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深見藩六年

 



 深見藩六年



 坂本氏は代々甲斐武田氏の家臣だった。

 貞吉は、武田勝頼に仕えていたが、天正十年(一五八二)織田信長によって武田氏が滅亡すると、父・貞次とともに徳川家康に召された。

 家康は信長の残党狩りに与せず、武田武士を積極的に匿い採用していた。その後関東移封まで、武田氏の旧領甲斐は家康が所領、経営することになる。

 信長は武田滅亡と同じ年、本能寺で明智光秀に討たれた。

 そのあと、勢力を伸ばす秀吉と信長の子・信雄の争いに家康の絡んだ戦いが小牧・長久手の戦いになる。結局、決着はつかず、秀吉と、信雄が和議を結んだので家康も大義名分がなくなり、引かざるを得なかった。その戦いに、貞吉、貞次親子は参陣している。

 小田原の北条を倒した秀吉に関八州をまかされることになり、天正十八年(一五九〇)八月一日、関東の領主として徳川家康が江戸に入城した。そのとき中原道を使い、側近の供と鷹を放ちながら道中の村々を見て行ったそうだ。その後も鷹狩や駿府城の往復にはこの道を通ったという。


 そのあと村はすぐ徳川氏の直轄地になり、翌年五月、相模国東郡深見郷の内三百四十石は旗本坂本氏三代貞吉に宛行きされた、と聞いている。

 小田原の後北条氏が秀吉に滅ぼされる前、村はその家臣の領地だった。書類が回っただけだ、と考えられるがあまりに年貢高が違うので検地が行なわれたのだろう。貞吉は周辺の代官だともいわれた。

 


 文禄元年(一五九二)に貞次、慶長十一年(一六〇六)には貞吉が死亡するが、坂本家四代重安は秀忠に仕え大番となり大坂冬の陣、夏の陣では落城のとき手柄を立てたという。

 村内に千二百坪の屋敷を構えていて、そこから出陣した。当時重安は年十六、屋敷には母と弟、それに何名かの侍と奉公人がいたはずだ。そのとき村民が従軍したらしい。

 旗本の軍役からしても最低お供に侍一人、雑兵五人を引き連れ、馬一頭を引かせて馳せ参じなくてはならない。兵は甲冑持ち、槍持ち、馬の口取り、小荷駄、挟み箱持ち、足軽、草履取りなどの役をした。志願した者もいただろうが戦死者もいたらしい。


 その後寛永二年(一六二五)幕命で江戸への屋敷割りが行われたのを契機に江戸に常住することになるが、弟君は病弱で村に残ったという。

 村の寺(仏導寺)の本堂脇の墓地には板碑型の墓碑三基がある。

 貞吉のものに「心覚道春禅定門」の戒名が刻まれ、寛永十三年(一六三六)没の「花岳栄心大姉」と、承応二年(一六五三)没の「覚譽道本禅定門」の墓碑がある。たぶん貞吉夫人と病気で閑居していた二男貞俊のものと思われた。

 そのことが背景でもめごとが起こったことがある。何を血迷ったのか、自分はその末裔だというのがでてきた。 隣村との境に山城の跡がある。あるといってもよく分からない。下の道はよく通るが上まで行く用がないし、不気味な感じがした。入り口だけあって、あとは道も覚束ない森になっている。

 その近所にいる弥右衛門が、自分の畑はかつての殿様の敷地にあるから、自分は地頭の子孫だと言い始めた。

 根拠は薄いし、誰も証明することはできない。百年以上も前のことを問題にすることがおかしいし、もしそうだったとしても何も変わるわけではない。当人がそれを信じているのは勝手だが、公言すればまずいだろう。

 村人は変な奴だと思うだけだが、やはり地頭に注進する輩もいた。ばかげたことだが、捨てておくわけにもいかず一族、本所のお屋敷に呼び出され、用人からこってり油を絞られた。

 科料はなかったが、村役人連名で詫び状を提出する羽目になった。


 村人が血族の由緒をなぜ求めるのだろう。それによって選民性を確認するのだろうか。先祖を誇ることはよいことだろう。尊敬し感謝することは必要なことだ。しかしその理由を血脈だけに求めるのは悲しい気さえする。先祖がいなければ自分の存在さえもないとすれば、理由自体もいらないはずだ。ただ初期の開拓者が零落したり、後からきたものが裕福になるとか、村内の格差が微妙な陰影を血筋につけることになる。それは武士における家格、たとえば官位とか、家柄、身分といったようなもので複雑な格式待遇があることの反映でもあった。

 百姓は侍を手本にしていることは間違いなかった。同根という意識もあったろう。その倫理意識も作法も習俗まで身分の枠を越えない限り模倣され続けたといえる。反対に武士にとっても百姓は教育される対象ではあったが、深く係わることはなかった。岡惚れの男のようだ。


