第十八話「法王、対応に苦慮する」
統一暦一二一五年八月十八日。
レヒト法国中部聖都レヒトシュテット、法王庁内。法王アンドレアス八世
私は疲れ切っていた。
北方教会のニコラウス・マルシャルクが計画した大規模な軍事作戦が失敗に終わり、その後始末に奔走しているからだ。
東方教会と西方教会の連合軍が私の反対を押し切ってグランツフート共和国に進軍し、大敗北を喫した。
その第一報が届いたのが、五月の半ば頃。
その数日前には北方教会領軍がグライフトゥルム王国の西の要衝ヴェストエッケを陥落させたという情報が届き、聖都は大いに沸いていたが、あまりに衝撃的な情報に茫然自失となった。
そして、その三週間ほど後の五月末に共和国の外交使節団が聖都に到着した。
共和国は二万人の捕虜と逆侵攻を行うという脅しを前面に押し出し、我が国に過酷な要求を突き付けてきた。
『我が国とグライフトゥルム王国に対し、賠償金として組合マルクで百億マルク(日本円で約一兆円)を支払うこと。戦争犯罪人であるニコラウス・マルシャルク白狼騎士団長以下、神狼騎士団、聖竜騎士団、鷲獅子騎士団の各団長を引き渡すこと。王国に侵攻した北方教会領軍を直ちに引き返させること。王国軍の捕虜を解放すること。以上を要求する』
共和国の外交部長フリッツ・ヴェーグマンは禿げ頭の貧相な小男だが、妥協は一切しないという強い姿勢を崩さない。
『我が軍の損害は非常に軽微だ。我が国が誇る名将ケンプフェルト元帥が率いる中央機動軍三万に加え、首都防衛軍を加えれば、五万は下らない。一方で東方教会領の戦力は一万にも満たぬはず。東方教会領すべてを我が国の手中に収めるだけでなく、ここ聖都を皮切りに南方教会領、西方教会領にも攻め込むことが可能だ』
聖都まではともかく、南方教会領や西方教会領までは無理だと思い、譲歩を迫ったが、それに対し、更に強気で攻めてきた。
『我々にはグライフトゥルム王国の軍師、マティアス・フォン・ラウシェンバッハ子爵によって作られた計画書がある。それに従えば、西方教会領の領都ヴァールハーフェンまで攻め込むことは難しくない。六万五千の貴国軍を僅か一日で敗北に追いやった天才の策を試したいなら拒絶すればいい』
ラウシェンバッハの名を聞き、私と外交担当の枢機卿ハロルド・フェーベルは顔面が蒼白になった。
その後、王国軍捕虜の解放を認めた上で、その他の条件で譲歩を狙うが、なかなか難しかった。
『それだけの現金が我が国にあるはずがない。支払いは不可能だ』
法王庁の予算は年間一億レヒトマルク程度だ。商人マルクに換算すれば、五千万マルク程度しかない。各教会領を合わせても、年間の税収額は七十億レヒトマルクを僅かに超える程度だ。つまり、三年分の税収に匹敵する要求が行われたことになる。
この問いは想定していたようで、すぐに代替案を出してきた。
『ならば、商船で代替してもよい。但し、商船は五百トン以上で、合計十万トン以上、船齢はすべて十年以下という条件だ』
この条件では新造船が少なくとも百隻以上必要だ。
南方教会領と西方教会領の商船を掻き集めれば、二、三百隻はあると思うが、船齢十年以下という条件がクリアできるか分からない。
そのことを確認するが、問題ないと言い切られてしまう。
『こちらで確認している限りでは、充分に揃うはずだ。必要なら船のリストを付けてもよい』
そう言いながら、分厚いリストをテーブルに置いた。いつの間にか調べられていたようだ。
(いつの間に調べていたのだ……開戦前から勝利を確信し、我が国からの賠償まで考えてあったというのか……これにもラウシェンバッハが関係しているのだろう……)
交渉の間、私の背筋には冷たいものが流れ続けていた。
それでも王国軍の捕虜を解放すること、ヴェストエッケを返還すること、商船を引き渡すことで、何とか休戦協定は合意に至った。
七月に入り、北方教会領軍が国王フォルクマーク十世を討ち取ったという情報が入ってきた。また、その二週間後に新たに国王に即位したグレゴリウスと停戦協定を結んだことも伝えられる。
この大勝利に対し、共和国と合意したと批判されるようになった。
『法王聖下のご判断は拙速。今少し時間を掛け、マルシャルク団長の動向を注視すべきだった』
一ヶ月ほど批判に晒された。
交渉を引き延ばせば、東方教会領をすべて失い、今頃聖都は大混乱に陥っていただろうから、私の判断は間違っていなかったはずだ。
それでも少し焦りすぎたかもしれないと考えたが、三日前の八月十五日、共和国の外交部長ヴェーグマンが再び現れ、衝撃的な事実を告げた。
『北方教会領軍はジークフリート王子率いる王国軍に敗れただけでなく、森に火を放つという禁忌を犯した。それに対し、四聖獣である鷲獅子様がお怒りになり、その場で首謀者であるゲラート青狼騎士団長を誅殺されたそうだ。更にマルシャルク団長も禁忌を利用した策を行い、グライフ様は大層お怒りと聞く』
