暗殺者
紅のカーテンを閉め切っていても、陰惨な明るさがまぶたの内側まで透けて届く。目は開いていないのに赤い影がちらつく。これだから朝は嫌いだ。もう一度寝つこうと、寝返りをうってみたけど、寝違えたみたいで、足がつっていた。そのせいで、余計に目が冴えてくる。
今日も白々しく冷たい太陽の光が差し込んでくる。仕方なしにベッドから這い出した。毛の長い赤の絨毯が足の裏に絡みつく感触が、今日は不愉快だ。夢のほとんどは覚えていなかったが、むずむずするような嫌悪感があるから、きっと十年前の夢だろう。
顔を洗うのも億劫で、鏡の前に立つまで夢遊病者のようだった。鏡の中で黄色と青い目が光なく浮かび、病人みたいで目じりが妙に鋭くなっているときている。昔はこんな風体じゃなかった気がして目をこすってみたものの、相変わらず表情は堅く、唇をきつく結んだ。寝る前からずっとはめている白い手袋が左手にあるのを確認して、腕を他人のものを投げ出すように下ろした。
起きていてもすることは何もない。僕の時間は止まったままだ。ベルガモットのいない暮らしにはもう慣れてもいいはずなのに、まだもの足りない。虐げられる暮らしに嫌気が差して僕は大富豪になることに決め、村から遠く離れた町で数年暮らした。その町にどうやってたどり着いたのか記憶はない。ベルガモットの最期ばかりが、脳にこびりついていたから、どこをどう歩いたか分からない。
最初こそ貧困で死にかけたものの、窃盗とか悪いことにも手を染め、今では多少の犯罪は手馴れたものになり、おかげで住みよい町も見つかって屋敷まで手に入れた。もう少しでメイドを雇う経済力もつくだろう。だけど、それでも僕は欠けている。
娯楽もやってみたが、だめだった。先月は隣町まで馬車を走らせてカード賭博をやってきて儲けたけど、何も嬉しくなかった。ここ数週間は普段なら絶対に立ち寄らない裏路地に入ってみて、女の子と遊んでみたりもした。それでも、僕は空っぽだ。苛立ちが募って女の子から逃げ帰ろうとしたほどだ。僕の中で渦巻いているのは他でもないベルとドニの二人きりだ。
母のことも思い出さないでもないが、どういうわけか影を潜めている。もっぱら愛おしくなるのはベルガモットただ一人で、そこに僕がすがっている。それに留まらず僕は自らを呪うのと同じようにドニを呪っている。あの時、ドニが来なければベルガモットは殺されずに済んだのだ。ドニさえいなければ。ドニに今度会ったら、僕の顔は醜くしわだらけになって、ドニを睨みつけるだろう。全身全霊を賭けて呪いの言葉を吐くだろう。
今までの生活と完全に縁を切ったので、名前もシトリーと名乗ることにした。悪魔の名前だ。悪魔の中でも大貴公子っていうのが気に入った。ジャンなんてどこにでもいるような名前はもはや必要ない。必要なのは偉大な名前だ。話し方も敬語に変えた。敬語で話すことでいい商談が得られることもあるし、相手を油断させやすいということも気に入っている。純粋無垢な少年とは、おさらばしたわけで、面影がないことも当然のことだ。今更誰が僕の面影を気にしているというのだろう。
都会国では高級マンションという建造物があるらしい。そこに住むのが今のところ夢と言えそうな夢だが、実際は鏡の前で顔を洗うという基本的な生活習慣さえ、決めかねている。水は嫌気がするくらい冷たく、くだらない将来像などかき消してしまった。しかめっ面のまま顔を拭いて、髪までとかしてみたが、食事をする気にもならないし、腹がすいたためしもないので、もう一度わずかな安らぎを求めてベッドに舞い戻った。こうしてうつ伏せに寝転んで布団の羽毛を引き抜こうとするほど、手持ち無沙汰だと感じた。
