第四十五話「イリス、敵に追いつく」
統一暦一二一五年七月五日。
グライフトゥルム王国中部ライゼンドルフ東、西方街道上。イリス・フォン・ラウシェンバッハ子爵夫人
追撃戦を再開してから六日目に入った。
先鋒であるラウシェンバッハ騎士団は、昨日までの五日間で百八十キロメートルほど行軍した。
現在の位置は西方街道の主要都市ライゼンドルフの東約九十キロメートル。レヒト法国の北方教会領軍は私たちの西二十キロメートルにあり、今日中に追いつく予定だ。
その行軍速度を維持するため、我々には大規模な輜重隊はなく、ラウシェンバッハ騎士団の輸送中隊のみが物資を運んでいる。また、輸送する量も抑えているため、食糧と予備の矢以外はほとんどない。
当然天幕はなく、野営時もマントに包まって寝るだけで、調理器具もないため、携行食糧を齧るだけだ。
それでも士気は高く、不安は全くない。
本隊である突撃兵旅団と義勇兵団は、我々の五十キロメートルほど後方だ。そのため、マティとは通信の魔導具で直接話すことはできないが、リレー方式で情報を伝達する手段は確保できている。
北方教会領軍は十日間で二百キロメートル進んでいるが、ここ数日は一日当たり十五キロメートルほどしか進めていない。これはライゼンドルフの魔獣狩人に加え、偵察大隊も奇襲攻撃に加わり始めたからだ。
出発前、義弟であるヘルマン・フォン・クローゼル男爵が連隊長を集めて、最後の打ち合わせを行っている。
「第三連隊を先頭に、司令部、第二、第一、支援部隊、第四連隊の順で行軍する。敵と接触した後は司令部を前に出し、私が直接指揮を執る……」
第三連隊は防御に特化した部隊だ。
今回は敵を殲滅するというより、徐々に削ることを目的にしているから、攻撃力より防御力を重視している。
「夜間は第一連隊と第二連隊で交互に攻撃を仕掛け、第四連隊は地形的に可能であれば、奇襲攻撃を仕掛ける。但し、いずれも積極的な攻撃は仕掛けない。義姉上、これでよろしいですか?」
「ええ、問題ないわ。敵は相当追い詰められているはず。ヴィルギル、あなたの連隊でも油断すると足元を掬われるかもしれないから、兵たちに注意を促しておきなさい」
第三連隊長のヴィルギル・ベーアがその巨体を折り曲げるようにして頭を下げる。
「了解しました。部下にイリス様のお言葉を伝えます」
彼も元黒獣猟兵団で、私と夫の護衛をしていたことから、気心は知れている。
「疲れていると思うけど、ここが正念場よ。それに敵の方が参っているはず。そのことを忘れないようにしなさい」
全員が私の言葉に頷いている。
まるで私が司令官のようだが、ラウシェンバッハ子爵夫人なので、どうしてもこんな感じになってしまうのだ。
打ち合わせを終えると、すぐに出発する。
七月に入り、午前中であっても暑さは厳しい。
騎士団に不平を言う者はいないが、食事と休息が満足に与えられない状況ではさすがに足取りは重い。そのため、頻繁に休憩を入れる。
私自身は騎乗であるため、歩兵である彼らほど疲れていない。そのため、士気を保つため、休憩中に兵たちのところを回り、声を掛けていく。
「水分の補給はこまめにしなさい。その時には塩分も忘れずに補給するのよ」
「足にまめができたらすぐに報告しなさい。治癒魔導師に見てもらうから」
私が声を掛けるだけでも、一定の効果はある。マティに対する忠誠心が妻に過ぎない私にも効いているのだ。
その甲斐があってか、進軍速度は全く落ちることなく、午後三時頃に敵の最後尾が見えたという報告が入る。
「第三連隊より連絡です。敵軍を発見。距離は約五百メートル。偵察隊からの報告通り、白狼騎士団の模様」
その報告にヘルマンが命令を出す。
「第三連隊は行軍速度を速め、敵最後尾を攻撃せよ。他の連隊は現状を維持。司令部からの指示に即座に従えるよう準備しておくこと」
命令を出すと、司令部直属部隊約百名が第三連隊に近づいていく。
第三連隊は五列横隊で行軍しており、隊列の長さは約三百メートル。その後ろからでは指揮がしにくいため、最前列から五十メートルほどの位置まで進む。
