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◇不思議の湖:ナツの視点◆

 結局、アヴェルスはエルトリーゼをほうっておけなかった。新月のあの晩、彼女のあとを追って湖に入った。

 あの湖に入ることを選んだのはエルトリーゼ自身であるし、戻って来る可能性だってほとんどないのだからほうっておけばよかった。だが、もしも彼女が戻りたいと、万に一つでも思ったとき、あの世界は牙を剥くだろう。


(ま、無駄だろうけどな)

 最初は様子を見るつもりでナツという存在に擬態してあの世界に入りこんだ。エルトリーゼと違って魔法の才能もあるアヴェルスにとっては、簡単なことだ。

 帰り道が開くのはもとの世界での満月の晩。こちらの世界の流れで考えると花火大会だという日がちょうどその日にあたる。それまでにエルトリーゼは決断するだろう。少なくとも、そう信じたかった。


 こちらの世界の知識はこの世界に入った時点で与えられている。アヴェルスがナツという役割を演じることになったとたん、この世界はナツという存在を再現した。その家や家族、もちろん彼は、彼らの前でも完璧に「ナツ」という人間を演じた。

 違和感を持たれれば面倒なことになる。この世界は裏切り者を許さない。


(あれが前世ねえ……)

 初めてセツナ・ドウジマという少女を見たときに抱いたのは違和感だった。

 エルトリーゼとは目の色も髪の色も違う。だが、その雰囲気や気性はやはり変わらない。


 まぁ、もともと彼女はエルトリーゼであり、すでにセツナではないのだから当然かもしれないが。

 めずらしく早起きして、気まぐれに学校に行くことにした、として家を出てセツナの家の前を通りかかると、彼女に声をかけられた。

 部活動をすればいいのにと。


(こいつ……こっちの世界がよほど好きだったんだな、いや、まぁあのじゃじゃ馬ぶりを思えば当然か。公爵令嬢なんて不自由だったろうな)

 少しばかり哀れに思ってしまった。令嬢でさえ不自由だったなら、自分の妻になった今彼女はもっと不自由だろう。

 とはいえ、そのことは今考えてもしようがない。決断するのは彼女だ。


(弓道ねえ……こっちのとは少し違うから手をださなかったのか、あるいは、前世が恋しくなるからやらなかったのか……)

 どうやらセツナは弓道部だったらしい。エルトリーゼに関しては、弓が得意だとかそんな話は聞いたことがないが。


 元気に走っていく背を見ていると、あいつにはあの高いハイヒールは向いていないかもしれないなどと考える。公の場ではともかく、普段は好きな靴を履かせてやったほうがいいかもしれないと。


(俺も滑稽な男だな)


 おそらくこの先に彼女の想い人が居るのだろうと思うと、胸が焼ける思いだった。

 しかし、エルトリーゼの決断を見届けるまではここに留まって、彼女を見守ろうと決めていた。もしも、もしもエルトリーゼとして生きる決断をするのなら、そのときには護ってやらなければならないだろうし。


 電線の張り巡らされた空は檻の中に居るように感じられた。もとの世界ではなかなかお目にかかれないものだと思えば、今のうちによく観察しておこうと考える。

 やがて見えてきた学校、弓道場の方向へ向かえば、セツナとシヅルの姿がある。

 それに少し紫の双眸を細めて、唇を噛んだが……セツナの笑顔がぎこちないことに気づいた。


 昔の恋人に再会したからか? それとも、うしろめたいとでも思っているのだろうか。

 後者だとしたら少しは気分が晴れる、アヴェルスという人間に対して罪悪感があるというのなら。もっとも、確認のしようもないのだが、そのうち分かるだろう。


(本当によく似てるな……ムカつく)

 シヅルという男は確かにレディウスとよく似ていた。というか、顔だけ見ればそっくりそのままだ。雰囲気や言葉遣いは異なるようだが。


 そのあとのことだった、昼食時、セツナに呼び止められて彼はそちらに足を向けた。

 今の自分はアヴェルスではなくナツなのだから、それらしく振舞わなければならないのがもどかしい。

 どうやらセツナはナツの瞳の色を気にしているらしい、そう思うと、少しだけ嬉しかった。自分のことなど一切忘れてこの世界を謳歌された日には、諦めざるをえないと思っていたから。


