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さば神社

 



 一



 月が変わった。

 新月と満月の日は、村全体で半日休みだった。


 日の出で始まり、次の日の出までが一日だ。

 日の出から日の入りまでを六等分する。それが一ときになる。

 同じように日の入りから次の日の出までを分ける。

 昼と夜の一刻は、同じ長さにはならない。

 明けの六つ、五つ、四つときて、九つが正午になる。八つ、七つで暮れの六つ。それから夜が始まる。

 月は新月から満月を経て新月まで、それが一月だ。

月立ち(ついたち)から月篭り(晦日、つごもり)まで。


 年は日中の長さによって、一番短い日、冬至から始まるはずだった。

 冬至から冬至までが一年だ。

 だが大昔に冬至を十一月にすることに決めた。干支によったというが、たぶん農作業がまだ片付かないのを嫌ったのだろう。

 そのとき一年を十二ヶ月にすると季節があわなくなるのに気づいて、二、三年に一度、正確には十九年に五度、閏月を設けることにした。

 いつ閏にするかだが、考えなくてもそれは幕府の天文方に類する役所が教えてくれる。大の月と小の月もだ。

 ただ理屈はこうだと兵助は思っている。

 一月は二十九日と半日位なのだろう。だから大小の月が必要になる。

 閏月は面倒くさい。

 一年を夏至と冬至に分ける。春分と秋分がきまる。これで春夏秋冬、季節がわかれ、各々を六等分する。

 二十四節気のできあがりだ。その節と中の、(最初と中間の)中が月の中に含まれない月があった時その月を閏とするということだ。

 正月節は立春だが元旦であるわけではない。年の暮れに節分をするときもある。

 あくまでも新月の時が元旦になる



 午前中かたづけをして飯を食べ兵助は、るいと墓掃除をしてきた。人には休みが必要だった。村は平穏な日々が続いている。盗賊も喧嘩も火事もなかった。もちろん殺人や事故も。土に潜っている野ねずみのような幸せだった。餌をとりに出れば鳶に襲われ、狐に食われる。作物を作れば雹が降り、日照りが続く。僥倖に感謝するしかなかった。

 だからといって、兵助が縮こまっていたわけではない。昼間から横になるささやかな喜びを満喫していた。

 るいは縁側で繕いをしていた。日差しは強く緑の葉を濃くさせていたが、ときおり風が抜けた。それでも暑気が家を覆っている。


 近在にさば神社がある。

 それ程の規模はないが、川の下流域に十ヵ所ぐらいあって他所にないという。魚の鯖が由来という人もいるが、さばは「左馬」であるだろう。


 源左馬頭義朝を祀ってある。

 左馬神社は最初集落の小祠だっただろう。他の名前で川を見つめる小高いところにあった。水害や疫病を退散させてくれる祈りを込めて祀られていた。村が落ち着き始めた江戸の初期のころだった。


 その祠に義朝を合祀したのは誰だったのか。


 この辺りは渋谷庄内であったという記録もあるが、その南は大庭庄だ。

 大庭氏の祖は鎌倉権五郎景正だった。

 後三年の役には源義家に従い、武勇の誉れが高い。

 景正が伊勢神宮(内宮)に私領を寄進し、相模国司の免判をもらったのは長治年中(一一〇四~〇六)のことである。

 が、大庭御厨が荘園としてなかなか認知されず、たびたび苦難に陥った。

 相模国庁の在庁官人が従来どおり諸種の課税、課役の負担を請求してくるのだ。


 それが認められ落ち着いたあと、景正の死を待っていたかのように、義朝の大庭御厨みくりやへの殴りこみがあった。

 略奪乱行といっていい。

 義朝はこの年二十二歳。

 在地の内紛に仲介者として入り、主従関係を結んでいく。

 相馬御厨では千葉氏と上総氏との対立、近江では佐々木氏一族の対立の時に発揮された。

 このときは、御厨の城内である高座郡鵠沼郷は鎌倉郡に属する公領だ、

 という言い掛かりだった。


 天養元年(一一四四)九月、留守所、目代頼清の下知のもと、

 義朝郎従、清大夫安行、新藤太ほか官人軍兵多数が押し入り供祭の魚を踏みつけ、大豆、小豆等を刈り取って持ち去り、生介神社神官、荒木田彦松の頭を打ち、来訪の神民八名を殴打し重傷を負わせた。


