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訴状

 



 一



 三日後大雨が降った。

 二昼夜降り続き暑さを持っていった。

 その後四、五日、日が差さず冷たい風が吹いた。それから晴れた日は乾き、曇りの日は湿った。雨が降って蝉の代わりに虫が鳴き、寝苦しい夜が去った。

 沈んでいた心は澄んできたが、底に不安が潜んでいた。兵助は等身の自分を見ているはずだし、そこから世の中を見ているはずだった。それなのに徒労感のようなものに襲われるのはなぜなのだろう。自分が無力に感じるのはなぜだろう。何を望んでいるかさえ分からなくなってくる。

 世の中になにもないことはないのだから何も見ていないのだ。自分を止まった者としか見なさないからだ。日々動き刻々変わっているのにそれに気付いていないからだ。

 ──耳を澄まさなくてはならない。

 子が七人いるのは村でも少ない。経済的理由によることが多いが乳児に死ぬ率も高い。だから三歳までは員数に入れない。あっけなく子は死んでしまう。団治が生きているは幸運だった。その子の生は天命だ。親は嘆くが重くは受け止められない。間引かれる子も後を絶たない。六歳まで子は人の世に属してはいない。疫病の怖さは分かっている。といって次々と死んでいく子を見ても打つ手はない。理由も思いつかず慄くだけだ。せいぜい魔よけや祈祷をするにすぎない。弱ければ大人も倒れる。天変地異や疾病に対抗する術はない。黙って頭上を過ぎるのを待つしかない。

 といって生の儚さに不安を感じているわけではない。死の予感に怯えているのでもない。すべてが終わってしまったわけではない。ここから始まるものもある。若い連中はここから生きていかなくてはならない。辛いかもしれないがその中で楽しみを見つけていくのだろう。人の暮らし方そのものが変わるわけではない。社会が変わっていくだけだ。よりよい社会と願うだけだ。

 ただそのことについても見通しは暗い。生産の拡大が地平を切り開くだろうが、制度が追いつかず器が一杯になる。どこまで言っても繰り返しだが経験をいかすこともできるはずだと思わなくてはならない。たぶん同じ失敗はしないはずだ、と思いたい。そのためにもしっかり生きていかなくてならない。妥協していては先には進めない。

「どうかしましたか」

 るいが言う。呆けた顔をして外を眺めていたのだろう。今日は昼から年貢勘定目録に載せる経費を調べていた。村が上納した年貢の明細と実際の納入金額、日付の内訳だ。精算して江戸に届けねばならない。


 大雨で村の北側の原で被害が出た。そこは先が堀と呼ばれる窪地になっている。小作地の多い所だがひどいという。収穫間近の作物がやられたらしい。そのわりには田かたの方は無事だった。全体とすれば減免の基準にいたらないだろう、というのが多数の判断だった。村としては何もできない、と兵助も思った。

 名請けであればまず五人組が連帯で租税の負担をすることになる。地類なりで村人の誰かが助けることになる。建前としては税を払わなければ懲罰になるが、実際にはそんなことはない。最悪、走りといって村から逃げ出す、それも他村の親戚の所に行くということだ。身請けがあればそこで人別帳に載ることになるから無宿人にもならない。違法ではあるが妻子を残した場合、ほとぼりが冷めて戻ってくることもある。無高の場合そもそも税がかからない。問題は食えるか食えないかだ。最良の解決法は小作料をまけてもらうことだが、それは当事者の交渉だから村から何かいう筋合いではない。

 そもそも年貢の徴収は十月に地頭から年貢割付状が送られてくることに始まる。

 もう何十年も同じ文面であるし、村人も自分がいくら払うものかは承知している。だから村役は各々の年貢高を確認し通知するだけだ。そして五人組なりで割当てを金納すれば済むことになる。