 徳川幕府も三代になって権威が確立した。権威には儀礼が要求される。儀礼には行儀作法が必要になった。伝統を模範にするしかなかった。儀式は伝えられたものではあるが、どこか伝わったものでもある。最初の意味は忘れられて形だけが残っている場合もある。

 はっきり言えば兵助は儀式めいたものが好きではなかった。特に権威めかした大仰さが嫌いだった。中身のない空疎さを感じるだけだった。


 寛永十年(一六三三)重安は常陸国信太郡内に二百石の加増を受ける。たぶん大番組頭になったはずだ。そのあと五代目が養子に入り跡を相続した  もともとそれが条件だったのか、弟(百助貞政)に分与することとし、深見村は本家と分家の二給支配となった。

 村は領主を中心にした体制ではあるが、ここは地頭が二人いるので、分割されている。それも任意の耕地の合算になっていて、単に名請け人を二つに分けているだけだ。それぞれに村役がいる。統一体としての村は地頭の共同支配になる。血族、地縁をばらばらにして納税体制を作り上げたようにみえる。

 この本所の殿様、坂本五代目小左衛門重治が出世して大名になった。村は坂本氏の本貫だから一時的にでも深見藩というのが存在したことになる。

 一万石の旗本は大名である、といってもいいし大名でなければ寺社奉行になれないといってもいい。

 大目付から寺社奉行になるのにあたって七千八百石を加封され晴れて一万石の大名であった。元は五百七十石の旗本坂本四代目重安の養子に入って、弟に二百七十石分けたあとの出世であるとすれば、たいした者だと誰しも思うものだ。願わくばお役を勤め上げそのまま子孫に残してくれれば万歳であったのだろうがそうはいかなかった。陣屋を立てる暇もなく、出世をした同じ理由で禄を取り上げられてしまったのだろう。


 殿様は正保三年(一六四六)家督を相続して十七歳でお目見え、大番勤めになる。

 当時、武官は五番方に分かれ、旗本のおよそ七割がその役で出仕していた。番方とは平時の軍であるから、事務的な用はなく城中に詰めて警護守衛を担当している。多くの旗本は初任としてこの武官になる。

 知行高によって凡そその配属が決まっていて二百石以下は小十人、二百石は大番、二百五十石新番。三百石以上が書院番、小姓組といった具合だ。

 殿様が勤めた大番は老中支配で十二組あり、各組は番頭一人、組頭四人、番士五十人で構成されている。

 江戸城西丸・二丸の守衛とともに大坂城と京都二条城に一年交替で二組ずつ在番するのを任務とした。

 のちに分家の殿様が大坂城警護を仰せつかり旅費がないというので、村に御用金を申し付けたことがあった。

 武官の勤務は三交替である。朝番は五つ(だいたい八時)、夕番は四つ(十時)、寝番は七つ(午後四時)までに登城する。熨斗目、肩衣に半袴、腰に大小の出で立ちだ。寝番は交代で不寝番をするが、あとの者は仮眠するので番袋に弁当と寝道具を入れて持参した。

 もちろん登城には身分によって供を連れる。旗本の象徴は馬と槍だ。そのため馬の口取りと槍持ちはかかせない。火事羽織や提灯、雨具など細々とした物を入れる挟み箱持ちに草履取りもいる。あとは侍か中間が護衛もしなくてはならない。実際は駕籠で中間も雇いだったりした。

 兵助も後年奉公のときお供をしたことがある。なにか気恥ずかしいものだが、脇に退く町人を見れば侍の面目も立つのかもしれない。ただ、お供は殿様が下城するまで待っていなくてはならない。冬の寒い日や雨、雪のときは大変だった。

 勤務は三日に一日だったが、明けの時でも供番があるので頭からの下知があるまで待機していなくてはならなかった。もちろん無断の他出もできない。原則的に旗本は大事の時に駆けつけなくてはならないから、泊まりの外出はできなかった。

 

 寛文元年(一六六一)、三十二歳で新番に移り、翌年小納戸役。二百俵の加増を受け布衣を許される。


 六年後、更に二百俵を加増される。

 新番は若年寄支配の六組で各組に頭、組頭、番士二十人がいて日常は本丸表の一番奥、土圭の間に詰め将軍の出行、特に社参・霊屋への出行に前駆けし、武器・馬の見分にあたった。

 もともと出世は自分の力というより上司に認めてもらい、推薦されることによるのだろう。


 ──いよいよ公儀を重んじ、御為第一に承知申しあげ、後ろ暗いことなく万般精入れてご奉公いたします、とその職を拝するにあたって誓うことになる。


 四代将軍家綱が亡くなるとき、殿様は五十一歳、小納戸であり、病床に詰めていた。

 紛らわしいが納戸は将軍の衣服・調度を管掌し、物品購入、支払いを扱い、儀式用の金銀衣服の下賜も担当した。一方小納戸は小姓に繋がる役目で将軍の食膳から髪結いまで日常の細務に従事し、半数交代で宿直した。