 二回目は十月、総勢千余騎を繰り出し、境界の杭を抜き取り、作田九十五町の歩刈りの穂、下司家の私財、供米八百余石持ち去り、その上神人数名を簀巻きにして死傷させた。

 在庁官人三浦庄司義明、中村庄司宗平、和田太郎助広らも従っている。

 この件自体は咎められたが、これを通して着実に義朝はその勢力を広げていくことになる。


 それから京に上り、十年後保元の乱をむかえる。

 源平相乱れ、父兄弟を敵にして戦い、義朝は勝利者側につくが、親兄弟を処刑しなくてはならなかった。


 三年後に平治の乱が起こり、今度は敗者となって逃亡することになる。

 逃げる義朝は従者、鎌田政清の舅、野間内海荘の領主、長田忠致の屋敷に着く。

 それまでに頼朝とははぐれ、朝長は負傷し動けないので殺してきていた。

 先を急ぐが引き止められ、正月三日、湯殿に案内される。供は渋谷金王丸だけだった。

 湯殿は屋敷から六町ほど離れた山あい法山寺の境内にあり、この寺は行基によって開かれ、本尊は薬師如来だった。

 ──湯帷子がない、

 と叫んで金王丸が出て行くと、数人の男が義朝に折り重なり幾度も刺して殺した。

 政清は酒宴のさなか、異変を察し、立ち上がったところ脛を斬られ、倒れると何人もが刺した。



 戦いは経済の中に組み込まれている。

 大きな権力が生まれなければどこまでも私的な争いが続けられる。疲弊した制度が覆され、完成した制度になるまで血の犠牲は繰り返された。

 これが人間の歴史なのだろう。時代によっての生き様が試されるに過ぎない。

 兵助にしても家族が殺戮の現場に立ち会えば、武器を持たずにはいられない。評価などは必要としないが、最低の生きうる地平がある。その中で生と死もあいまいな基準でしかない。



 御霊みたま信仰は宮廷に始まった。

 滅ぼした相手の祟りを恐れた。

 それに加えて疫神の呪符的要素を義朝に体現させた。

 これも古い信仰だ。

 飛び切り強くて残虐な武士がいい。それが同時に災害除けを兼ねる。


 うってつけの領主が隣村にいた。

 長田喜六郎忠勝、清右衛門白政の兄弟だ。

 ともに家康に仕え鷹預かり、鷹場預かりとして旗本になっている。


 従兄弟は古河七万二千石城主永井直勝である。

 家康の曰く、

 ──長田は義朝を討たる逆臣の氏なれば、長田あらためて永井なるべし。


 その弟、永井白元も相模国東俣野にも所領を持つ三千五百石の大身の旗本だった。

 奇しくもこの川の流域に、義朝殺害の長田忠致の、正確にいえば忠致の兄の子孫三人が地頭になったいたことになる。

 多分、忠勝が最初に義朝を祀ったように思える。義朝御霊に対する怖れと村民の長田姓への反感情を鎮めるとともに、災害除けの願いを込めたと考えられる。それが徐々に下流域に広がっていった。