 だから、収穫の終わったころ訴状が投げ込まれた時は驚いた。内容もそうだが、まず兵助のところに置かれたことが不可思議だった。訴の宛名は坂本氏であるが兵助の領主とは違う。吉兵衛ならまだ分かるといった具合だ。間違えとも思って読んでみると余計わからなくなった。真意が見えてこない。小作の半減引き方を望んでいる。番町屋敷に出向いたが受け取ってもらえず兵助の所に置いていったらしい。助けを求めているのだろう。ただやり方がでたらめだった。騒ぎを起こせばどうにかなると考えたのだろうか。

 百姓一揆の噂は聞えてくる。切羽詰ったのだろうし、失うものもなかったのだろう。首謀者が処分され少し改善されれば上出来なのだろう。そういう状況とは違うような気はするが、捨ててはおけなかった。なぜ兵助のところにかが問題だった。地頭屋敷で受け取っていたら大変なことになった。処分は免れないし村役にも責が回ってくる。吉兵衛は何も知らないだろう。知ったらどうするのだろうか。皆で集まって善後策を講じなければならない。村の中で押さえて解決しなくてはいけない。処分者を出すことは無意味なことだ。訴えを出すことが愚かで得にならないことを納得させねばならない。そのために最初に何をするべきなのだろうか。まずこの書を置いていった人物に会わなくてはならない。

 熊蔵を呼んで事情を調べてもらった。その間に吉兵衛に会いに行った。

 訴状を見せると俯いて考え込んでいるようだった。最後に手を広げて顔を上げた。苦笑いのように見えた。兵助は訴状を受け取った。

「困りましたな」

 吉兵衛は決して質問しないし、自分から動かない。だからいつも違和感を覚える。兵助が何か言うのを待っているのかもしれない。あるいはこのまま帰っても気にしないのかもしれない。そう考えると兵助のほうが早急なのだろう。放っておけばそのまま収まるのだろうか。直接兵助に関係あることではないし、間違えて置かれていたと告げればいいことかもしれない。吉兵衛は考え続けているのだろうか。

「とりあえず私の方の事なので任してください。追って伝えますので、今日は有難うございました」

 やっとそう言うと立ち上がった。会見は終りということだ。この後村役を召集するのだろう。

 これで良かったのだろうか。吉兵衛に知らせないわけには行かないのだからこれしか道はない、と納得するしかない。言いたい事もあったがそのまま帰ってきた。



 村が騒然としていることはないが、重くのしかかる雲のように覆ってくる不穏な空気があった。多くの百姓が貧窮し富が偏り始めている。健全な小農民が成り立たなくなって、隷属するようになっているのだ。結果的に領主への負担が大きいのだろうし、商品という町からの影響があるのだろう。ぎりぎりのところで生かしておくべき農民が崖を落ちかけてしまっている。これは失政なのではないだろうか。旗本の統治に期待すべきものがなくなっている。領主自体が火の車なのだ。それは幕府についてもいえるのだろう。

 一面、村の発展が頭打ちになっていることをも意味する。開発は進んでしまい生産の量がもう上がらなくなり、村として成熟してしまった。もっと言えば社会全体が行き止まってしまった。器が限られれば弱い者が沈んでいくことになる。多くの者の生存が一部の勝者に握られることになる。


 熊蔵が若者を連れてきた。勘助と同年代なのだろうか、気の強そうな顔をしていた。緊張している。熊蔵とどんなやり取りがあったのだろうか。調べろとはいったが連れて来いとは言わなかった。

「杢左衛門です。話がしたいというので連れてきました」と熊蔵は言う。

「聞こうか」と言って框に兵助は座った。二人は立っている。杢左衛門は話し出さない。

「それではこちらから訊こうか。悪いようにはしないから正直に答えるんだ。まずあの訴状は誰が書いた」

「おれだ」悪びれた様子はない。

「地頭屋敷にはいつ誰と行った」

「おととい夜に勝右衛門さんと源左衛門さんとで出かけた。朝着いて屋敷を探したけれどはっきり分からなくて、門も閉まっていたのでそのまま帰ってきた。それでは仕方ないので村役さんの所へ投げ込んだ」