起きるでもなく、仰向けになって消したままのシャンデリアにかかった綿のようにひらひらする蜘蛛の巣を見ていた。虫は大嫌いだったが、掃除をする気には到底なれなかったので、そのままにしてある。かろうじて生活感のある本棚まで行きたいが、寝る前に読んだ本はどれだったかと思い出そうとしながら結局ベッドからは抜け出せない。そっと手でベッドを押さえつけて、近代国のマシュマロという菓子の上に寝ているような心持で、少しずつ力を加えては、そっと離して戻ってくる軽い反発をささやかに楽しんだ。
薄目を開くとナイフが降り下ろされた。軽く首を傾けて避けたので、それはベッドに深々と刺さる。羽毛が吹き出して舞う。少々拍子抜けした。耳のいい食人族の屋敷に朝も早くに首を掻き切りに来るくらいだから、野獣のような男かと期待したのに。背丈は僕とほぼ変わらず、細身で頭からフードを被り、顔には黒い羽でできた仮面を被っている。
布団ごと男を蹴り飛ばし、枕の下から二丁の愛銃を滑らせ抜いた。ここ中世国では珍しい代物だ。拳銃は都会国から来た旅の商売人から買い取った。右手で使うのはブローニングHP。左手に持つのはチェスターズブヨロフカ75(CZ75)だ。それぞれ十三発と十五発入っている。
暗殺者は転がって僕の部屋を飛び出た。追い撃ちしても良かったが、扉のすぐ傍の悪魔ルシフェル像を間違って撃ちたくなかった。部屋を飛び出ると大きな刃物が頬をかすめた。鎖鎌だ。すぐ後ろから戻ってくる風の音を予期しながら立て続けに三発撃った。廊下に逃げ込まれて、危うく突き当たりの悪魔アモン像を射抜くところだ。そうだ、書斎に近づかれたら大変だ。本棚には、「悪魔学」「悪魔の美学」「呪いの言葉」「図解黒魔術」といった類の大事な本が置いてある。
後ろから戻ってきた鎖鎌を手でつかんだ。鎖がぴんと張る。引き寄せたかったが暗殺者は武器を放棄したらしく途中で手応えがなくなった。せっかくなので地下室の武器庫にでもしまっておくか。窓を割る音がして思考が止まった。まずい、一階はいつでも悪魔召喚の儀式ができるように書斎以外の窓は全て塞いであるはずだ。書斎に入られた。
呪いの言葉を呟きながら書斎に飛び込むと暗殺者はとっくに姿も形もない。本棚には相変わらず悪魔と黒魔術の本が整列している。取られたものはなさそうで胸を撫で下ろした。
まだ暗殺者は近くにいるはずだ。急いで町まで降りた。早朝とあって吸血鬼染みた僕の服装に不満を漏らす商店のおかみさんも、店はまだ閉めている。暗殺者の匂いを辿ろうとしてめまいを感じた。ヨリソリアは、鼻が利く。個人を特定することもできる。耳もいいし、爪も鋭く、犬歯だって長く実際獣になることもできるのが、食人族と呼ばれる由縁だ。
近づくにつれ吐き気もしてきて、とうとう足を止めた。暗殺者の臭いが醜悪というのではない。何かこう、気がかりなことができたみたいで、自分でもそれが何なのか分からない有様だった。忍び足で枕元に近づいて来たときから気づくべきだった。臭いのことを悩み始めると頭痛もしてきた。個人を特定しようとするほど、不快な拒絶したくなるような鈍い痛みが頭を巡る。
暗殺者は油っぽい臭いのする赤レンガの宿屋の屋根にいた。
「降りてきたらどうですか?」
無言を貫き通しているあたり、正体を知られたくないらしい。理由もなく襲われてはプライドに傷がつくので問いただした。
「何故、襲ってきたかぐらい話して下さいよ。でないと、こっちもやりがいがないじゃないですか。僕がこの町の悪人だからですか?」