 鯖については薬効とともに、疫病除けを加えて左馬神社に掛けたのだろう。

 強い武将にはその効験もあった。


 その傍証になるか分からないが、支流の和泉川流域、和泉村のさば神社の祭神は源満仲だ。領主は松平勝左衛門昌吉。

 十八松平氏、能美松平だ。

 そうすると同じ源氏でも義朝は傍系でしかない。

 それを潔くとせず、祖の左馬頭、満仲を祭神にし、村の鎮守として左馬神社を篤く崇敬し、松平家累代の祈願所とした。



 武士は多く利害のために人を殺す。

 そのほか面子、面目のため、代償の行為がないため武勇を競う。

 それによって人というものは何を得るのだろうか。

 降りかかる火の粉を払っただけなのだろうか。

 通らなければならない道であるのだろうか。


 朝廷にすれば、夷を持って夷を制する政策を続けていただけに過ぎないだろうが、その夷の中に新たな仕組みと倫理が芽生えたのだろう。

 争いは人の本性に組み入れられているように思える。

 無用な殺し合いにならないような仕組みができる。

 無闇に百姓を斬ってはならぬ、言い分があれば百姓は訴えろという。

 それが保証だ。争いが抑えられ、それを文化と呼ぶ。

 殺しあうのは野蛮なことだ。生かさず殺さず、それが最良の施政だ。

 それに甘んじる代わりに為政者の務めを果たしてくれ、というのが村民の願いなのだろう。

 ある人が殿様の子に生まれるか百姓の子に生まれるのか、その子は選べないのだから、大きな意味はないのかもしれない。

 他の人の生を生きることができないのだから、自分で精一杯生きることにしか意味はない。

 皆が殿様でも困るし、適した人がその役目をすればいいのだろうが、それをどうやって判断すればいいのだろうか。




   二



 兵助は家に残って虫干しをかねて、書類の整理を始めた。

 村役の仕事に人別改めなどの調査がある。

 仏に階層があるかはわからないが、僧侶や寺院には階層がある。それは世俗を映している。そして独自な権力を作り上げる。律令の大寺は官寺であり権力の保持を目的としている。権門として経済的基盤を持ち、現在に至っている。

 また神も仏をよろこぶということにし、あるいはこの地では仏は神の姿をして現れるとする。

 社僧(別当)が祭祀を仏式で挙行し、たいていの神社に別当寺があり、格式が高いとされた。


 いま民衆と寺の結びつけは政治的に利用されている。

 公の寺院は寺請制を施行し、その権能を所有しない寺院は庵である。寺と称しても住僧を住持とはいわない。住持は役人であって、身分制度からはずれ、領主の安穏と武運長久の祈祷が義務付けられる。

 寺請制の実状は、各家各人が切支丹やその他の邪教徒でないことを証明し請印することだ。それによって社会的な生存を可能にして、同時に様々な経済的、労働的負担を負うことになる。その元になる書類が今兵助の作っている宗門人別改帳だった。


 仏さえ取り上げられ、疎まれていると感じるようになる。

 実際なにを望んでいるのだろうか。 仏のことなど語る資格は兵助にはない。


 どこの寺の檀家になるかは、村民の勝手だった。だから村民がどの檀那寺であるかを示す書類を作らねばならなかった。それも村役の仕事だった。

 大部分が四つの寺に分類された。地域と宗派、先祖の問題だった。檀那寺を変えることはほとんどない。寺との関係は信心というより交際のようになっている。僧は人格的な威厳があった方がいい。厳しい修行は精神的、肉体的な威光をもたらすはずだ。仏になろうとしている人でなくてはならない。

 虚像なのかもしれない。観念で思い浮かべただけのものに過ぎない。だがその表象は何かを暗示している。

 火を取り出す人がいる。しかしそれはあやかしに過ぎない。燃えたとしても、それが意味をもつわけではない。火打ち石を打てばいい話だ。自然は肉体にあって、精神は肉体に宿る。兵助には悟ることはできない。


「はかどっていますか」

 と、るいが訊く。

「もう終わるよ」

 と答えた。

 念仏の教えは、南無阿弥陀仏と唱えれば浄土へ往けるということだ。それだけだと、兵助は理解していた。


 子供たちも戻ってきて食事になった。子供たちには子供たちの仕事があった。農家では子供も働き手だった。言われたことをやるだけだったが、いつも遊んでいるわけにはいかなかった。友治と団治を連れて、伸びた垣根の枝を刈った。敷地の草取りも二人の仕事だった。