「どうして吉兵衛さんのところにしなかったのだ」

「そのまま捨てられそうな気がした」

 確かに兵助ならおせっかいを焼くと思ったのだろう。

「熊蔵さんに相談しようと思ったけどできなかった。本当に親子三人食っていけないんだ」

「あっしからもお願いします」

 と熊蔵が口を挟んだ。

「こいつは早く親父を亡くしてお袋と妹の面倒を見てきたんです。悪い奴じゃないんですよ」

「訴は内容の是非に拘らずご法度なんだ。そこを分かっていなくちゃならない。いいな、訴状は俺が預かっておく。考え足らずということで大目に見よう。地持ちには吉兵衛さんの方で掛け合ってくれるだろうから、おとなしく待っているんだな。後の二人にもこちらへ来るように伝えておいてくれ」

 礼を言って杢左衛門が帰って行ったあと、

「どうなんだ」と熊蔵に尋ねた。

「へい、今の話に違いはないんですが、三人だけで仕組んだとは思えないんですよ。三人とも関の連中ですが部落ではほとんど皆この事を知っているんですよ」

「どういう事だ」

「江戸に行くことは知っていたということです。誰か焚き付けた奴がいるんじゃないかと思えるんです」

「腑に落ちないな。そんなことをして誰が得をするんだ」

「脚を引っ張りたいと考える輩もいるんじゃないでしょうか」

 ──そういう問題なのだろうか。そうだとすれば馬鹿げたことだ。

「あいつらは利用されただけですよ」

 であれば何が目的なのだろう。

「組頭が絡んでいると」

「そこまではどうですかね」

「地持ちは誰だ」

「徳兵衛と八右衛門です」

 徳兵衛は島津の本家領、八右衛門は久保の分家領。二人とも質屋をしている。

「するとおれの役は何になる」

「こう言うと言葉は悪いですが、立会人ですかね」

 三文芝居の観客だった。


 しばらくして二人がやってきた。三十歳過ぎのが勝右衛門で、源左衛門の方が少し若かった。兵助は説明して質問した。年上の方が答えた。字がうまく書けないので杢左衛門に頼んだこと。地持ちに話したが聞き入れられないので、訴のことは自分が持ち出した。相談する相手は他にいなかったこと。名請けはしているが大半の田畑は先代のころから質地になっていること。家族のこと、食えないこと。

