第六話「第三王子、交渉を見守る」
統一暦一二一五年七月三十一日。
グライフトゥルム王国中部王都シュヴェーレンブルク、王宮前。第三王子ジークフリート
これからマルクトホーフェン侯爵を王宮から追い出すための交渉を行う。
私も王家の代表としてその交渉の場に立ち会うことになっていた。
「殿下には最終的なご判断をお願いしますが、基本的には私とイリスが交渉を行います。交渉相手はヴィージンガー殿でしょうから、勉強になるほどの交渉にはならないと思いますが、言葉だけでなく、相手の感情がどう動いているかを想像しながら聞いていただければと思います」
マティアス卿はそう言って微笑み、イリス卿は面白そうに笑っている。
ヴィージンガーは王立学院兵学部を首席で卒業した秀才だが、この二人は全く評価していない。
手玉に取る自信があるのだろうが、マルクトホーフェン侯爵も無策ではないはずで、少しだけ不安になった。
「侯爵も必死だと思うのだが?」
「問題ありませんわ。ヴィージンガーは臨機応変の才に乏しく、少し有利になったように見せれば、すぐに乗ってきます。あの程度の才の者が腹心であるという時点で、マルクトホーフェンの命運は尽きているのですよ」
イリス卿も余裕の笑みを浮かべている。
二人の予想通り、交渉の場にはヴィージンガーが出てきた。
細面の神経質そうな男で、マティアス卿の顔を見ると、露骨に敵意を見せている。この場で敵意を見せることは何の益もないことは私でも分かるのだが、感情を制御できないらしい。
「お元気そうですね、ヴィージンガー殿」
「無駄話をする気はない。先ほど話していた条件は本当のことなのだろうな?」
ヴィージンガーはそう言って睨みつけるが、マティアス卿は笑みを浮かべたままだ。
「感心しませんね。こちらは第三王子であるジークフリート殿下です。グレゴリウス殿下に忠誠を誓っているとはいえ、グライフトゥルム王家の方に挨拶もしないというのはいかがなものかと思いますよ。それとも既にグライフトゥルム王国を見限り、帝国なり法国なりに鞍替えしているということですか?」
その言葉にヴィージンガーが更に苛立つ。
「我らは王国に忠誠を誓う愛国者だ。そのような侮辱は看過できん!」
そう言ってテーブルをバンと叩いて立ち上がる。
「ならば、殿下に対し、適切な礼節をもって対応されるべきでしょう。それとも口先だけですか?」
「何!……貴様の術中には嵌まらん……」
ヴィージンガーは頭に血が上っていたが、イリス卿が面白そうに笑っていることに気づき、マティアス卿の策だとようやく気づいたようだ。
私に視線を向け、小さく頭を下げる。
「ミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵の家臣、エルンスト・フォン・ヴィージンガー子爵です」
「では、早速話し合いに移りましょうか」
「どの口が言う……」
ヴィージンガーはマティアス卿を睨みつけるが、それ以上何も言わなかった。
(見事なものだな。相手の敵意を利用して、交渉が始まる前から完璧に主導権を握っている……)
主導権を完全に握ったマティアス卿は笑みを浮かべたまま、話を始めた。
「こちらから提示した条件は先ほど申し上げた通り、人質となっている侍従、女官、文官等を解放すること、クライネルト子爵隊の指揮官を引き渡すこと、王宮を無傷の状態で引き渡し、財産等は持ち出さないことの三点です。それに対し、ジークフリート殿下の名代としてイリス・フォン・ラウシェンバッハ子爵夫人を同行させることを提案します。当然のことですが、殿下の名代には護衛を付けさせていただく。人数は三十名。すべて女性です」
「護衛だと? 侯爵閣下を暗殺する部隊ではないのか? そのような者どもは認められん」
予想通り拒否してきた。
「暗殺などという手段は採りませんよ。それによろしいのですか?」
「何がだ」
ヴィージンガーが怪訝そうな顔で聞く。
「このことは大々的に公表します。マルクトホーフェン侯爵閣下は三千の兵に守られていても三十名の女性兵士を怖れて断ったと。一刻も早く帰国したい兵士たちは呆れるでしょうね。そのような臆病な主君に仕えていたのかと」
ヴィージンガーは憎々しげな表情でマティアス卿を睨みつける。
「こちらは侯爵閣下に配慮したのですよ。ジークフリート殿下の名代であれば、王家の方が行幸するに相応しい人数、すなわち一千名程度を用意してもよかったのです。それに私にとって最愛の妻を人質に出すという苦渋の決断もしました。それでも認めないのであれば、交渉は決裂ですね」
「こちらはそれでも一向に構わん。閣下の安全が最優先だからな」
ヴィージンガーはふてぶてしい表情を作っている。
交渉術のつもりなのだろうが、既に兵士の心が折られているのだから、戦えないことは明らかだ。別の条件を提示するなりすべきだろう。
「本当によろしいのですね。このことは貴軍全体に聞こえるように、王宮の周囲から拡声の魔導具で通知します」
「それがどうした」
私でもマティアス卿の言っていることは危険だと分かるのだが、ヴィージンガーは想像力がないのか、鼻で笑っている。