 徳川五代将軍綱吉が宣下したのは延宝八年(一六八〇)だった。

 五月六日、家綱の病状が激変する。七日、館林宰相二の丸に移り、本丸にて将軍に謁し、伝家の宝刀を賜う。

 八日、薨ずる、年四十歳。

 

 すんなり将軍の移譲が決まったわけではなかった。


 幕府の政務は将軍が主裁し、人事の任命権をもっているのであるから誰もそのことに文句は言えないし、独裁者は家族に弱いものだ。まして孝行息子ときている。

 桂昌院の意を汲んで前代に召し仕えの御側衆、御小姓、小納戸役人は解任された。


 そのときまで殿様、坂本重治は普通のお勤めをしていた。小納戸役は十八名、他の者が御役御免になるなか功ありとして、殿様は五百石を加増され霊屋造営の奉行を勤めることになる。


 翌天和元年(一六八一)、従五位下右衛門佐に叙任され、大目付となる。同十月十九日、切支丹改奉行を兼ねる。

 翌年四月三日、役料千石を加増され都合二千二百石となった。この間何があったかはわからない。しかしなんらかの引きがなければ小納戸役を最後に七百石持ちで隠居してもよかったはずだ。

 坂本の殿様は実直な人のような気がする。特段、策略を用いることもなかった。お役目に少し色をつけたかもしれないが、賄賂を特にもらったり、悪事を働いたわけではない。

 ただ、はっきりしているのは将軍の代替わりにおいて綱吉側に付いたことだ。前将軍の一番そばについていたわけであるからそれなりの見聞があったはずだ。それを認めてくれる人がいた。

 模様替えが終わって、御台所以下館林家の奥向きのものはそっくり本丸に入った。

 綱吉の子徳丸も若君となり、生母のお伝の方の実父小屋権兵衛は、堀田正俊の弟分にして名前も堀田将監と改め三千石寄合衆、無役の旗本になった。 この男は館林では城内の掃除方を勤めて、俗に黒鍬の者といわれる下級御家人だった。もともと道楽者のところへ、世子の祖父ということから、出世したので手がつけられなくなった。倅の権九郎は輪をかけた乱暴者だった。父子揃って大酒を飲み、博打を打ち、無頼漢と付き合いがあった。そんなわけで家計は苦しかった。

 坂本の殿様はこの二人をかばった。そればかりか援助をし世話をした。そうすれば余慶があると、抜け目なく思っていたのではあるまい。世間に父子の困窮を隠したかったのだ。


 天和二年(一六八二)十月十六日、

 ──常々諸事に念を入れて申しつけている段奇特である。

 という理由で寺社奉行に抜擢された。十月加増され一万石の大名になった。


 これを横目で見て、出世の糸口にした男がいた。お小姓で喜多見若狭守重政というなかなかの才子で綱吉の覚えもよかったが、その弟に茂兵衛重直という三百俵取りの無頼漢がいて、当初その行状を訓戒していたが、これが将監父子と懇意になり屋敷に始終出入りいていた。その遊び仲間の不始末を何度か助けているうちに重宝されるようになった。

 それで弟を通じて父子の世話を大いに仕出すと、半年後の正月殿様と同じ上意によって、六千八百石加増の一万石となり御側衆上座を仰せつかった。このことは大老でさえも発表があるまで知らなかったというから、この二件には、お伝の方のとりなしが与っているように思われる。


 ただこの父子は、博打のもつれからあっけなく兇刃に倒れた。異例の捜索が行なわれ下手人は捕われて磔刑に処されたが一家には後継ぎがなかったので家はそれっきり断絶した。悪人らしい最期であり処遇だが、お伝の方の執念による探索の結果でもあった。


 殿様のほうは、そのあと領地において検地をし、地頭法として三十六カ条の定書を所領の村々に布告した。


 しかし五年後の貞享四年五月、生類憐みの令がでた年だが、

 ──つとめよろしからず。

 との理由で本多忠周とともに職を罷免されたうえ逼塞を命じられた。


 元禄二年(一六八九)六月には先に加増された所領を没収される。七千八百石は役料と考えれば当然であるともいえる。


 坂本の殿様は不満に思ってはいなかっただろう。元禄六年(一六九三)七月二十七日死亡、墓所は江戸青山持法寺にある。

 次男の治之は常陸国鹿島郡、下野国那須郡内に五百石で分家している。

 長男の相続した知行地は本村ほか、上野国山田郡東金井村、境野村、同勢多郡田沢村。常陸国信太郡本橋村、同鹿島郡幡木村で千七百石になった。



 

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