 組頭の源右衛門が来たのは、七つ刻だった。

 世間話というわけではなさそうだった。

 定右衛門のところが分散するという。

 破産だ。近年思わしくなかったのだが、この間の嵐で畑がやられ、今年の年貢も払えないという。組で助けもしたが田も質に入り、どうにもならない状況で、財産を整理して借財に当てることになる。

 兵助にできることは、書類を作ることだけだ。


 あと、御林の立ち入りは禁止になっているのに、薪を刈る者がいるので取り締まってくれという依頼だった。源右衛門の新開畑の先にあたるので、気になるし自分が疑られるのを懼れたかもしれない。

 この場合、村民全員の念書をとることになる。当事者とそれを見逃した者への罰則規定も盛り込まれるだろう。

 村の林の多くは入会地になっている。生活に必要な下草や薪を刈ることになる。畑に開発する時は地頭に冥加金を払って権利を得る。御林は幕府の直轄地で、村で管理されている。村境に残された土地だ。


 源右衛門は兵助と同年代で昔からの知り合いだった。律儀な男で、顔つきまで厳つい。それでも親しい者には軽口も叩く。用件を片付けると雑談になった。

「近ごろ女房の様子がおかしい」

 と云う。

 家事は普通にこなすからひどくはない。源右衛門は大げさに言ったりする性格でないので、本当に困っているらしかった。

「どんなことがあるのかい」

「それが難しいのは、これということがないのだ。例えば気がつくと、ふっと後ろに立っているとか、土間にいたはずなのに勝手に上がっているとか」

「それでは、どちらがおかしいか判らないな」

「説明するのは確かに難しい。一度家に来て女房と話してみてくれないか」

「家族のものはどう言っている」

「聞いて見るわけではないのだが、子供は何も感じないらしい。ただ、お袋が首をかしげていることがある。親父は気が付いていない、と思う」

「話していて変だと思うことはあるのかい」

「内容はおかしくないのだが、違う人と話しているような気がする」

「お前さんのほうがおかしいように聞こえるな」

「はっきり言って、それならそれでいいのだけれど、悪いことが起きなければいいがと思うのだ」

「わかった。あしたでも寄ってみることにするよ」

「助かるよ、昼過ぎなら女房はいると思う」


 困ってはいるが深刻というわけではないのだろう。

 いやな予感がするらしい。

 兵助はなにも感じなかった。ただ冗談にするには源右衛門の顔が暗かった。

 誰にでも一つや、二つの悩みはあるし、家庭の事情というのもある。社会的に立派な人が家で疎んじられていることもあるし、逆もある。

 源右衛門の親は隠居をしているが、まだまだ元気で仕事もしていた。子は三人で女房はかねといった。奉公人も二人いるはずだった。村の中でも恵まれた方だし、羨む人もいるだろう。かねは隣村のやはり村役の家から嫁いできた。村はある意味運命共同体だから、ほとんどのことは誰でも知っている。一つの家族のようでもある。

 源右衛門はかねの何かを恐れているのだ。取り越し苦労であればいいのだが、多分そうだと兵助は思っていた。




   三



 次の日は風が強く涼しかったが、急激に天気が崩れるかもしれない。ただ雨が落ちても続きはしないだろう。一番心配は嵐がくることだったが、風向きが違った。雲がどんどん東の方向に流れていった。手を広げないで、一日でこなせる作業をするよう平左衛門に伝えておいた。

 昼まで仕事をして、るいと家まで戻った。

 るいには詳しい話をしないで入村の源右衛門の所へ向かった。変なことを勘ぐる奴もいないだろう。

 入村は近い、寺の横を過ぎればもうその集落になる。入り口に高札場がある。辻の先が源右衛門の屋敷だった。敷地は道に面して兵助の家とは反対側になる。


 突風が吹いて土埃を叩きつけた。


 家は鉤型になっていた。隠居部屋を増築したのだろう。開いている潜り戸から内に声を掛けると、返事をしながら奥から「かね」が出てきた。水を使っていたらしく布で手を拭いていた。