「その上で、“これから突入するが、武器を捨てれば命を保証する”と言ったらどうでしょう? どれだけの兵士が侯爵閣下の命令に従うでしょうね」
「貴様……」
そこでようやく危険に気づいたようだ。
「では、先ほどの条件は受け入れるということでよろしいですか?」
「……」
ヴィージンガーは睨みつけていたが、小さく頷く。
「だが、こちらからも条件がある」
「何でしょうか?」
「人質だけでは信用することはできん。我が軍が領都に入るまで、いかなる軍も我らの三十キロ以内に近づくことは認めぬ。そのことをジークフリート殿下の名で約束し、正式な文書を交付せよ」
マティアス卿は小さく頷くが、どうしたものかという表情を作っている。
「約束することはやぶさかではありませんが、いかなる軍といってもどの程度の規模を言うのでしょうか? 騎士爵領の十名程度の部隊ですら三十キロ以内から退去せよとおっしゃるのですか?」
この条件が出てくることは想定しており、認めるつもりだと言っていたが、あえて条件を付けた。恐らく、侯爵とヴィージンガーを貶めるためだろう。すべてと言えば、僅か十名の田舎の兵士にすら恐れていると宣伝することは間違いない。
「王国騎士団、エッフェンベルク伯爵領軍、ラウシェンバッハ子爵領軍が対象だ。それらについては少数であっても認めぬ」
私は思わず声を出しそうになった。
彼が提示した軍は確かにマルクトホーフェン侯爵にとって危険だが、北部のノルトハウゼン騎士団とグリュンタール騎士団について言及しなかったからだ。
「承知しました。せっかくですので、ノルトハウゼン騎士団とグリュンタール騎士団も近づかないように連絡しておきましょう」
マティアス卿はあえてヴィージンガーが忘れていた二つの騎士団の名を上げる。そのことでヴィージンガーは一瞬ハッとするが、すぐにふてぶてしい表情に戻したが、焦っていることは私でも分かる。
「奴らが動けるとは思えんが、まあいいだろう」
マルクトホーフェン侯爵が傭兵を雇い、ノルトハウゼン伯爵領やグリュンタール伯爵領で小規模な襲撃を繰り返す策を実行していることは知っている。しかし、それはマティアス卿が派遣した黒獣猟兵団の精鋭により解決していた。
情報が入らないため、ヴィージンガーは自らの策がまだ有効だと思っているらしい。
「他の条件だが、予め領都に伝令を送ることを認めよ。受け入れ態勢を整えておく必要があるからな。それに加え、領都までの移動に必要な物資の供給も要求する。もちろん物資に小細工は一切するな」
この要求も想定通りだが、イリス卿が不機嫌そうに発言する。
「こちらの温情で帰還させてあげるのにずいぶんな要求ね」
「気に入らんのなら、交渉は決裂だ。兵たちを煽動しようとしても、食糧を与えず、飢えさせる謀略だったといえば、彼らも命令に従うだろうからな」
勝ち誇ったような表情を浮かべているが、その程度のことで兵が言うことを聞くとは思えなかった。
「そのようにいきりたたなくてもよいではありませんか。伝令と物資の供給も認めましょう。侯爵閣下のために馬車も用意しますよ。もちろん、伝令用の馬もです。ですが、ここまで譲歩するのですから、こちらからも追加の要求を出させてもらいますよ」
「何だ?」
ヴィージンガーは露骨に警戒する。
「兵たちが行軍中に犯罪を起こさないように徹底していただきたい。街道の村や町で暴行や窃盗などが起きた場合、我々は民を守るために今回の約定を破棄し、貴軍を排除するために攻撃します」
「そのようなことはさせぬ」
ヴィージンガーはそう言ったものの、眼が泳いでいる。侯爵軍の軍紀に自信がないのだろう。
「確実に手綱を握ることを推奨しますよ。こちらとしても無用の戦闘は避けたいと思っていますが、クライネルト隊のことでも分かるように、貴軍の兵士は質がよくありませんから信用できないのです。ですから、街道沿いの町や村は通過するだけで、宿泊は野営地で行うことをお勧めします。夜間に兵が抜け出して犯罪を行えば、貴殿らの責任になるのですから」
「分かっている。それとも言いがかりを付けて攻撃するつもりか?」
「そのようなつもりはありませんよ。貴軍が領都に戻ろうが、何とでもできますから。ただ、貴軍の将兵は何をするのか分からないので釘を刺しただけです」
マティアス卿は涼しい顔でそう告げる。実際、彼の策通りに進んだ方がマルクトホーフェン侯爵にダメージを与えられるため、街道で戦闘をする必要はない。
議論が終わったと思い、私が締める。
「では、これで合意できたということで間違いないか」
「こちらは問題ありません」
私の問いにマティアス卿が静かに頷く。
「我らもこれで問題ありません……」
ヴィージンガーはそう言ったものの、どこかに抜けがないか必死に考えている。
「では文書に認め、私が署名した後、侯爵に渡してもらおう」
「……承知しました」
ヴィージンガーはまだ挙動不審だが、一応頷いた。
その後、署名を行い、ヴィージンガーはそれを持って王宮に戻っていった。
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