始めた。
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