「ところで部落の者が皆知っていたのはどういうわけかな」

「知らせるつもりはなかったんだが、夜出かけるときに人に会ってつい江戸へ行くことを喋っちまったんだ」

「その人は何て言った」

「最初は止めたけどあとでは気をつけろよと送ってくれた」

「その人は誰だ」

「名前は言えない」

「その人が皆に話したのなら訊けばわかるぞ」

「組頭の倅の又蔵さんです」

「それでは訴については誰から聞いた」

「江戸に奉公に出たとき聞いたことがあった」

「もういい。家でおとなしくして待っているんだ」と言って、二人を帰らせた。 




   二



「先の連中に十人ぐらい加わって諏訪社に集まっています」

 熊蔵が知らせにきたのは日暮れ前だった。

「様子はどうだ」

「今の所は騒ぎ立ててはいないですが」

 ──まずい展開だな。

 あれから五、六日経って片がついたのかと思っていたが、そうは行かなかったようだ。

「寺へ行って住職に頼んで話を聞いてもらってくれ」

 兵助が駆けつければ、公のことになる。もう少し様子を見ていなくてはならない。気はもめるが風呂に入って飯を食った。


「酒が一樽入って飲み始めました」

 熊蔵が戻ってきたのは、ちょうど食事が終わった時だった。

「住職はどうした」

「まだいます。話はしていますが、聞く耳は持たないという感じですね。ただ追い返すというほどでもない」

「酒は誰が差し入れたんだ」

「それがはっきりしませんが」

 熊蔵は首を回して空を見た。

「どうも徳兵衛さんじゃないかと思うんですが」

 ──徳兵衛は地持ちで連中が訴えている相手じゃないか。

「よくわからないが、ただ四斗樽を用意できる者は限られているな。それで首謀者はだれかな」

「又蔵はいましたね。住職が話しているのはこの間ここに来た三人ですが、かえって回りの者のほうがうるさそうでした」

「やはり関の者か」

「それに島津の連中ですね。少し人数が増えました」

 諏訪社は島津にあるから聞きつけて集まった者もいるし、酒が入れば騒ぎ立てる輩も出るだろう。

 ──さて、どうするか。騒ぐのが目的だから一騒ぎさせて解散させるのがいいのだろう。又蔵がいるのなら余計、親の組頭と島津の組頭に説得させるのが筋だ。それでそのあと連中が納得するかが問題だな。

「とりあえず、関と島津の組頭を呼んでくれ。あとは戻らずにそのまま諏訪社に張り付いていてくれ」

 常助と平左衛門を呼んで一緒に行かせた。

「すぐ戻るから誰か来たら待ってもらってくれ」

 るいに告げて外に出た。吉兵衛に話を聞いてこなくてはならない。

 吉兵衛は家にいた。

「騒ぎになっているようだ」と言う間にも、落ち着かなく目があちこちに飛んだ。

「地持ちには掛け合ったのですか」

「それが組頭に諮ったら、相対が筋だろうということになって、見送った」

「他の手は打ちましたか」

「組頭から訴えを出した者に話を聞いた」

「結果は」

「小作の引き米が認められなければ集まって地頭に訴え出る、ということだった」

「一揆ですね」

「それは困る、待ってくれということで引き取らしたが、連中は数をたのんで地持ちに押しかけたらしい」

「いつのことです」

「今日、三、四人に分かれて地持ちを訪ねている」

「内容は」

「分からない。ただその後みんなで集まって諏訪社にこもったらしい」

 連中を結び付けているのはなんだろう。個々の小作には対抗の術はない。ただ小作人がすべて作業を放棄してしまえば地持ちも困ることにはなる。困った時は助けてくれよ、というのが彼らの言い分だろう。困るのは村役人もそうだ。領主から叱られることになるし、咎も受けるだろう。もちろん首謀者が一番罰を受けることにはなるのだが、嘆願すれば軽くなるはずだ。


 吉兵衛のところから戻ってしばらくして、又左衛門と六右衛門が並んで入ってきた。

「ご苦労様。さっそくだが、又左衛門さんの子が諏訪社にいるのは承知だね」

 又左衛門はひげの濃い、がっしりとした体格の男だった。兵助と同年代なのだろうか。

「申し訳ありません。目が届きませんで、尻馬に乗って徒党を組んだようです」

「他にも若い衆はいますか」

「五人は確認しています」

「六右衛門さんのところでは何人ぐらい、あそこにいるのかな」

「はっきりいえば、本所様の者はいません。うちの部落のものは四、五人いると思います」

「なるほど。若い衆ですか」

「それが小作でないものもいます」

 六右衛門は小柄で、ごま塩頭に手をやっている。

「どういう訳ですかね」

「勢いじゃないですか。元気のいい奴らです」

「たぶん今ごろ酒も回って気勢を挙げているでしょう。お願いなんですが、様子を見て引き上げるよう言ってもらえませんか」

 六右衛門はすぐには答えない。確かに簡単に請け負えるものでもないだろう。

「どうですか」

 又左衛門の方に声を掛けてみる。

「やってみましょう。家族のものを連れ出して引き取らせましょう」

「六右衛門さんもお願いします」

「わかりました。番長様の組頭にも話を通して引き上げさせます」

「このあと、どうなりますか?」

 又左衛門が訊いた。

「収まらない者がいるとしたら個別に話さなくてはならないでしょう。ただ地持ちに方策をとってもらわなくては、きっかけにならない。今日の掛け合いについて何か知りませんか?」

