プロローグ
蝙蝠が飛び回る空を背に、人目を避けて足早に納屋に滑り込んだのは、幼い頃の僕だ。栗色の髪を肩口まで伸ばした、少女のような幼少時代の姿が目の前に現れたとき、これは夢だとおぼろげに感じた。軋む木製の扉が閉まっていく。幼い少年が危なっかしく握り締める鋭利な刃物が隙間から見えた。
もう納屋の中にいた。右目が黄色、左目が青のオッドアイであるのは今も変わらないのに、昔は丸く大きな瞳をしていたのかと思い出した。純粋な目が蝋燭の火を受けて、膝をついて深々と頭を下げる妹ベルガモットの姿をぼんやりと写している。ベルガモットの亜麻色の髪は当時の僕よりも短く、僕よりも少年らしく見える。今にも泣き出しそうな潤った瞳は同じくオッドアイだ。ベルガモットの向こうには、木箱を四つ繋げてつくったテーブルの上に青白い顔をした母が永遠に眠っている。僕はこの後に呟く僕の言葉を一緒に呟いてみた。
「ベル。村の人はまだ誰も母さんが死んだことに気づかないよ」
泣き腫らした目でベルガモットが訴えかけてくる。僕は夢の傍観者のはずだったのに、昔の僕、ジャンに乗り移った。手に大きなナイフが握られていることを何度も恨めしそうに確認する。夢だと分かっていたのに、頼りない気持ちに立ち返った。握ったような錯覚と、重さを感じない違和感。
病気の母さんが死んでからもう一時間が経つことも知っている。そんなことより臭いも鼻につきはじめたので誰にも見つからないだろうかと焦燥に駆られながら、手順を暗唱しはじめた。食人族には掟がある。葬儀は誰にも食人族以外の人間に背中を見られてはいけない。素早く死者の魂の宿る心臓を取り出し、食さねばならない。そうすれば、死者の魂は永遠に生ける者の傍に在り続ける。取り出す瞬間には影を踏んではならないなど、細かな注意点があった。
「お兄ちゃん、本当にやるの? お兄ちゃんと二人でママの胸を切り開けば、ママも怒らないよね?」
「怒るわけないよ。母さんは死ぬ間際に言ってたじゃないか。掟に従って立派な大人になりなさいって」
ベルは不安そうに僕を見上げた。
「でも、村の人が何て言うか。ベル、怖いよ」
食人族は迫害されている。葬式のときに人間を食べるという文化が理解されないのは仕方がないのかもしれない。僕らが村に属することができているのは、食人族であることを隠しているからにほかならない。
「だから見つからないように早くやればいいんだよ」
ベルガモットが怖がらないように、母さんの寝顔に布を被せた。母さんの青白い胸をはだけた。死してもなお、ふくよかな胸だったが、上下に動かないのはやはり死人である証なのだろう。片方の乳房に手を添えるのも躊躇われた。家畜の肉を切る感覚でナイフを押し込んでいいものか悩んだ。
しかし、悩む時間はあまりない。優先すべきはことの迅速さだった。母の胸にナイフを突きたててもなかなかナイフは入らなかった。目も背けたくなるような血の量を想像していたので、多少なりとも冷や汗をかいた。刺さったときには、ひるんで手を止めてしまった。氷のような冷たい血が手にかかったときには、もう母さんはこの世にいないことを痛感して、涙ぐみそうになったし、ベルガモットが息を潜めたのも聞こえた。
「すぐ終わらせるよ」
手早く成し遂げなければ、母とこれからも一緒にいられない。冷たい血が両の手を覆うが、意識は母の胸の中にある心臓へと集中していく。胸の中といっても意外に広くて、ナイフで中身をかき出していくしかない。母の肉片がぼろぼろと土の上に零れていく。急がなければ母の魂がこの世から解き放たれてしまう。
じれったくなった僕の手は母の胸の中をまさぐっていた。今やもう、手はぬるぬるで赤黒くてかっている。母の心臓に指が触れてもそれが心臓とは気づかなかった。何度か握って、少し他と違って堅く筋肉質だったのでこれだと分かった。繋がっている太い血管を切り離し、ようやく掌に乗せることができた。思ったより形がいびつで、ただの肉片と見た目は変わりがなかった。
「ベル。お前からだ。母さんとこれからも一緒にいられるように、お願いを忘れるなよ」
ベルははじめこそ、震える手で母の心臓を受け取ったが、数回深呼吸をしてから両手で水をすくい飲むように口元へ運んで行った。