『禁忌を犯しただと……信じられぬ……』
『そちらが信じようが信じまいが、どうでもよい。我が国は四聖獣様のお怒りを受けるような国と妥協することはできぬ。未だに王国将兵が解放されたという情報がないのだから、貴国との休戦協定は一旦破棄する』
『ま、待ってくれ! 貴国と北方教会領軍は無関係のはず。一方的な破棄は認められん!』
私の懇願にヴェーグマンは冷たい視線を向けた。
『四聖獣様に逆らうような国と合意したと思われれば、我が国にも罰が与えられかねん。そのようなリスクは冒せぬということだ』
結局取り付く島はなかった。
それでも粘り強く交渉を続けていたが、本日更に衝撃的なことが起きた。
「ぐ、鷲獅子様が……」
秘書である主教が慌てた様子で執務室に入ってきた。
「何があった? 落ち着いて話すがよい」
秘書は深呼吸を行った後、一気に話し始めた。
「グライフ様が大聖堂の前の広場に来ておられます! 大賢者様もご一緒で、法王聖下に話があるとおっしゃっておられます! すぐに広場にお越しください!」
その言葉に慌てて走り出すが、法王の聖衣は走ることに向いておらず、何度も転びそうになった。
それでも何とか広場に辿り着く。
広場では多くの聖職者が平伏している姿が一瞬だけ目に入ったが、圧倒的な存在感の前に私も跪くことしかできなかった。
「そなたが法王アンドレアスかの?」
大賢者様から放たれる力に怯え、その問いに頭を下げることしかできない。
『助言者の問いに答えよ!』
グライフ様が苛立ちを見せ、近くにいる主教たちが気を失っていく。
それでも気力を振り絞って声を出す。
「わ、私が法王アンドレアスでございます……」
「既に聞いておると思うが、神狼騎士団はやってはならぬことをやった。それに対し、管理者より世界を託された我らは罰を与えねばならぬと考えておる」
「ば、罰でございますか……」
「そうじゃ! 魔素溜まりが存在する森に火を放つことは、世界を滅びに導く禁忌じゃ! 四百年前に代行者らの制裁を受けたことを忘れたわけではあるまい!」
約四百年前の統一暦八百五年、中部の森林地帯であるヴァルケローンで、騎士団の一部が戯れに獣人族の村に火を放った。
その火は村だけでなく森全体に広がり、それに四聖獣様がお怒りになり、駐屯していた騎士団とその家族二万が命を落としている。
そのことは我が国の民の心に深く刻まれていると思っていた。
「も、もちろん忘れてはおりません!」
「では、なぜこのようなことが起きたのじゃ! 幸い、王国軍が適切に処置を行い、グライフが早期に気づいたからよかったようなものの、一つ間違えば魔窟が生まれるところであった! それだけではない!」
マルシャルクが行った策のことだろうが、詳細は聞いておらず、平伏することしかできない。
「マルシャルクなる者は森に火を放つと王国軍を脅したのじゃ! 禁忌を国同士の争いに利用することは管理者が禁じたこと! 法王としてどのように対処するつもりじゃ!」
「マルシャルク及び関係した者はすべて処刑いたします!」
「愚か者! その程度で済むと思うてか!」
「は、はい……」
大賢者様の剣幕に言葉が出ない。
「今年の年末、すべての代行者がここに集まる。各教会の総主教と騎士団長を集めておけ。そこでそなたらがどう対応するのか聞かせてもらう。対応いかんによっては、この国を亡ぼす。そのことは肝に銘じておけ」
「はい……」
震えながら答えることしかできない。
「その際、各国の元首と各魔導師の塔の大導師たちをここに呼ぶ。そなたらのやったことの愚かしさを心に焼き付けるためにじゃ」
「すべての元首がここに集まると……」
「そうじゃ。最悪の場合はこの国が亡ぶさまを見せつけることになる。もしそうなれば、野心家である皇帝ですら、禁忌を冒そうとは考えなくなるじゃろう。これから四ヶ月。心して考えるがよい」
大賢者様の言葉に頭が追いつかないが、少なくとも年末までに大賢者様や四聖獣様が納得する方策を考えねばならないことだけは分かった。
『我は手ぬるいと思っている。聖竜も神狼も同じ考えだ。だが、管理者の理念を心に刻み込むために、人族に考えさせる必要があると言ってきた者がいる。我らはその言葉に賭けてみる。だから、我らを失望させるな』
「はっ! 必ずやご満足いただける方策をお示しいたします!」
私はそれだけを何とか言うことができた。
「警告しておくぞ。王国や共和国の元首がここに来るが、万が一傷つけるようなことがあれば、問答無用でこの国を亡ぼす。恩情は一度で充分じゃからな」
私は頭を下げることしかできなかった。
下に前作のリンクがあります。こちらもご興味があれば、よろしくお願いします。
また、地図や世界設定などを集めた設定集もありますので、興味のある方はご確認ください。
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