第十話「グラオザント会戦・前哨戦:その四」
統一暦一二一六年九月二十五日。
シュッツェハーゲン王国西部グラオザント城東、グライフトゥルム王国軍野営地。ラザファム・フォン・エッフェンベルク侯爵
ゾルダート帝国軍との戦いは一進一退の攻防を続けている。
一時、シュッツェハーゲン軍の防衛陣地が危ぶまれる状況に陥ったが、グランツフート共和国軍の騎兵部隊と我が軍の牽制により、何とか持ち返した。
(やはりシュッツェハーゲン軍がネックだな。兵の質もそうだが、アイゼンシュタイン殿の指揮にも迷いがある。マティがここにいてくれたらこんなことにはならなかったんだが……これなら私かケンプフェルト閣下が指揮を執った方がよかったかもしれないな……)
タンクレート・アイゼンシュタイン侯爵がシュッツェハーゲン軍の防衛陣地で全体の指揮を執っているが、命令を出すタイミングが微妙に遅い。
共和国軍の参謀長ダリウス・ヒルデブラント将軍が助言しているため、致命的な状況にはなっていないが、このままでは対応しきれない事態に陥るのではないかと不安を感じている。
「イリス様がお見えです」
参謀長のディアナ・フックス大佐が小声で伝えてきた。
師団長が自分の部隊から離れたことに驚いているようだ。
「まだ戦闘は続いているんだぞ。師団長が部隊を離れてどうするんだ」
「もう出番はないわ。それは兄様も分かっているのでしょ」
妹は悪びれることなく、そう言ってきた。
実際、私も同じことを考えていたので反論できない。
「それよりもこの後のことを相談したいわ。兄様はこのままアイゼンシュタイン将軍に全軍の指揮を任せておいておくつもり? 今日は帝国軍も小手調べのようだから、この程度で済んでいるけど、明日以降はこんな温い戦いにはならないわよ」
「分かっている。だが、ケンプフェルト閣下を右翼の陣地から外すわけにもいかない。今日は攻撃されなかったが、あそこが崩れれば、なし崩し的にこの防御陣は崩壊するのだからな」
この程度のことは妹も分かっているはずで、わざわざ何を言いに来たのかと思っていた。
「そんなことは分かっているわ。だから、兄様がアイゼンシュタイン将軍の補佐に就いてはどうかと思っているの。ダリウス殿と兄様がいれば、どんな状況になっても的確に指揮できるのだから」
「それでは我が軍の指揮はどうするのだ? 今日のように師団ごとに戦うならまだしも、全軍で打って出る場合に指揮する者がいなくなるが」
そう言ったものの、妹が何を言ってくるか分かっていた。
「防御陣地から指揮を執ればいいわ。通信の魔導具があれば問題ないはずよ。この戦いで二十キロ以上離れる作戦はあり得ないのだし」
予想通りの言葉が返ってきた。
「今日だけでもずいぶん戦死者を出しているみたいだし、この防御陣地を使いこなせていないから、集中的に攻撃されたら突入されて全滅する可能性すらあるわよ。それに対処するためにもラザファム師団が防御陣地に入った方がいいわ。彼らは弓を使えるのだし、敵に侵入されてもむざむざ負けることはなくなるわ」
我がラザファム師団の兵はエッフェンベルク領の義勇兵だ。そのため、エッフェンベルク師団と共に長弓の訓練を受けており、弓兵としても優秀だ。もちろん、近接戦闘でもシュッツェハーゲンの兵たちより遥かに強い。
「確かにそうだな。今日の戦いが終わった後の軍議で提案してみよう」
「そうしてもらえるとありがたいわ。ただメトフェッセル侯爵が何か言ってくる気がする。あの人は無能なくせに文句だけは一人前だから」
「それはあり得るが、アイゼンシュタイン殿に抑えてもらうしかあるまい。私やお前が反論すれば、更に頑なになるだけだからな」
エンゲベルト・メトフェッセル侯爵はシュッツェハーゲン軍の騎兵部隊一万を率いる将だ。しかし、話をする限りそれだけの兵を率いる能力があるとは思えない。
シュッツェハーゲン軍の騎兵は装備もバラバラで期待できないため、予備兵力扱いだから問題はないが、メトフェッセル侯爵は事あるごとに我々のやり方を批判し、軍の和を乱している。
特に私、イリス、ハルトに対しては若造が何を言っているという態度を隠そうともせず、アイゼンシュタイン殿やケンプフェルト閣下がとりなすほどだ。
「大きな声では言えないけど、最悪の場合、あの人の部隊にはシュッツェハーゲン軍の引き締めのために全滅してもらってもいいと思っているの。実戦力として期待できない割に食料の消費は馬鹿にできないから。但し、下手なところで全滅されると戦線が崩壊する可能性があるからタイミングが難しいけど」
妹はさらりと恐ろしいことを言ってきた。
「言いたいことは分からないでもないが……とりあえず、私が総司令部に入る件は了解した。今は部隊に戻れ。これは命令だぞ」
「了解しました、総司令官閣下」
妹は笑いながら敬礼し、戻っていった。
午後に入ると、帝国軍はゆっくりと下がり始めた。
アイゼンシュタイン殿が追撃を命令するかと思ったが、その場で待機するように命じられたため安堵する。追撃すれば必ず手痛い反撃を受けると思っていたからだ。
午後三時頃、帝国軍は五キロメートルほど離れた野営地まで下がった。