「これでママはベルといてくれる?」
蝋燭が少し短くなって、納屋が薄暗くなった気がする。ベルの顔を下から照らす炎は、これから起こる悲劇を予感させはしなかっただろうか? 僕は母が戻ることだけを願って力強く頷いた。
「ずっと?」
不安と希望の入り混じった顔で僕を見つめるベルガモットの瞳は、いつもより潤んで見えた。
「ルアンヌをどこへやった!」
納屋の戸が開け放たれ、肩を怒らせて荒々しく入ってきたのは父のドニだった。
父はオッドアイでもなければヨリソリアでもない。父は母さんのことを食人族だからといって差別しなかった。悪く言えば、女であれば分け隔てなく愛した。少々無精ひげになっていて、金髪の髪は丁寧に巻かれている。今までどこに出かけていたんだろう。二日も顔を出さなかった。襟元が乱れているし、薔薇の香水臭い。父さんは香水なんてつけないのに。
父の後ろに手に斧を持った村人たちが並んでいる。一体どういうことだろう。
「ベルガモット! お前!」
父の怒りは僕たちに向けられていた。ベルガモットの口元から真っ赤な血が滴っているからだ。
「父さん、これは、母さんの遺言なんだ」
「ジャン。お前も食べたのか?」
その言葉は震えていた。怒りと恐怖の混じった声だった。鋭い瞳で射られた僕は首を振るのが精一杯だった。
「お前は食べてないんだな?」
父さんは何度もそのことを確認した。僕はただ唖然としていた。ベルガモットの悲鳴で恐ろしいことが目の前で起ころうとしている事態を把握した。村人が一斉に斧やくわでベルガモットを叩きはじめた。
「ベル!」
亜麻色の髪が頭皮ごと、床にずり落ちる。黄色の右目は血で濡れていた。なお幾度となく振り下ろされる斧の鈍い音に耳がびくんと震えた。ベルの右腕が切断される。再び斧が振り上げられたときにもまだ断面が斧にくっついている。再びベルの背中に下されたときに剥がれて僕の目の前に落ちてきた。床に落ちたその腕を忌々しげに踏みにじる人々、噴き散る腹腸が飛び出て、蛇のように床を僅かに這ったのも視界の隅に鮮明に映った。
足が震えて動けない。すくみそうになるのを必死で堪えて僕は夢中で叫んだ。ベルの名を呼べば自然と身体が動いた。一番後ろの男性と男性の間に分け入ろうとしたら、父さんが僕の頬を殴った。
「俺の愛したルアンヌはお前たちが殺したんだな」
「ち、ちがうよ」
歯が折れたかと思うような痛みと、口の中の血の味を耐えて、言葉を発するのがやっとのことだ。
「死人の心臓を食べて魂が手に入る? そんなことがあってたまるか! 俺のルアンヌは誰にもやらん。きれいに土に返してやりたかったのに。お前は! あのくだらない掟を信じていたのか?」
震える声を振り絞った。村人たちが僕を人間でもないような目で見ていることに気づいた。
「父さん。僕たちは、母さんと一緒にいたいだけだよ!」
「お前たちは悪魔だ! 悪魔なんだ」
父さんにこんなことを言われるとは思わなかった。もう頭は混乱しきっていて、地に足をついているのかさえさだかではない。瞳はどこで栓が抜かれたのか分からない涙でいっぱいになった。視界が霞んでベルガモットの砕かれた身体をはっきりと見ることができなかったからよかった。ずっと凝視していたら、僕はずっとこの現場に立ち尽くしていることになったはずだ。それでも脳裏にはベルガモットの残像を焼印されたのだ。むせるような血の臭いと肌に溶ける悪寒とともに。
僕は父さんに村の外まで乱暴に引きずられた。ひたすら喚いていた。言い表せない痛みと戦っていた。母を返してとか、ベルを返してとか。そんなようなことを叫んだが、それだけでは到底足りなかったし、声に出すほど胸が潰れる思いがする。父の手から逃れようともがいたとき、全身の毛が逆立った。いや、毛が僕の両腕を覆った。喉から顔まで毛が這い上がって来る。今や全身が灰色の毛で覆われる。
父さんは怖れていた事態が起きてしまったような悲鳴を上げて後ずさった。
「悪魔め! お前は追放だ! もう二度と戻って来るな」
夜風が肌に冷たかった。牙が僕の唇を押し出して前のめりに伸びてきた。僕は、父さんに飛びかかった。