「すぐ断ったというのではなく、含みを持たせたようですよ」

「どんなことです」

「はっきりはしていないんじゃないですか」

「徳兵衛さんが酒を差し入れたというのは確かなんでしょうか」

「打ち壊しでも怖れて地持ちが、つけたということですかな」

 六右衛門が横から言った。

 百姓一揆を幕府は一揆とは言わない。多数による武装蜂起を一揆といって、島原、天草以来一揆はないとしている。ただ勢いあまって倉など打ち壊してしまうことはある。

 禁令によれば、何事によらず、よろしからざる事に百姓大勢申し合わせるのを徒党と呼ぶ。徒党して願い事を果たそうと強いるのを強訴という。また申し合わせて村方立ち退くのを逃散という。前々からご法度である、としている。

 また領主、地頭屋敷の門前へ大勢詰めよって、強訴したときは、頭取(首謀者)は遠島。門前にいた者は三十日あるいは五十日の手鎖。残った百姓はきっと叱り、程度により村に科料がかせられる。

 連中がするぞ、と脅かしているのはこのことだ。

 前の仕置きはもっと厳しかった。頭取は死罪。名主は重追放。組頭は田畑取り上げのうえ所払い。惣百姓村高に応じ過料、というものだった。

 もし領主にこの訴えが出されたとしたら、どうするだろう。筋を重んじる殿様だとしたら、小作人に救済米を出すだろう。そしておいて厳罰が下るはずだ。村役人は追放で、地持ちの田畑を取り上げたらみんなが喝采するだろうが、そんなことは起こらない。それをやるのは地持ちの連中だ。小作料の引きが難しいとすれば、救済の食料と種籾を与えることになる。名主の役が欲しければそれを要求するだろう。

 ──落としどころはその辺りだな。幕引きまでやってもらえれば助かるのだが、どうなるのか。


 二人と入れ替わりに平左衛門が戻って来た。

「遠巻きの員数は増えましたが、中はそれほど騒がしくはないです。住職は帰りました」

「番長様の村役は集まっていたかな」

「組頭は見ましたが名主さんは来てませんね」

 吉兵衛の対応がとりわけ悪いわけではない。自ら出て行って連中と交渉するのが得策だとは思えない。

「連中が本気で事を起こそうとしているようには見えないのだがどうなんだろう」

「今まであんなふうに人が集まることはありませんでしたから、本気かは別にして危なくなっているのは確かですね」

「いつでも起こりうる状態ではあるな。少し様子を見てくるからここに残っていてくれ」


 外に出る。冬の空気は澄んでいて満天に星がきらめいていた。火照った体に大気の冷たさが快い。騒動が起こっているような気配はなく静かな道が延びている。寺の石段を登った。住職を訪ねる。本堂に案内された。何か勤行をしていたのだろうか、経を唱え終わると対座した。

「先ほどはご足労をお掛けしました。お礼を申しあげます」

「いや、村の大事ですから構いません。諏訪社に集まっていた人々も力づくで何かしでかそうとしているわけではありません。得物を持ち出すこともなく、幟さえありません。悪党やならず者とは違います。だが、ご法度であることは説明しました。家に戻るよう説得しましたが聞き入れられませんでした」

「本当に有難うございました。ご住持様には感謝いたします。ところで、この事件を隠しておくわけにはいかないでしょう」

「そうです。報告しなければ地頭様よりお調べに来られます。だから解決して先にお願いしなければ罰が重くなります」

「主だったものというと誰になりますか」

「頭というような者はいませんね。小作人たちに同情して寄って来たという感じで、自分たちが大それたことをしているという気もないでしょう」

「騒ぎを煽っていると感じた者はいませんか」

「口が立つのは又蔵ですが、代弁しているといったようで先頭に立っているわけではありません。強硬なのは勝右衛門ですが、当事者の一人であるに過ぎません」

「地持ちの動きはどうですか」

「そこが難しいのです。八右衛門さんの所の者がいましたね。徳兵衛さんが酒や肴を差し入れたそうですし、どうなっているのか。それに後から来た者は単に酒を飲みにきただけです」