 兵助は言葉を用意してこなかった。だから詰まってしまって、かねを見つめることになった。髪に手ぬぐいを巻き、きちんとした身なりの女だった。表情に不自然な所はなかった。

「なにか」

 と最初にかねが言った。

 当然そういう展開なのだろう。兵助が何か言わなければならない。

「少し手間を取らせるかもしれないが、話を聞かせてもらえるかな」

 かねはまごついた様だったが、とりあえず

「どうぞ」

 と言って兵助を中に入れた。もちろん兵助を見知っていたからだが、まごついているのは兵助の方だった。

「どんな御用ですか」

 と、土間に入るとかねは尋ねた。

 兵助はどう切り出すかまだ迷っていた。

「きのうご主人がみえて、それで来たのだ」

「そうですか」

 と言って、かねは奥に行った。

 湯呑みを持って戻ってきて、上がりかまちの上に置いて勧めた。

 髪の手拭と前掛けは取っていた。

 兵助は框に腰掛けた。かねは立ったままじっとしている。

「いただきます」

 と言って、茶を一口含んだが、考えはまとまらなかった。

「藤左衛門の所の畑はそんなにひどいのかい」

「確かにそうなのですが、籐左衛門さんも不幸が続いて、やる気が失せてしまったようなのですよ」

「そうだな、この三年で親と女房を亡くしているからな」

「娘さんは嫁いでいるからまだいいのだけれど、若い衆は二人とも手伝いに出ているようですよ。うちの人も親身になって面倒はみたのだけれど…」

「娘も心配はするだろうが、どうなるかな。本人がしっかりしていないと」

「辛いですね」

 と、かねは顔を曇らした。

「ところで、お爺お婆は元気なのかい」

「どうなのでしょう。家にいても仕様がないので畑には行きますが、古い畑だけで手一杯のようですよ。もちろん健康ですよ、よく食べるし」

 微妙な感じだが、裏の畑を二人で管理しているとしたら大したものだ。

 兵助もそうありたいと思った。それが人として幸せなことだ。籐左衛門だってそう願っているはずだった。働けるうちは働いて、天命を全うしたかった。かねは何か不満があるのだろうか。

 兵助は立ち上がった。

「手間を取らせたね、最後に御林のことだが、出入りしている者に心当たりはあるかな」

 かねは少し考えていた。

「多分、島津の人たちだと思いますが、はっきりはわかりません」

「見かけたのかい」

「刈られている場所です。家の畑を通るのは不自然で、島津の方から入ってきています」

 礼を言って兵助は引き上げた。

 かねは人の見えないことに気がついてしまうのだと思った。相手に緊張を強いるのかもしれない。


 外に出ると空が黒くなっていた。風は止んでいる。雨がぽつりと落ちてきた。

 そのとき角を曲がって、ちよが早足で歩いてきた。

 この娘はいつも弾んでいるな、と兵助は思った。

「ちょうどいい所で会った、寄ってください」

 と足踏みする感じで言った。

 それで付いて行くようになった。大きな籠を背負い両手で荷物を抱えている。勘助の所に馬はない。

「雨が来そうなので先に戻ってきました」

 首を少し曲げて話し掛けた。

 八坂社は入村と久保を分けている。すぐ近くだった。


 ちよは荷物を下ろすと湯を沸かしていた。家は無人だった。振り返りながら色々と喋っていた。母親が会って礼を言いたいこと、勘助や姉のなよが明るくなったこと、熊蔵が手伝いに来ること、地震にびっくりしたこと……。

 兵助は子守唄のように聞いていた。かまちに腰掛けて、茶をもらった。雨は音を立てて降りだした。

「もよから便りはあるかい」

 一度あったと言う。短い文で、迷惑をかけて申し訳ない、元気にしているので心配しないように。家に戻ることはない、と書かれていたらしい。

「でも姉さんにはきっと会える気がする」

 と、ちよは言った。

「がんばっていれば」

「そうだね、くじけてはいけない」

「もうすぐ七夕ですね」

 ちよは遠くを見るように言った。ちょうどそのとき稲妻が光り、顔を見合わせると雷鳴がした。驚いてちよはうずくまり、そのあと照れたように笑った。それからかまちに腰掛け、二人で外を見ていた。