そこで軍議の招集が来た。
シュッツェハーゲン軍の防衛陣地にある司令部用の天幕に主要な指揮官が集まる。
「見事な牽制だったぞ、イリス」
ケンプフェルト閣下が妹を褒めている。その姿をメトフェッセル侯爵が苦々しい表情で見ていることに気づいた。
しかし、その場では何も言わなかった。そうこうしているうちに軍議が始まった。
「今日の戦いは見事でした。ですが、やはり帝国軍は手強い。それを私は強く感じました……」
アイゼンシュタイン殿が話し始める。
「我が軍の損害ですが、シュッツェハーゲン軍の戦死者は約一千、負傷者は約三千、負傷者のうち、一千名は治癒魔導師によって明日には復帰できる予定です。グライフトゥルム王国軍は戦死者約二百、負傷者約五百で、負傷者は全員治療済みと聞いています。グランツフート共和国軍は戦死者約五百、負傷者約二千で負傷者の半数は復帰見込みとのこと……」
今日一日の戦いで千七百人もの戦死者を出している。
「一方、帝国軍ですが、負傷者の数は不明ですが、戦死者は一千五百ほどであり、ほぼ互角の戦いであったことが分かっています……」
互角といっているが、敵の戦死者の数は多く見積もられがちだ。それでも防御陣地に篭っていたこちらの方が、戦死者が多いことから押されていたことは間違いない。
「今日の戦いを踏まえ、明日以降に反映すべきことがあれば、提案していただきたい」
そこでケンプフェルト閣下が手を上げた。
「貴軍の損害が思ったより大きい。ラザファムの師団を貴軍の防衛陣地に入れてはどうだろうか。そのついでにラザファムを総司令部に入れれば、グライフトゥルム王国軍の指揮が円滑になると思うが」
妹が提案したことを閣下が言ってくれた。もしかしたら事前に根回ししたのかもしれない。
「小職に異存はありませんが、ラザファム卿はいかがか」
アイゼンシュタイン殿が私に確認してきた。
「私にも異存はありません。貴軍に不安があるわけではありませんが、死傷者の多くが弓兵であったことを考えると、我が師団が手助けできることもあると思いますので」
「それはありがたい……」
アイゼンシュタイン殿が話し始めたところで、メトフェッセル侯爵が口を挟んできた。
「グライフトゥルム王国軍の指揮はどうされるおつもりか。総司令官が別行動では指揮できぬではないか」
「その点は問題ありません。我が軍は通信の魔導具を使った指揮に慣れていますから」
「しかし、指揮官が率いる兵を見ないで指揮するのはいかがなものかと思うが」
「ランダル河でもエンツィアンタールでも見えない場所にいる部隊を指揮しています。ここのように肉眼で見えるのであれば、何ら問題はありません」
実例を出したことでメトフェッセル侯爵も反論を諦めたが、悔しげな表情を隠そうともしない。
ケンプフェルト閣下がメトフェッセル侯爵を無視して話し始めた。
「そんなことより、明日は今日以上に激しい戦いになるはずだ。だが、その前に確認したいことがある。今夜の帝国軍の夜襲の可能性についてだ」
アイゼンシュタイン殿は閣下の言葉に頷いている。
「確かにその懸念はありますな。ヒルデブラント将軍、貴殿の意見は?」
「可能性は高くないでしょうが、ないとは言えませんな。満月ではないとはいえ、晴れているので月明かりがないわけでもありません。それに今日の戦闘でこの辺りの地形も把握したでしょうから」
一昨日が下弦の半月だったので三日月ではあるが、月明かりは多少期待できる。
「ダリウスの意見はもっともだが、イリス、お前の意見はどうだ? マティアスに並ぶ軍師の意見を是非とも聞きたい」
閣下はイリスを引き立てようと考えているらしい。
「可能性はゼロではありませんが、限りなく低いと思います。その根拠ですが、まず会戦が始まったばかりということで、兵に疲労は少なく、充分に警戒できるためです。それに我が軍の獣人族は夜目が利きますし、耳もいいですから成功の確率が低いと考えて実行しないと考えます。夜襲を仕掛けてくるとしたら、戦いが膠着状態に陥った時か、帝国軍が撤退する前でしょう」
「なるほど。成功率が低いから膠着状態を打破するか、撤退を見透かされないようにするかのいずれかのご利益がなければ冒険はできぬということだな」
「その通りです。もちろん、警戒は必要だと思いますが」
妹の言葉に軍議に参加している多くの者が納得している。
「では、貴軍に警戒を任せてもよいですかな」
メトフェッセル侯爵がそう言ってきた。
「もちろんです。但し、各軍にはいつでも戦える準備をお願いしたいですが」
元々考えていたことだが、押し付けられた感じがして気分はよくない。そのため、無駄な一言を付け加えてしまった。
その後、軍議が続けられたが、私が総司令部に入ること以外、当初の方針を変えるようなことはなかった。
下に前作のリンクがあります。こちらもご興味があれば、よろしくお願いします。
また、地図や世界設定などを集めた設定集もありますので、興味のある方はご確認ください。
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