「煽っているのでないとしたら、地持ちは不穏な集まりでなくて、何かの寄合にしてしまいたいのかもしれませんね。それなら話は通る。どうですか」

「それで収まれば可能かもしれませんな」

「何とか収めて、地頭に報告は上げますので住職も協力してください」

「分かりました。様子を見てみましょう」


 寺を出て諏訪社に急いだ。山王者の前で熊蔵に会った。

「組頭が来て引き取らせました。いまそれを伝えようと戻ったところです」

「すんなり引き上げたのかい」

「親や嫁子供まで来られたら意気地がないですよ。ばつが悪そうで、取り合えず解散することになったようです。ちょうど酒もなくなった。裏がありますね」

「今日、地持ちへ押し込んで、つるんだ奴がいるのだろう。八右衛門のところに行った者は割れているかい」

「掛け合いに行ったのは皆、小前の百姓連なんですが、全員の名までは分かっていません」

「それは後で必要になるな、地持ち別に調べ出しておいてくれ。頭は分かるか」

「角兵衛さんと元右衛門さんは行っていますね」

「元右衛門は少し変だな。宮下の者が出て行くとはな。あと宮下から行った者はいるかい」

「作兵衛さんですかね」

「分かった。ご苦労だったな、休んでくれ」

「旦那は?」

「現場を見てくるよ。そうだ、常助はどうした」

「先に戻りました。お供します」

 そんなに時間はかからなかった。火の始末はしていったものと見えて明かりがなかった。慌ただしく出て行ったように雑然と物が転がり、今までいた形跡を残していた。誰か残っているような気がしていたが見事に空だった。

「手際がいいな。小半刻で引き上げた」

「親父が出てきたんで又蔵さんが説得したようです。今日はとりあえず帰ろうということでしょう」

「次があるかな」

「どうするんで」

「まず今日集まった者を定めなくてはな。それから主だった者を呼んで調べる。問題は地持ちの連中だが、呼び出すのは難しいな。そこは吉兵衛さんに任せるしかない」

「本所様の所の者はほとんどいませんからね」

「帰ろう。祭りは終わった」




   三



 このことは未来への序章なのだろう。これからいつでもどんな理由でも騒ぎが始まる。力で押さえつけることはできない。内部で疲労し、燃え尽きるまで収まることはないだろう。それがよりよい結果をもたらせばいいのだが。もっと怖いのは村人自身が壊れていってしまうことだ。自堕落と無法が村に浸透していく。崩壊させてはならない。より大規模な騒動が起きるとするなら、それにははっきりとした未来像と指導者が必要になる。

 結果は取った。地持ちが小作料の半減を認めて、種籾を貸し付けることになった。前例にしない、と領主に書き送らなければならない。


 吉兵衛がひょこっと現れた。

 名主は辞めると言う。

 なんとも言えなかった。詰め腹を切らされたのだろう。残念そうではなかった。春になったら店先で酒を飲ませる居酒屋を始めると言う。兵助にはよくわからなかった。

「あとは名主は誰が継ぐのですか」

「質屋だ」

 と吉兵衛は空を見て言った。


 結局、後始末は兵助がすることになった。事件は強訴にも及ばず、徒党を組んだことにもならなかった。連判状は作られていない。訴状はあったが兵助が処分した。といって寄合いでした、というわけにはいかないだろう。徒党と見られるようなことがあったので、杢右衛門ほか二名を組預けにしましたのでお赦しください、と口上を住職に頼み両地頭の所にいってもらう。後日、当人と組頭の詫び状を連判の上、名主より差し上げます、と付け加えてもらった。