「ところで、源右衛門のところの嫁はどんな人かな」

「怖い人」

 具体的には何も言わなかった。悪口になると思ったのだろう。


 雨は半時も経たずに上がった。

 しばらく雨がなかったから一息ついた格好だった。そのまま降っていれば、人々も家に戻ったかもしれないが、ひと時休んで作業を続けているだろう。兵助もここでいつまでも休んでいるわけにはいかなかった。



 次の日は施餓鬼せがきに寺へ行った。

 叔父の兵太夫の年忌にあたるので卒塔婆そとばを書いてもらい、お経をあげてもらった。

 叔母の「かの」と二人で行った。亭主を亡くし哀しみはあるのだろうが、昔のままで生き生きとしていた。息子も跡を取り、安心もしているだろう。亡くなった親父とは仲の良い兄妹と聞いているから、兵助のことを不憫にも思っていただろう。

 寺の住職との話になり、祖父の祖父が先祖の菩提寺として照浄院を建立したという。寛文年間のことらしい。

 それには四人の人物が関係している。

 まず無住だった寺に芝増上寺からやって来た善雲住持。

 慶安二年(一六四九)五石三斗の朱印寺になったからだった。

 そのとき随行してきたらしい正雪。

 先祖といわれた七右衛門。それに祖父の祖父伝太夫だ。


 寺には素人彫りの如来立像がある。

 それが当時の本尊とされていたかもしれない。

 その墨書には,

「守本尊 正雪の戒名菩提 万治三年(一六六〇)八月十五日の書 七右衛門 戒名 花押」

 と銘されているらしい。

 正雪は善雲の庇護者であっただろう。七右衛門は正雪の徳を慕い立像を作らせ、念仏を唱え守ったと思われる。そして自分の死期を悟り、善運に立像を託し、重ねての供養を願った。

 後代になって、それを聞き知った伝太夫が七右衛門を偲び、菩提を弔うために阿弥陀如来の像を造り、庵を建立したのだろう。それを寺の末寺と住持が認めた。


 寺創世の頃の話だった。

 その後だいぶ経って、格式に応じた本尊像が名のある仏師によって造られることになる。

 叔母は感心して聞いていたが、兵助にはうまく理解ができなかった。正雪と七右衛門の関係がよくわからない。

「正雪は僧侶だったのですか」

「そうではないように思えますな」

「ということは、なぜ住持に随って来たのでしょう」

「因縁かな」

 と住職は微笑んだ。

 その因縁に七右衛門も感染したのだろう。



 平左衛門が呼びに来た。源右衛門が来ていると伝えた。

 上り框に腰掛けていた源右衛門はひどくやつれていた。心労で体までおかしくなっているように見えた。

「眠れないのだ」

 と振り絞るように言った。

「何が心配なのだ?」

「おかしな事が起きるのだ。今日も奉公人を里に帰すので給金に一分金を渡そうとしたのだが、数が合わない。それを女房に言って、振り返ると足元に一分金があった。呪われているのではないかと思うんだ」

「誰が誰を呪うのだ」

 源右衛門は考えているようだった。というより迷っていた。


「女房に狐が憑いていまいか」

 首をうな垂れようやく言った。

 何かが憑いていないとも言えない。ただ兵助が会った時はわからなかった。そんな憑きかたがあるのだろうか。自分でそれをあしらえるとすればそれは能力だ。人に悪さはしないだろう。邪悪の意思など想像できなかった。そんなものがあるとすれば、とうにこの世など終わっているはずだ。