(ま。今は教えてやるわけにはいかないが……おまえの邪魔をするつもりはないしな)

 フードを外す前に魔法で目の色を変えておく。今、ここにアヴェルスが居てはいけない。

 そうしたらその時点で、この世界はエルトリーゼに、アヴェルスに牙を剥くだろう。

 花火大会に行きたいという、セツナの願いを邪魔するつもりはない。

 ナツの双眸を確認すると、彼女はどこか落胆したような顔をした。


(少しでも、俺だったらって期待してくれてりゃあなあ)

 そう思いながら、ナツのふりをしながら彼はその場を去ったが、そのあとすぐセツナの隣に座るシヅルを見かけてまた胸が焼けるように痛む。


 最初は、こんな子供っぽい女と思ったのは確かだが、随分入れこんでしまったものだと思う。きっとエルトリーゼでなければ、こんなに胸を焦がすこともなかっただろう。

 これが他の令嬢なら、いつものようにしていられた。きっとなんとも思わなかった。

 なぜなら、アヴェルスが素顔を明かすこともなかっただろうから。

 最初は素の自分で居られるということが、こんなに安らぐことだと思っていなかった。


(一番最初の選択から間違えたな)

 エルトリーゼに演技をするなど滑稽だと素顔を明かしたが、そのためアヴェルスは心の深いところまで彼女の侵入を許してしまったように思う。

 せめて、それがお互い様であればと思うのだが、望みは薄いだろうか。


 人間のスタート地点はみんな同じだというが、それなりにそれぞれ生まれつき個性はあるように思う。

 そういう意味合いで、アヴェルスという存在は最初から王子など真っ当に務まる存在ではなかったのかもしれない。自分はきっと生まれつきあまり性格がよくなかった。

 他人の嘘や演技に目敏く気づくうちに、他人と理解し合うなど馬鹿馬鹿しいと思い始めたのだ。誰も彼もがアヴェルスの機嫌を取りたがるが、こちらはそんなこと望んでいない。


 十歳になる頃には、誰とも分かりあえることなどないと思って、こちらも演技と嘘のみで対応するようになった。唯一レディウスのことは信頼していたが、それがレディウスの「信頼」と同等のものでないことは彼もよく分かっていただろう。

 ユーヴェリーのことも大切に思っていたが、彼女の前で素顔を晒す勇気はなかった。

 恋しく想っていたからこそ、軽蔑を恐れたのだ。


(それで言えば、最初のうちエルトリーゼをなんとも思ってなかったのは運がよかったな)

 思えば、エルトリーゼとまともな会話をしたのは婚約をした日が初めてだった。

 それまで、それまでずっと、父の命令で彼女とは距離を置かされていた。別に興味もなかったし、理由を考えたこともなかったが、両親はそれなりに自分のことを案じていたのかもしれない。


 確かにアヴェルスの素顔を知ってなお、受けいれられる令嬢はエルトリーゼくらいだったかもしれない。他の、ユーヴェリーは分からないが、ただ上辺だけのアヴェルスしか知らない令嬢たちは卒倒するかもしれないと考える。


 まあ、だからこそ最初はなぜエルトリーゼなのだと思ったものだが。

 幼い頃から年齢にそぐわない瞳というか、雰囲気というか。違和感のようなものを強く感じさせられる相手だったのだ。


(あーあ、本当に貧乏くじだ。なんだって好きな男が居る女なんかに惚れちまったかな)