その頃には敵の最後尾もこちらに気づいており、第三連隊との交戦が始まっていた。
「意外に敵も元気そうですね」
ヘルマンの言葉に頷く。
偵察隊の報告では足を引きずるような兵も多くいると聞いていたからだ。
「さすがに殿には優秀な兵を配置したようね。油断できないわよ」
敵の兵士はこちらの大柄な獣人族の攻撃を盾でしっかりと受け止め、更に隙を見て反撃まで行っている。
「もちろん油断などしませんよ。それに敵に圧力を掛けることが目的ですから、そのことは皆分かっています」
ヘルマンは自信に溢れた表情で答えた。
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統一暦一二一五年七月五日。
グライフトゥルム王国中部ライゼンドルフ東、西方街道上。ニコラウス・マルシャルク白狼騎士団長
「後方より敵接近! 軍旗よりラウシェンバッハ騎士団の模様。盾を持った大柄の獣人族が迫っております!」
最後尾に配置した我が騎士団の伝令が報告に来た。
遂にラウシェンバッハ騎士団に追いつかれたようだ。
「積極的に仕掛ける必要はない。適宜兵を入れ替え、敵の足を止めよ」
この狭い街道でやれることは少ない。
そのため、ひたすら前進し、ライゼンドルフを目指すしかないのだ。
小競り合いが二時間ほど続いているが、敵も積極的に攻める気はないのか、危機的な状況には陥っていない。
(あのラウシェンバッハのことだ。こちらの気力を奪うために、じわじわと攻撃を繰り返すつもりなのだろうな……我が騎士団はともかく、他の騎士団は精神的に追い詰められてしまうだろう。何とかしなければならんのだが……)
団長と多くの中級指揮官を失っている青狼騎士団は最早戦力とは言えない。
黒狼騎士団と赤狼騎士団はエンツィアンタールの戦いでも戦力はそれほど失っていないが、団長二人が適切に対応していないため、兵たちの士気が落ちている。
(彼らにも期待せねばならんが、ラウシェンバッハがこちらの状況を看破すれば、何らかの手を打ってくるはずだ。それに対応しきれず、大きな損害を出すことになるだろう……)
それから更に二時間、日が落ちても敵は攻撃を仕掛けてくる。
本隊は野営地に入っているものの、そんな状況では満足に食事も作れず、更に士気が落ちていた。
夜間に入っても敵の攻撃は続いた。
街道に防御陣を敷き、そこで食い止めることで野営地に侵入されることはないが、それでも数百メートル先で戦闘が行われているから気が休まらない。
(やはりこちらの気力を削る策に出てきたか。奴ならばこの策を使ってくることは分かっていた。これならばなんとかなるかもしれん……)
ラウシェンバッハは兵の損失を極端に嫌う。
もちろん私も無駄な損失を出すような戦いはしたくないが、勝利のためにはある程度の損失は仕方がないと割り切っている。
しかし、ラウシェンバッハはどれほど効率が悪くとも損失を減らす策に固執する。
だからと言って、それで失敗しないところが奴の恐ろしいところだ。もっとも今回はそのお陰である程度敵の行動が読める。
(撤退戦で大きな損失を出さなければよいのだ。あと五十キロほどでライゼンドルフに着ける。そこまで行けば、敵は降伏勧告をしてくるだろう。そこでゲラート殿の策を使えば、兵と民を守りたいと考えている奴なら、こちらの脅しに屈するはずだ……)
ゲラート殿が残した策は森に火を放つと脅し、譲歩を引き出すことだ。
ライゼンドルフは周辺の農村を含めると一万五千ほどの民がいる。そんなところで大氾濫が起きれば、甚大な被害が出ることは間違いない。
もちろん、本気で火を放つつもりはない。
一度はこちらの主張を認めてくれた鷲獅子だが、次はない。本当に火を放てば、我が軍を殲滅するだけでなく、祖国まで攻撃するはずだ。そんな危険な賭けはできない。
(あと数日我慢すればよい……)
私は兵たちの士気を保つべく、野営地の中を回っていく。