 念のために元右衛門を呼んだ。作兵衛は尻馬に乗っただけだろう。元右衛門はしっかりした男だった。少しきつ過ぎるかもしれないが、押す人がいれば村役をするだろう。まだ三十の半ばだった。

「お手柄だったようだな。話をつけたのはお前さんだね」

 元右衛門は頭を下げたのか、上目遣いで兵助を見た。何か探っているようだった。

「とんでもない」笑いながら頭をさわった。

 座敷に上げていた。調べではなくて話をしている格好だった。

「隠すことはないだろう。どんなことなのか教えてくれないか」

 名請けの百姓は地持ちに押しかけたが、多くは諏訪社に行っていない。そこで話はついたと考えるしかない。熊蔵が裏があるというのはそういうことだろう。元右衛門は黙っている。

「では、違う風に訊こうか。なぜ八右衛門の所に行った」

「村役の決定が筋違いということで、地持ちとは掛け合わないと聞いて、それではいけないと思いました。何もしないのは騒ぎを大きくするだけです」

「八右衛門はどう答えた」

「なぜ村役は相談に来ないのかと訊きましたので、相対のものだから差し控えたのだろうと答えました。ただ、こういう風な騒ぎになったら、お願いしなければいけないと思ったので私どもが参ったと言いました」

 兵助は頷いて先を促した。

「もちろんご法度に触れるかもしれませんが、村役にはできなくても私どもには許されることがあります。すると八右衛門さんは、騒ぎが広がるのは不本意だから、地持ちで相談して何とかしてみよう、と言ってくれました。それで私どもは引き上げました。あったことはそれだけです」