 本当にただの政略結婚だったなら、ここまでしてやらなかっただろうに。

 エルトリーゼが初めてアヴェルスの前でシヅルの名を呼んだ日のことをよく思いだす。

 なんとも腹立たしいことだ。あのときはまだそこまで苦しくならなかった、けれど今は胸が強く痛む。


 けれど結局アヴェルスはエルトリーゼの選択を待った。

 打ちあがる花火を見あげて、この世界の花火は火薬を使ったものなのかと考えていたときだった。

 周囲の様子が変化したのを敏感に察して、セツナが、エルトリーゼが居る方向に視線を向けると彼女はシヅルに両肩を掴まれていた。


 それを見たとき、嬉しくなかったと言えば嘘になる。

 彼女は戻ることを選んだのだと、この世界を裏切ることを選んだのだとすぐに分かったからだ。シヅルよりも、アヴェルスを選んでくれたのだ。


 そこから先は大脱走。怪物のようになった人々が追いかけてくるのは彼女にとって恐ろしかっただろうが、アヴェルスにとっては不思議と心が軽くなるものだった。

 その光景のすべてが、エルトリーゼが自分を選んでくれた証明であったから。


 ◇◇◇


 もとの世界に戻ってきて数日、夜を迎えた寝室でさえ肌を隠すような夜着を選ぶエルトリーゼを可愛らしく思いながら、アヴェルスはベッドの上ですぐ隣に横たわる彼女に声をかける。


「なあ、どうしてこっちの世界じゃ弓に手をださなかったんだ?」

 相変わらず背中を向けて縮こまっていた彼女は、不思議そうな顔でころんと身体ごとこちらを向いた。

「……何よ、急に」

「前世では弓道をやってたってことを思いだしてさ」

 アヴェルスが言うと、エルトリーゼは水色の瞳を逸らして頬を膨らませた。


「……うまくいかなかったのよ、どうしても」

 黙って続きを促すと、彼女はどこかやけになって言う。

「こ、この身体は小さいからっ! どうしてもセツナの感覚が残っててうまくいかないのっ、それにこの世界では弓っていうと狩りに使われることがほとんどだし……それには興味ないもの……ひゃ」

 ふにっと、彼女の頬をつつく。もともとうまくいっていたことがうまくいかないというのは歯痒かっただろう。けれど、彼女には悪いがそんな姿も可愛らしい。


「な、何よっ、言いたいことがあるなら言いなさいよっ!」

「もしもおまえがまたどうしても弓に触れたいときがあって、勝負相手が欲しいなら相手になってやるぜ。狩りは嫌でもそういうのは好きだったんだろ?」

「へ……」

 エルトリーゼはきょとんとしていたが、やがて拗ねたように言う。


「……あなたが相手じゃ、敵いっこないじゃない」

「おまえはそういう奴に勝つほうが楽しいんじゃないのか? 楽に勝てる相手を選んで勝負するやつには思えないんだが?」

 そう言うと、心外だというようにエルトリーゼが言う。

「当然でしょ! 言ったわねアヴェルス、絶対絶対負かしてやるからね! せいぜいあとで私に勝負を挑んだことを後悔するがいいわ!」

「ああ、楽しみにしとくよ。ところで俺が勝った場合は何をしてくれるんだ?」

「は?」

 にっこりと微笑んで言うアヴェルスに、エルトリーゼはぽかんとしている。

 そしてさあっと青ざめると、またころりとアヴェルスに背を向ける。


「無効で、無しで、やっぱり無しよ。わ、私があなたに敵うわけないじゃない、いやだわー」

「啖呵切っといて逃げだすのか? なんだ、たいしたことないな。このあいだは護身術を身につけたいとか言ってたが、口先だけか」

 こう言えばおそらく引っかかる。そう思ったのは正解だった。

 エルトリーゼはまたころんとこちらを向くと頬を赤く染めて言う。


「なっ、なんですって! 護身術だって私は本気よ! やるわよ、やってやろうじゃないの! 絶対絶対ぜーったい! 後悔させてやるからね!」


 あぁ、可愛い。自分は頭がおかしくなったのではないかと思うほど、この少女が愛らしくてしようがない。

 軽くつつけば引っかかるところも可愛いのだが、ここに関しては他人に利用されそうで心配でもある。

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