 人はたやすく死ぬ。生れる前から死に、生きているのが僥倖のようだ。反対に言えば生きていることで何かを殺しているのだ。怖いのは人で、幸せであることは辛い。


「屋敷に稲荷の祠をたてればいい。家族で祀ればいいんだ」

「それで収まるだろうか」

「収まるように祈ればいい。鎮まるはずだ。神は現れるが姿を見せない。小石でも置いておけばいい。ただし供え物を欠かさずに、毎日自分たちが食べるものを捧げ拝むことだ」

 源右衛門は納得したのか、しなかったのだろうか、礼を言って帰っていった。

 あのままでは命も危ない。




   四



 庚申様のお日待ちに出かけた。宗教的行事というより寄合の慰労親睦会になっていた。若い衆は来ない。

 戸主である年寄り連中が集まる。夕飯の終わったあと五つ半刻につまみや酒を持ち寄る。本来は由来があるのだが世間話や昔話をして、共通の話題にする。共有する知識といっていいのだろうか。


 源右衛門は祠を建てたようだ。


 毎日熱心に拝んでいると言う。

「そんでもってよ、嫁やお爺、お婆まで勧めるもんだから、大変難儀だとこぼしていたっけ」

 と向かいの爺さんが言う。

「そりゃ罰があたる。神仏は大事にしておかなきゃだめだ」

「そんだけんど、源右衛門とかぁ、ごうつくだべぇ。いまさらどうしたかってことさぁ」


 人には色々事情がある。

 神仏によって本人が救われるとするなら、それはそれでいいのではないかと兵助は思う。

 どうにもならないことは誰にもあるよ、と兵助は言いたかった。

 ただ弱みに付け込んで、それを商売にしたり騙している連中が多すぎるのだ。現世のご利益を願うのなら同じムジナ、と言えなくはないけれど。



 佐右衛門が寄って来て、助郷の人選でもめごとがあるという。

 村の道は自分たちで普請した。若衆が主にやることになるが整備し管理した。

 街道は知行主に負わされていた。

 結局割当てを村役として村が負担することになる。これは金で決済されるが、大きな街道は道中奉行の管轄で助郷の制度があった。

 例えば東海道の戸塚の宿の代助郷に村はなっている。

 近場の宿、藤沢、戸塚には百人の人足と百頭の馬がいて、次の宿へ荷物を運ぶことになっていた。

 それで足りない分の人馬を助郷の村から出すことになる。

 大きな行列があれば当然足りなくなるので近くの村に何名との割当てが来る。それに従って村人は時間までに出頭することになる。荷物を運べば手間賃をもらうことになるが、問題は日を選べないことだ。農繁期でも働き手を出さなくてはならない。その代わり中原道の助郷からは外れていた。


「順繰りにはいかないんですよ」

 要するに奉公人を使っている家では人足を出すのにそれ程の負担はないが、家族でぎりぎりやっている家は人足に取られたら差支えるということだ。


「大きな支障が出るようなら嘆願を出すようだが、何とかやり繰りしていくより仕方がないんじゃないのか。ご苦労だが骨を折ってくださいよ、頼みます」

 兵助はそう言うほかない。

「原則は全戸でということだが、不満の出ない程度に割振りしても構わないんじゃないかな。任せますよ」



 境川には村域に三つの堰がある。

 その内の島津堰普請にさいして土取り場をめぐり、堰下三十六戸の農民が地頭に訴えをしたことがあった。

 本所の屋敷に出向いたところ、たまたまそこに寺の住職が居合わせ仲介してもらった、と言われたが実際は少し違う。

 集団での訴えはそもそも認められないのだから、調停する住職がいなければ初めから成立しない話なのだ。

 問題は島津堰が大破しているので多量の土を必要としていることと、堰普請は本家分家領問わず、堰を利用する部落で行なうことだった。

 本所様の御林からだけの土で作ってはまずいと考えられる。

 本所、番町両屋敷の協力が必要なのだ。

 寺の裏の諏訪山と呼ばれる御林の一部が崩れたのが発端になる。もともと堰の土取り場に苦労していたので、そこを利用させてもらえないかと考えたわけだ。御林は入会い地になっているが復旧できないので、危険でもあった。

