第二十三話「イリス、王都を出発する」
統一暦一二一六年六月二日。
グライフトゥルム王国中部王都シュヴェーレンブルク、ラウシェンバッハ伯爵邸。イリス・フォン・ラウシェンバッハ伯爵夫人
今日、私は家族を離れ、グランツフート共和国のヴァルケンカンプ市に向けて出発する。
夫マティアスの考えた策を実行するためだ。
出発前、夫や子供たちと別れの時を過ごす。
「長くなると思うけど、身体には気を付けて」
夫が私を抱きしめながら囁く。
夫と離れた後、三人の子供を抱きしめる。
「三人ともよい子にしているのよ」
「母上……行かないで……」
「ぐすっ……母上……」
子供たちは別れが辛いのか、泣いており言葉にならない。
去年の夏に王都に戻ってからまだ一年も経っていない。まだ六歳と五歳の子供たちには悲しい思いをさせてしまうと涙が出そうになるが、それを無理やり堪え、笑みを浮かべて立ち上がる。
「それでは行ってくるわ。マティ、義父様、義母様、子供たちのことをお願いします」
玄関を出た後、一度だけ振り返った。
子供たちがマティにしがみつきながら見送っている。
もう一度、子供たちのところに戻りたくなったが、その気持ちを無理やり抑え込んで馬にまたがる。
「サンドラ、今回もよろしく頼むわ」
「承りました」
黒獣猟兵団の護衛、サンドラ・ティーガーが片膝を突いて頭を下げる。
護衛は猟兵団員十名と女性騎士姿の影が二名。いずれもラウシェンバッハ伯爵家の私兵扱いだ。
彼女には軍に入ってもらい、連隊長や大隊長をやってもらいたかったが、彼女自身が私の護衛を強く希望し、私自身も気心の知れた彼女を手放したくなかったので、現状維持となった。
ちなみに黒獣猟兵団は傭兵団からラウシェンバッハ伯爵家の家臣となった。但し、八百名いた団員のうち、約五百名は近衛連隊に、約百名が海軍に入ったため、二百名にまで減っている。
減らした理由は一家臣に過ぎないラウシェンバッハ家が伝説的な暗殺者“夜”に匹敵する凄腕の戦士を大量に率いていることが問題視されることを危惧したためだ。
二百人でも充分に多いが、我が家は帝国の暗殺部隊“梟”に狙われているため、マティや私、子供たちの護衛だけでなく、王都や領都の屋敷の警備にも人を割く必要があり、最低でもこれだけの人数が必要だった。
屋敷の外には遊撃軍司令本部の参謀と連隊長、副官ら二十名と護衛小隊三十名が待っていた。参謀たちと護衛小隊の兵士はすべてラウシェンバッハ領の獣人族だ。
そのため、普人族は私と影の護衛だけだ。もっとも影は闇森人であるので、普人族は私だけということになる。
この構成は遊撃軍の機動力を考慮した結果だ。
私を含め、全員が身体強化を使えるため、輜重隊を無視すれば、一日当たり最大百キロメートルほど移動できる。もし、普人族の参謀がいたら、騎馬であってもここまでの移動速度は出せない。
参謀や連隊長たちは突撃兵旅団での反省を踏まえ、マティが聖都に向かった後に、私が半年ほど掛けて鍛え上げた者たちだ。まだ経験が不足しているが、参謀や指揮官として、中央軍第一師団、すなわち旧王国騎士団より優秀だと思っている。
全員が揃っていることを確認すると、すぐに命令を出す。
「出発!」
マティたちが門から出て手を振っているが、それに応えることなく、馬を進める。出発した以上、司令官としての公務が優先されるためだ。
その後、エッフェンベルク侯爵邸の前で兄様と合流する。
兄様には司令長官護衛中隊約百名が同行する。護衛中隊も全員獣人族で、こちらはエッフェンベルク領の者たちだ。
「気合いが入っているようだな」
兄様が微笑みながら、硬い表情の私をからかってきた。
「そうね。ここからは余裕を見せないといけないわね」
平民街を通ることになるため、あまり思いつめた表情では民に不安を与えることになるからだ。
「街を出たら速度を上げる。今日中にオーレンドルフに到着するぞ」
王都からオーレンドルフは約百キロメートル。初日にどこまで移動できるのか確認するつもりらしい。
「分かっているわ。兄様の方こそ、最近はデスクワークばかりだったけど大丈夫?」
そう言ってからかう。
実際、今年に入ってから軍制改革の陣頭指揮で司令長官室にいることが多く、演習にほとんど参加できていなかった。
「ちょうどいい気晴らしになる。それにお前に後れを取るようなことはないさ。賭けてもいいぞ」
そんな話をしていると自然と笑みが零れる。
それがよかったのか、平民街に入ると王都民たちが笑顔で手を振ってくれていた。
王都の南門を出ると、私と兄様は馬から降りた。
替え馬はあるものの、騎乗のままでは馬がもたないためだ。
