夢の住人
光の届かない海にいるような、感覚。浮いているようで沈んでいる。ほっといたら、どこまでも深く潜れそうで、温度はなく、潮の香りがしてきそうだ。目は閉じているのか開いているのか分からないが、確かに僕は見ている。漆黒の流れを見ている。川にも見えるけれど、川じゃない。水ですらあるのか分からない。
例えるならそれは銀河から星を全て取り払ったような空間だ。僕は漂っていてもおかしくないのだが、身体は、そこに存在するのかさえ確証はない。景色だけがそこにあって僕は傍観者だ。何度も意識が途絶えて、また目覚めたら、闇の中にいるのだ。何度目の瞬きだろう、ふとした瞬間に影が見えたような気がした。真っ暗なので、影が見えるなんてことはないけれど、それでも何かの動きがあった。何かが揺らめきながら取り巻き始めた。
ふと切なくなった僕は、ジャンに戻ったような哀れっぽい声で何かを呟いた。それは、ベルガモットの名だろう。自分の声にさえ確信が持てない。
空間がねじれてきた。そのまま僕の形さえ潰されるかと思うと、言いようのない寒気が背筋を走った。
空間は壊れなかった。やっぱり元のようにただ、黒々としている。今感じたのは間違いなく痛みに似た恐怖だった。寒気はしなくなったが、手は汗ばんでいるようだった。
「孤高という言葉を理解していますか?」
囁き声が聞こえた。辺りは一層、闇を増したようだ。さっきとは違って明らかに耳元で含み笑いが聞こえたので、驚いて目を凝らした。しかし光のない場所では何も見えなかった。
「あなたは履き違えているようですね。孤独という意味とね」
ふっと目の前に影が降り立ち、舞い上がった僅かな風を感じた。それは風と呼ぶにはあまりに些細な気配と呼ぶべきものだ。
「目覚めたときに、あなたは悔やむのでしょう。全て偶像だと」
目と鼻の先に何かいる。普段なら鼻が利くのに、ここは音しか存在しない。
「誰なんだ」
「クロムウェルと、名乗っておきましょう。私たちの運命は交差しはじめたんですから」
「運命」と聞いて、鳥肌が立った。物体のない空間で僕は一点だけを睨んでいた。そこに醜い塊ができるのではないかと思いはじめた。
「ベルガモット。確かそう言いましたよね」
僕は唖然としていた。ベルガモットの名を他の何者かから聞くことなどないと思っていた。クロムウェルという輩は、ジャンだった頃の僕のことを知っている。そんなことがあっていいはずがない。
「何が言いたいんだ」
声を荒げても、クロムウェルは冷静な反応が返ってきた。
「あなたの苦悩を取り去ってあげたいんですよ」
冗談じゃない。赤の他人に何が分かるっていうんだ。だいたい、必要としていない。助けなどいらない。僕は一人で生きてきたんだ。
「不満そうですね。でも、これからどうするつもりですか? もうこれ以上はもたないんじゃないですかね?」
「もたないだって? 履き違えているのはどっちですか。僕は、自由奔放な生活に満足しているんですよ」
「果たしてそうでしょうか」
クロムウェルが声を潜めた。
「自由こそ、不自由なこともあるものですよ。特に目的のない自由こそね。時には何かに縛られてみるのも手かもしれませんね。どうです? 私と手を組みませんか? 私なら、あなたのよき理解者になれると思うのですが」
馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。
「医者にでもなったつもりですか。生憎、僕は忙しいんで」
「おやおや、いけない嘘ですね。忙しいことなどないのでしょうに。忙しく感じさせているのは、あなたのよく働く思考のせいですよ。つまらない単語からよく連想されているのを知っていますよ。先ほども、「運命」という言葉に痛く興奮されていました」
また、運命だ。しかも、何もかも知られている。もう、我慢できない。
「いい加減にしろ。姿ぐらい見せたらどうですか」
クロムウェルは忍び笑いをはじめた。
「残念ですが、時間のようです。いずれお会いできますよ。また、あなたの左手にある傷を見たいものです」