 住職はそれを知っているから、村人と話しあい、先に屋敷に出向いていたことになる。

 結局、両地頭から一反ずつをそれぞれの御林内から下さることになった。それを三堰で分けた。その取り決めの連印証文を兵助が書くことになった。


「今年も出てこない連中がいました」

 これも全員参加が原則だが、一家で一人出れば間に合うことにはなる。前に問題になったのは参加して飲み食いしながら仕事を手伝わない者がいたことだった。細かいことを言っていたらいろいろと問題が出てくる。それより一番の問題は皆がばらばらな考えを持って、共同の在り方が崩れてきてしまっていることだ。

「強制することでもないだろう。話をして参加を促してくれ。聞かない者がいたら知らせてくれ、話してみるよ」

 堰を利用していない、と思うものは田を持たないものでもあるが、村の一員であることは間違いない。村民であることの共同性が薄れている。


「最後に、並木内の畑の事です」

 本当はこの事を相談したかったのではないだろうか。

 延宝期までの開発は、本畑の地続きに切添えされ耕地化していった場合が多い。費用も余りかからなかっただろうし、年貢も低く設定されたから採算の取れる事業だった。が、それも大半が開発し尽くされた。

 以後の開発は少し事情が変わってくる。

 享保九年(一七二四)徳右衛門は、番町方の領地の開発を申し出る。領主とすれば徳右衛門が本所様の名請け人でも江戸の町民でも構わないということになる。

 要するに八十両で土地を買った。

 当然そこから年貢を払うことになる。相場より少し安いかもしれない。新開完成耕地を小作地として貸し付けることに成功すれば問題はない。しかしうまく行かない時もある。

 久右衛門らが請け負った大野の開発も細々と続けられているに過ぎない。これもいずれ手を打たなければならないだろうが、それよりも兵助に託されていたのは沢柳原並木の内と呼ばれる土地のことだ。もう最初誰が開発に入ったかも分からなくなっている。


 ──その方両人役儀相勤めるうち、預けるので開残し跡、改発すること。

 荒地になっている土地をかつてのように耕作できるようにしろということだ。

 といっても殆どは手が付けられていない。

 両人と言うのが兵助と佐右衛門になる。

 年貢割付け状では高が七石五斗八升、反別が五町一反余。半分から組頭の給分をだし、後半分の年貢、七百四十四文は兵助が負担しろと言っている。兵助の給金の半分だ。それでも兵助は六反ほど畑にした。あとは少し難しい。荒地のままになっている。誰か本格的に係わる者がいなくてはならない。


「例え開発しても権利が生れないのではないですか」

「開発すれば冥加金は負けてくれるだろう」

「やはり割に合わない」

 佐右衛門は納得しない。

 確かに組頭でいるときは預けられているとして、その後はどうなるのだろうかということだ。兵助は年貢分くらいは収穫しようとしただけだ。兵助分のほうが条件はよかった。佐右衛門は殆ど一家で三、四反開墾したが取り分はどうなっているのか。


「地頭は一種過料のように考えているのではないかな。開拓を許可したのに進んでいないのは村のせいなのだという風に。当然入ってくる年貢を村役で負担せよ、と」

「勝手なご言い分に聞こえますね」

 畑に手が入らなければすぐ荒地になってしまう。人がいなくなれば地頭の所に年貢は入ってこない。近隣村の耕地開発が進めば条件の良し悪しが小作地の貸付値段にも影響する。江戸に奉公に出る者が増えれば、人も足りないし、給金も上がることになる。新規の開発も割が合わなくなってきているのだ。


「あまりまともに考えない方がいい」

 反対に言えば村民に少し余裕があるということでもある。ぎりぎりではあるが、前に比べれば何とか耐えられるようにはなってきている。


 今はだ、これから先は分からない。

 と、兵助は思った。



      この編、完了。   

さば神社関連の図書、参考にさせていただきました。

今、手元にないので追って、詳細は発表します。

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