「これより駆け足でオーレンドルフに向かうぞ! 出発!」
兄様は命令を出すと、先頭に立って走り始めた。
私と兄様を含め、全員が完全装備だ。そのため、走り始めると鎧がガシャガシャという音を立てる。
大陸公路を行く商人たちが何ごとかと言う感じで私たちを見るが、それを無視して走っていく。
一時間ごとに小休止を入れ、昼食時に一時間の休憩を摂り、その後も同じペースで走り続けた。
午後四時頃、オーレンドルフの城壁が見えてきた。
朝八時頃に出発したから、一時間当たり十五キロメートルほどの速度で走ったことになる。
兄様が右手を上げ、隊が止まった。
「全員、見事な行軍だった! ここで小休止した後、歩いて町に入るぞ! 王国軍の司令長官が汗だくで駆け込んできたら驚くだろうからな!」
その言葉に全員が笑う。
実際、私を含め、全員に余裕がある。
小休止の後、私と兄様は馬に乗る。
馬はリヒトプレリエ大平原の名馬であり、疲れを見せていない。これなら何とかこの速度で行軍できると考えていた。
オーレンドルフでは兄様と一緒にオーレンドルフ伯爵家を表敬訪問する。
と言っても、財務卿である伯爵は王都にいるため、代官に挨拶するだけだ。
翌日は現在整備中のオーレンドルフ-ラウシェンバッハ街道を進む。
まだ整備が始まったばかりであり、大陸公路とは比較にならないほど狭い。昨年通っているが、場所によっては幅二メートルほどしかなく、荷馬車がすれ違うことができないほどだ。
昼食時の休憩中、兄様と話し合った。
「軍用道路として整備が終わるのは九月頃と聞いているわ。今回の出兵には間に合わないわね」
第一師団と第二師団をラウシェンバッハ領の演習場に送り込む際、この道を使うことを考えていた。大陸公路を使うより、五十キロメートル以上短いし、商人たちが溢れる大陸公路より移動が容易なためだ。
「仕方がないな。今回はそれほど急ぐ必要はないから、いい行軍訓練になると考えることにしよう」
この街道での一日当たりの移動距離は七十キロメートルほどで計画している。ラウシェンバッハまでは二百キロメートルだから、三日で移動することになる。
百五十人程度の部隊だが、大きな町がないこの街道では補給が難しい。そのため、予め野営地が決めてある。
その野営地だが、レヒト法国からやってくる獣人族の入植予定地を建設するための拠点でもあった。そのため、そこには十分な物資が保管してある。
野営地である建設拠点に入り、夕食を摂っていると、見知った獣人族があいさつに来た。
「イリス様、ご無沙汰しております」
そう言って熊獣人の中年女性が頭を下げる。その後ろには熊獣人たちが同じように頭を下げていた。
「ハンナたちが手伝っているのね。ご苦労さま」
私が話し掛けたのはベーア族の族長ゲルティ・ベーアの妻ハンナだ。
「私たちにできることがあれば、何でもやってあげたいと思っていますので」
ベーア族はレヒト法国の獣人奴隷部隊として西の要衝ヴェストエッケ城攻略作戦に参加した。その際、攻城兵器を運搬していたが、法国軍が撤退したため、捕虜となった。
その捕虜たちを我が領に迎え入れ、更にモーリス商会を通じて家族を呼び寄せたため、非常に高い忠誠心を持っている。
「ありがとう。でも無理はしないように。まだ急ぐ段階でもないのだから」
日の長いこの時期であるのに、暗くなる直前まで作業をしていたため注意したのだ。
もっとも私が注意を促しても、彼女たちは体力が続く限り、頑張り続けるだろう。それほど我がラウシェンバッハ家に恩義を感じているのだ。
翌日以降も同じペースで行軍し、無事ラウシェンバッハに到着した。
約三百キロメートルを四日で移動したことになる。
「この部隊なら海路とエンテ河を使うより早く着けるな。もっとも獣人族の精鋭に限定されるが」
海路を使う場合、ヴィントムント市まで二日から三日、ヴィントムントから一日から二日掛かる。平均すると四日ほど必要だ。
一方、この街道が整備されれば、獣人族なら三日で移動できる。
「そうね。物資を船で輸送しておけば、兵士だけなら思った以上に早く移動できるから作戦を考える時に楽になりそうね」
ラウシェンバッハで一泊した後、私たちはグランツフート共和国の都市ヴァルケンカンプ市に向かった。
下に前作のリンクがあります。こちらもご興味があれば、よろしくお願いします。
また、地図や世界設定などを集めた設定集もありますので、興味のある方はご確認ください。
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