「小作の者には伝えたのだね」

「もちろんです。今回はあの者たちの問題ですが、いつか自分たちにも係わってくることです。だから出向いたのですが、気勢を挙げようとは考えていませんでした」

「誰が集まりを呼びかけたのだろう」

「呼びかけというか、事情は聞いていましたから、要は前に話があって当日行ってくれと言われたのです」

「なるほど。ところで、吉兵衛が辞めるのは知っているのかい」

「決まったのですか」

「本人が言っていた」

「今度のことで名主さんは全然腰を上げようとしませんでしたので、不満に思っている人はいました」

「わかった。暇を取らしたな」

 話の筋は通っている。こんなふうに物事は流れていくのだな、と兵助は感じた。

 更に徳兵衛のところへ行った者の話が聞きたくて熊蔵に訊いた。

「調べておきました。徳兵衛さんには又蔵と関の者が行ってます」

 ──又蔵か。

 又蔵なら駆け引きはできそうにないな。

「又蔵のほかは誰だ」

「松之介と伊三郎でまだ若い者ですね」

 それでは軽くあしらわれてしまうな。甘く見たもので酒をつけたというわけかな。

「八右衛門の所の者が諏訪社にいたと聞いたが、どんな奴だ」

「何と言うのですか、番頭のようなことをしている利左衛門というものです。奉公人ですが質屋を手伝っているのか、何をしているのか田畑には出てきません」

「吉兵衛さんが辞めるというが何か噛んでいるのかな」

「やはり、睨んだ通りですよ。誰か筋を書いたものがいるはずです。どうも端からおかしいと思いましたよ」

「利左衛門の話を聞いてみるか」

「わかりました。呼んできます」


 利左衛門は三十四、五歳。どうも一筋縄では行かない感じだ。袷の着流しで細身だが機敏そうだった。頭を低くしていた。

「今日は咎めるつもりで呼んだわけではない」

 兵助は上り框に腰掛けていた。利左衛門と少し離れて熊蔵が立っている。

「申し訳ありません」

 利左衛門は殊勝にうな垂れた。

「話が聞きたいんだ。いいかな」

「なんなりとおっしゃってください」

「なぜ諏訪社へ行ったんだい」

「主人に様子を見てくるように言われました。ただ外から窺うつもりでしたが、見つかりまして中に引きずり込まれた次第です」

「なるほど。なぜ逃げ出さなかった」

「今更逃げても仕方なく思いましたし、どんな経過を辿るか見てやろうと考えました。だから解散のときは早く帰るよう説得しました」

「それは主人に言われていたのかい」

「そうではなくて自分の判断です」

「それでは連中の様子はどうだった。あるいは主人にどう報告した」

「思ったより静かで、興奮して騒ぎたてるというほどでもなかったです。ただ酒が入って声や動作が大きくはなりましたが、物を壊したりはしていません。人が増えて口論のようなことはありました」

「結局どんな話だったのかな」

「どうしても小作の引き米をしてもらうのだ、ということです。それができないならお屋敷に押しかけるということです」

「口論というと」

「酒の勢いかもしれませんが、これからまた地持ちの所へ押しかけようとか、反対にお屋敷にいくのはまずいのではないかとか、いろいろです」

「あの中でお前さんの知り合いというとだれになるのかな」

「家の小作の者は皆知ってはいますが、これといって付き合いがあるわけではありません」

「勝右衛門はどうかな」

「年のころも同じなので口は利きますが特にということもありません」

「そうは聞かなかったな」

 利左衛門は少し考えた。兵助は鎌を掛けた。

「勝右衛門から相談を受けただろう」

「……」

「どうなんだ」

 強く言ったので利左衛門は観念したようだった。

「確かに引き米のことで話は聞きました。それは私の仕事のようなものですので、主人に伝えるとは言いました」

「それだけではないだろう」

「いろいろ脅かすようなことも言いましたが、取り合いませんでした」

「なぜ脅かすんだ、頼みに来たのではないのか」

「それはそうですが」

 利左衛門は言葉に詰まったようだった。 

「分かった、もういい。別に悪いことをしたわけではないんだろう。すぐに引き米に応じれば騒ぎにはならなかった。お前さんのせいで騒ぎが起きたわけではない。お前さんの主人がそれに応じなかったからだ」

「滅相もない。悪いのは私なんです。早めに納得させて置けばよかったのです」

「騒ぎを起こすつもりはなかったと言うのか」

「こんな大事になるとは思わなかったのです。名主さんが主人の所に来て話がつくと思っていました」

「どういうことだ」

「名主さんに頼まれて引き米に応じる形にもっていこうとしただけです」

「貸しを作ろうと」

「そこまでは考えませんでした」

 兵助は一呼吸置いた。

「なぜ訴状を書いた」

「……」

「事件の処理は終わった。訴状は俺が預かって、表に出ることはないから本当のことを言え。そうでないと面倒なことになるぞ」

「申し訳ありません」

 利左衛門は膝をついて謝った。

「頼まれて、つい書いてしまいました。もちろん地頭様に届けるつもりはなくて村役さんの所に置くよう言いました」

「虚仮にされたようだな」

「そうではありません。しっかり見てくれると思ったからです。うやむやにしたくなかったのです」

 これ以上事を大きくするつもりはなかった。ただ真相をはっきりしておきたかっただけだ。吉兵衛に告げるつもりもなかった。


「利左衛門が訴状を書いたといつわかったのですか」

 利左衛門を引き取らすと熊蔵が訊いた。

「書いたのは杢左衛門さ。字は下手だったが文章ができすぎていた。勝右衛門でもなし、見たときに写したと分かったよ。ただ誰が書いたかは分からなかった。利左衛門と話していて確信したよ。これで終りだ」

 利左衛門にはずるそうな所も悪意も見られなかった。銘々が思惑を引きずって別々に動いていくだけなのだ。水が低い所に流れるような見えない傾斜がどこかにある。誰もが気付かないだけなのかもしれない。



   この編、完了。



 

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